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もう一度生まれても、やっぱり宣教師」 (釧路黒金教会での講話)
"If I Were To Be Born Again,I Would Be A Missionary Again."

 日本のことわざの意味、ほとんど判るけどね、一つだけよくわからないものがあります。それは「残り物には福がある」
 残り少ないビールを「飲め」と言われたら、わたしならもう一本新しいのを開ければいいのにと思います(笑)こんなこと言ったら立派な先輩たちに怒られるかな。
I can understand most Japanese proverbs,but there is one that I don't understand,and that is - "Last but not least" -
For example; If there's a little beer left in a bottle and someone says,"finish it",I don't want to. I want to drink the fresh beer from a newly opened bottle. I suppose my older brothers in the mission would become angry with me for this.

 わたしの生まれたのは小さな村で、人口5000人くらいの酪農も農業もあんまり出来ない石だらけのところでした。私の家でも畑の準備をするのに石拾いが必要でしたが、学校から帰ってくると「石を拾いなさい」と毎日言われてましたね。麦を植えると雑草が出てくるのですが、それを抜くのも子供の仕事でした。
 麦とかジャガイモといったものは貧しい土地から作るのですが、やっぱりたいしたものではないんですね。よく父に、「お前、このような仕事に向いてないみたいだね。やりたくないみたいだし、修道院に入れてもらうしかないだろうね?」と皮肉を言われましたね。毎日そのように言われていると、そのうちにわたしも「入ってやろう」という気持ちになったこともありました。
I was born in a small village with a population of about 5,000 people. Although the land there is very stony, the people lived mainly by dairy and agriculture. In my home,it was necessary for us to pick the stones before planting. My parents told me to pick up the stones every day when I came home from school. We also had to clean the weeds from between the wheat rows each day by hand. This was the chileren's work.
My father always said to me,"You don't look suited for this work. If you don't like farming,the only other way for you is to join the seminary." I think he was being cynical. After hearing the same thing every day though, I began to think,"Why not join?!"

 農業だけでは生活ができないから、羊2・3頭、山羊2頭、牛1頭を飼っていましたが、わたしの担当は羊と山羊の世話でした。学校から帰ってきたら日本の子供たちは「勉強しなさい!」って言われるでしょ。でもねわたしの場合は「羊が待ってるから、はやく行きなさい!」って言われましたね。わたしは、羊も、とくに山羊が大っ嫌いで、よく逃げちゃうし、死ねばいいって思ってました(笑)
We had one cow,two goats,and two or three sheep,because we couldn't live by farming alone. I was in charge of the goats and sheep. In Japan,the parents tell their children to study after school,don't they? In my case,however,myparents told me to go and take care of the sheep. I hate goats and sheep because they were always escaping. I especially hated the goats. Each time they escaped I wished they would die.

 学校に40分かけて通うのですが、その前に搾った牛乳、ん?山羊の牛乳?、牛乳と言わないね。山羊のミルクと言えばいいかな、そのミルクをチーズを作っているところまで持っていかなければならないんですね。いつも私の役割、わたしは残念ながらね、運が悪かったのはね、長男として生まれたのでした(笑)弟たちに行かせようとすると、弟たちは行きたくないから泣くんですね。そうすると「お前のせいでしょ!」って。まーほんとに、運が悪かったね(笑)
It took 40 minutes to walk to school everyday. Before going to school,I had to carry the goat's milk to the neighbor' place where they made it into cheese. Than I could go to school. This was my routine everyday. Unfortunately I was unlucky to be the first son. If I tried to make my younger brothers do some of the work,they would cry because they didn't want to do it. My mother said it was my fault that they cried. I was really unlucky.

 さきほどルカ神父様が子供のころを話しましたが、その中で、教区の神父様たちの服はボタンが多いとか、まーそうね、わたしもあんまり良い印象はなかったですね(ニコニコ)。
 毎週土曜日に土曜学校に行かなければならない。土曜学校はね、勉強よりもね、まず告解が必要でしたね。赦しの秘跡、まーわたしの罪は、お母さんから砂糖をかっぱらったなど、でした。あるとき神父様はわたしに「告解の仕方をしらないのか。勉強してから戻ってきなさい」といいましたね。まっすぐ家に帰ったら母に叱られるでしょ?「どこに行ってたの?ちゃんと告解したの?」とか。ぶらぶらしながら帰りましたね。それで次の土曜日、おそるおそる告解にいったのですが、そのとき神父様は半分眠っていてぜんぜん気がつきませんでしたね(笑)
(Fr.Luca just talked about his childhood. In his talk he said that parish priests have a lot of buttons on their habits. I have the same impression.)
On Saturday,I had to go to Saturday school. Ialso had to go to confession. My confessions were usually things like,"I stole sugar from my mother",or something similar. One time the priest said to me,"Don't you know how to confess? Study first and then come." I then wondered,"If I went straight home,my mother would become upset and ask me where I've been,and if I'd been to confession." So I walked leisurely home. The next Saturday, I nervously went to confession again,but the father was so tired that he didn't recognize me.

 そんな子供時代でしたが、わたしの村の近くには、フランシスコ会の修道院があって、ある時期になると修道士たちは托鉢しに来ましたが、ぶどう畑に彼らは歌いながらやってきてタダでもらっていくのです。それで、麦の収穫の時期になったらやっぱりやって来るんですね。わたしは子供ながらに、この人たちは前もって調べてくるんじゃないかって思ってました(笑)それに彼らはね、みんないつも幸せそう。とにかく、その修道士たちが来たら、村のみんなが「修道士様、一杯飲みましょう」と言うんですね。彼らは朝から酔っぱらっていて、だからいつも嬉しそうだったのかもしれないね。
This was my childhood. There was a Franciscan Monastery near my village. Sometimes the monks came asking for alms. They came to the vineyards singing,asking for free donations of grapes. During the wheat harvest they came again,singing and asking for wheat. From my eyes they checked first and then came. They always looked very happy. When those monks came,everyone in the village invited them to drink,even in the morning.

 わたしはこの嬉しそうにしている修道士たちをみて、この人たちは何のために生きているのか?って思うようになったのですが、やっぱり、人生を楽しむためかな、と思ったんですね。それで「よし、決めた!」って思いました(笑)
 それでお父さん、お母さんに言ったらね、母は「んー、あなたには向いているかな」っていいましたね。父は「んーまあ、この人は仕事で役に立たないけど、おそらく坊主としてなら役に立つだろう」と言ってくれましたね。
That's why they looked so happy. When I saw these happy monks, I wondered what their purpose for life was? I thought a lot about this and came to the conclusion that they wanted to be happy. That's when I decided that this is what I want. I told my father and mother. My mother said,"Maybe it's good for you" My father said,"Well,you're useless for farming. Maybe you'll be O.K. as a monk."

 神学校に入ると、そこにはルカ・ボナヴィゴ神学生もいて、そのときから友になっているんですね。彼もわたしの裏表を知っているけど、私も彼の裏表を知っている(笑)もう50年近く付き合っているからね。まあ、わたしは威張ることはないけれど、彼は威張ることがあるかどうかは判らないけどね(ニコニコ)
 でもね、わたしも一つのことだけ威張ることがあります。それはね、ある人に「あなたはもう一度生まれるとしたら同じ道を歩みますか」って言われたのですが、わたしは「同じ道を歩みますよ」って言いいましたね。この人に「あなたは、奥さんともう一度結婚しますか」って質問したら何と答えるだろうね。みんなの前では答えないでしょう。今晩恐ろしいからね(笑)
When I entered the Seminary,I met a seminarian named Luca Bonafigo. We have been friends ever since. He knoes my two sides and I know his two sides. We have known each other for 50years. I'm not overly proud of anything,but I'm not sure if he is the same. The one thing I am proud of is,"If you were born again,would you choose the same path?" My answer was, "Yes!" If I were to ask this person the same question,what would answer? He probably wouldn't answer it in front of people,especially his wife becouse he would be afraid to go home.

 イタリアのジリオラ・チンクエッティさんという人が歌っている歌の中に、こういう言葉があるんですね。「知らないのか~、一番いい年は、今のあなたの年です」というもの。知らないのか~、一番いい奥さん、一番いい旦那さんは、今の、あなたのご主人、今の、あなたの奥さんでしょ。だから、奥さんに向かって「出ていけ!」という前によく考えてください。出て行かれたら、みじめになるのは自分だから、ね(笑)お茶も入れられない、パンも焼けない人とかね、貧しい生活がまってますね。
The Italian singer,Giriolla Chinquetti,used to sing,there's a phrase,"Don't you know the best age is the age you have now." I say, "Don't you know the best wife/husband, is the wife/husband you have now>" Isn't that right? So,please think very carefully before you tell your wife or husband to leave. If you wife leaves your home,you will be the one who becomes miserable. You can't make your own tea or cook. Your life will become mentally poor.

 最後になりますが、わたしは、わたしみたいな人でも、司祭・修道士という役割を神様からいただいて、何と言いますか、宣教師になって、まだ一度も後悔をしたことがありません。
God led me on the path to be a monk, even someone like me. From the Beginneing,I've never regretted being a missionary.

フランシスコの生き方

 私は第二の太平洋戦争中に北イタリアの農家の家で生まれたのですが、主にサクランボ・ブドウなど大自然の物を作って暮らしていました。
 毎日40分ほど歩いて学校に通い、生まれた村のすぐ近くには、フランシスコ会の修道院がありました。
 そこの修道士達は、四旬節の時日曜日に告解を聴くためとか、御説教をするためとか、いろいろな機会に私の村まで来ていました。
 又自然の収穫と共に、麦やぶどう・サクランボやとうもろこしなどを托鉢にみえることもありました。
 いつも貧乏な修道士達は裸足にサンダルを履き、荷物を入れる馬車・馬車を引く馬かラバ・又はロバをつれ、いつもニコニコして歌をうたいながら、家から家へ回り「主の平和」と挨拶をしていきました。
 お昼御飯を、いろいろな家でごちそうになり、ぶどう酒も好きで酔うほどではないのですが、顔を赤くして飲んでいたことを覚えています。
 私はまだ5,6歳の頃だったのですが、この修道士達の幸せそうな顔は、私にとっての喜びとなっていました。
 冬の時、寒くても裸足で歌をうたいながら歩いている姿を見ると私は不思議に思いました。
 父や母は修道士達の生活は大変だと話をしているのですが、私にはこの修道士達の人生が楽しいものに見えたのでした。
 この頃から私の心の中では、大きくなったら修道院に入りたいと思うようになりはじめました。又アシジの聖フランシスコの生き方は積極的であり、人に喜びをうるものだと分かりはじめ、私も修道院に入り修道士になった時、自分の心の中にもその喜びがあふれる様になるためにも、もう一度聖フランシスコの歩んだ道を歩く必要があるんだなあと思いました。
 もちろんそれは簡単なものではないということが分かりました。
 毎日悪と戦い、自分の悪い傾きと戦いながらイエズス様のように、イエズス様をモデルにして生きる様にしなければ決して自分の心の中に喜びが生まれてくることは出来ないからです。
 日本に来て、日本人はアシジの聖フランシスコにものすごく魅力を感じていることが分かりました。なぜ魅力を感じているのかは、はっきりとは分からないのですが、おそらく自然に対する尊敬の念と、人間のわび、さび、しぶみに共通する思いがあるのではないかと思います。
 初めにわび(侘び)は、おちついていて、さびしさのあるおもむき、閑寂など徘かいや茶道の精神を示しているのですが、フランシスコもこの様なわびの生活を送りたかったと言う気がします。
 次にさび(寂び)は、もの静かでおもむきがある、じみだが平和な生活を送るなどの意味で松尾芭蕉(1644-1694)がうたっていると思うのですが、運命や神のおぼしめしに従って生きるの意味もあり、日本人にとってもこの様な気持ちは強いのではないでしょうか?
 最後にしぶみ(渋)ですが、室町時代(1333-1568)からしぶさ、しぶみとして表されており、せいそな物を楽しむことを示し、アシジの聖フランシスコも、鳥のさえずり、魚の色、木の葉の揺れる音などを好み、もっとも東洋人に近い西洋人の聖人だと思うのです。
 ヨーロッパへ行くたびにアシジにも寄るのですが、主に日本人が多く、やはりヨーロッパの中でアシジは、わび、さび、しぶみを示す場所であり又聖フランシスコは、ヨーロッパの中で、このような東洋的な文化を作った人とも言えるでしょう。
 日本語の学校に通っていた時に、僧であり歌人でもあり書家でもある、良寛さん(1757-1831)について学んだのですが、良寛さんもアシジの聖フランシスコとの共通点が多いと思いました。
 一つは、2人共お金、物などを捨ててしまい、物質からの欲を開放した人であり、次に、不思議なことに、アシジの聖フランシスコと聖女クララとの間にすばらしい交際があった様に、良寛さんの生活にも「ていしん」と言う若い尼さんとの交際があり、生活に輝きと彼にうたう喜びを与えていたのでした。
 良寛さんは、中国語でも日本語でも、短歌や長歌を作った人ですが、聖フランシスコもイタリア語の最初の詩人であり、又イタリア語でも、ラテン語でも、フランス語でも詩などを書いていたのです。
 
 東洋と西洋を比較することは難しいと思うのですが、アシジの聖フランシスコはみごとに、東洋の世界を西洋に紹介した様な気がします。
 ただ、東洋人にない聖フランシスコの特徴は『喜び』ではないかと思います。
 『喜び』は人間になった神を信じるところから生まれてくるものであり、東洋にはこの様な信仰がないので、なんとなく暗い影がいつでもある様な気がしてしまうのです。
 「聖フランシスコの喜び」は、神様の作った自然のものから生まれて来るのと同時に、クリスマスの赤ちゃんになった神様の顔でも、その喜びは満たされ、苦しみは、自然を破壊する所から生まれて来るだけでなく、十字架の上で死んでいる神様を見るところから、又その十字架のもとで苦しんでいるお母さんの聖母マリアをながめることから出て来るのです。
 私が子供の頃に見た修道士の喜びは、この様な喜びだったと思いますし、あの頃見えなかった彼らの苦しみが、今になるとなんとなく分かる様な気がします。
 芭蕉や良寛さん、アシジの聖フランシスコに出合えたなら、きっといい友達になれたでしょう。又芭蕉や良寛さんもイエズス様を信じる様になっていたでしょう。

アッシジの貧者(1)

 ある朝のこと、イタリアのアッシジという町で、一人の青年が目を覚ました。今から七百年も昔のことである。青年は「重い病い」からやっと回復したばかりだった。

よろい戸のすき間からは朝の強い日ざしがさんさんと降りそそぎ、サンタ・マリア・ヴンスコヴァード教会からはミサを告げる鐘が鳴り響いていた。
今日、とうとうこの病人は床払いが許されたのだ。

「何とすがすがしい朝でしょう!ねえ、フランシスコ。こんな朝はね、天も地も祝日の教会のように美しいし、生きとし生けるものはみんな神さまを賛美し、愛し、感謝しているように思われますよ。」

といいながら部屋に入ってきた母の腕には、新しい一揃いの服と、美しく磨かれた象牙の握手のある杖がかけられていた。
開け放たれたよろい戸から朝のすがすがしい風を受け、フランシスコは新調の服を身にまとい、杖で支えながら、まだ弱々しい足どりでゆっくりと歩きだした。
そして外に出て、なつかしい風景 ―中世の世界から抜け出したような美しく清潔なアッシジの町、広い野原や たわわに房をつけたぶどう畑、斜面の下のオリーブの樹林、澄みきった空にくっきりと浮かぶ山々― に挨拶をした。

でも何か、物足りなさを感じた。故郷の色とりどりの風景は、以前は大きな喜びでフランシスコを感動させたものだったが、今日 その喜びは あふれるほどには いたらなかった。胸の中で強く高鳴っていた心臓が、突然老いこんだかのように感じられた。ふと戦慄に似たある思いがフランシスコを突き刺した。自分の若さはもう過ぎ去ってしまったのだろうか。
絶えず自分に平和を与えてくれると信じていたもの、決して自分からは持ち去られることはないと信じていたもの ―日光、青空、緑の野、回復期の日毎夜毎しきりに願い求めたもの― 自分の手にあるすべてのものが、今や何の価値もない灰になっていたのである。
"あなたはちりであり、ちりに帰らねばならないものだ"(創世記3・19)
ものは みな すべて ちり であり、ちりであって ちり以外の何ものでもない。すべては滅んでいくのだ。すべては むなしいもの。
フランシスコは長い間 立っていた。目の前のもの すべてが しぼんでいくかのように見えた。身をこわばらせながら じっと立ちつくし、それから苦しそうに杖 にすがってとぼとぼと我が家のほうへ 歩き去った。
フランシスコにとって、この日こそ、「私はおまえの道にいばらを敷こう」と主が言われた その日であった。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
アッシジの貧者(2)

 フランシスコは、アッシジの最高富裕者の一人である大きな織物商ピエトロ・ディ・ベルナルドーネの跡取り息子であった。
彼はイタリアの風習に従って、店で父の手伝いを始めていた。商才のあったこの少年を、父親は早くから自分の商売の片腕としていたようであるが、少年は少なからずお金を意のままに扱い自分が儲けたものはことごとく遊楽のために散じる有様であった。
父の莫大な財力と、彼の生来の陽気さと気前のよさから、フランシスコは上流階級の青年達が集う社交界で中心人物となっていった。
フランシスコが育った時代は、まさに戦国の世であり、皇帝と教皇とは互いに相争い、貴族や市民をも巻き込んで、たびたび戦いをくり返していた。
1202年 ペルージァに敗北したアッシジの戦闘員は捕えられ 一年間監禁された。フランシスコもその中にいたが、商人の息子であるこの青年は高貴な装いをしていたため 一般市民たちとではなく貴族たちと一緒に監禁されることとなった。監禁中のフランシスコは、いつも陽気に歌ったり喜んだりしていたので、仲間の者たちをあきれさせたが、彼のおかげで気むずかしい人や仲間はずれになっていた人も同輩の中に迎え入れられ、補りょたちの間でフランシスコは 幸福の使徒となった。
こうして捕われ人となった貴族たちの中に、長い間おり、つきあっていたので、この若い商人の心には貴族たちの生活習慣に対する愛着心がますますつのっていき、釈放されてアッシジに戻ってからも、遊楽と酒宴の渦巻きのさ中に身を投じ続けた。彼は騎士として もっとも偉大な もっとも高貴なもの のために闘い、武勲を挙げ、貴族に列せられるのを夢みていた。



そして・・・「重い病」に罹った。
22才の時の(ほとんど死の入口まで連れてゆかれた)「この病気」がひとまず彼を救ってくれたものの、貴族になる夢がそれっきり潰えてしまうことには ならなかった。フランシスコには、回心までに まだまだ長い道程があった。

切実に自分の心のうちに寂寞さを感じてはいたものの、どうやってそれを満たしてよいのか、皆目見当がつかなかった。だんだん体調も回復し、元気を取りもどしてくるにつれ、またもとの生活にかえっていき、病気前と同じ道を歩み始めた。けれども以前とは違い、送っている生活の中にもはや何の喜びも感じないのだった。何かそこには不安があり、少しも平和はなく、心にはとげが生え、絶えずいらいらしていた。そして以前にも増して、大偉業を、珍奇な冒険を、遠い外国での勲功を夢みるのであった。
ちょうどこの頃、皇帝と教皇との争いが、また新しい局面に展開し、戦いが南イタリアで繰り広げられた。アッシジの一貴族は 小さな一隊を引き連れて その戦いに参加するための武装を整えていた。フランシスコはこれを耳にするや、熱に浮かされたようになり、長い間待ちこがれていたこのまたとない機会に、「アッシジの貴族は自分を迎え入れる!」「自分は騎士に列せられる!」と狂喜した。
派手好きで、金持ちの この青年の戦争のための身支度は、金に糸目をつけないものであった。でもまったくフランシスコらしいことだったのは、ちょうど出発に当たって、同行者の一貴族に出会ったが、彼は貧しかったので、身にふさわしい甲冑を装うことができなかった。それを目にしたフランシスコは、すぐさま自分の高価な装いを彼に与え、自分はその貴族の貧しいものを代わりに受け取り身に着けた、ということである。
その夜のこと、彼は夢を見た。それはフランシスコにとって、他のどんな夢よりも意味深く思われた。フランシスコが父の店に -多分いとまを告げに- 立っている。だがいつものように床から天井まで、どの棚もどの棚も反物でうまってはいず、その代わり、どっちを向いても輝く楯、光る槍、さん然と輝く甲冑がいっぱいである。不思議に思っていると、「みんなこれは、お前とお前の勇士たちのものになる」という声が聞こえた。
フランシスコがこの夢を、幸先が良いと受け取ったことはいうまでもない。そして輝く朝を馬にまたがり、喜び勇んでアブリア目指して一鞭くれた。
南イタリアへ通じるスポレットへさしかかった頃、以前フランシスコをあの病床に投げこみ、反省と目覚めに導かれたその同一の御手が、ここスポレットでまた彼を捕えたのである。フランシスコは熱病に襲われ、寝床から起きられなくなった。そして夢うつつの中をさ迷った。その時、どこへ行こうとしているのか、とたずねる声が聞こえた。
「アプリアへ、騎士になりに」と病人は答える。
「フランシスコ、おまえに一番ためになる人はだれか?主ですか、それとも僕か?」 
「御主」とびっくりして、フランシスコは答える。
「それなら、なぜおまえは家臣に代えて主君を、僕に代えて主を見捨てるのか?」
そこでフランシスコは自分に話しかけておられるお方がどなたであられるかを知り、パウロの吐いたあの言葉で叫んだ。
「主よ、おん身は私に何をお望みですか?」と。

けれどもその声は次のように答えられた。

「おまえの家へ帰るがよい、そこでおまえのすべきことを告げよう。おまえの見た夢は、別の仕方で解き明かされなければならない。」
そこで声は黙し、フランシスコは目が覚めた。まんじりともせず夜を明かし、朝になると静かに起き上がり、馬にまたがり、しょう然とアッシジの方へ引き返していったのである。
アッシジに戻ったフランシスコは 何をすべきかわからないまま、またすぐに遊び仲間の中心となり、すべてがもとの生活に戻っていった。しかしスポレットで、あの夜、懇切に語りかけられた優しいみ声はいつも彼の耳から離れなかった。
フランシスコの心の中は、混乱しゆれ動いていた。目まぐるしく その時その時の気分に支配され、ある時はこの世の声だけに耳を傾けたり、ある時は主に仕えようと しきりに請い願い求めたりした。そうこうするうちに、いっさいのものから 身を退き、孤独の中に自分の召命についてみきわめようという気持ちが、だんだんと強まり高められていった。こちらから訪ねていくことはなかったが、友達は相変わらずやってくるので、つきあいが悪くなったと言われたくないばかりに、相も変わらず豪奢な客あしらいを続けていた。
ある晩のこと、いつにも増して豪華な饗宴が張られた。宴が終ると 青年たちはいつもしているように 放吟しながら街頭へと繰り出した。フランシスコも少しおくれて歩いていく、歌も歌わない、ともすれば友達に遅れ、遅れては離れて、やがてとある小さな広っぱで一人になった。
そこで起こったのである。再び主はフランシスコを訪れたもうたのである。
この世とそのはかなさに堪えられなくなっていたフランシスコの心に、突然非常な甘美さが満ちあふれ、そのほかのことは何もわからなくなってしまった。
この世のものとも思われぬ甘美さに包まれ、われを忘れてそこに立ちつくしていたフランシスコがやっとわれに返ったのは、彼を捜しに引き返してきた友達の一人が、呼びかけた時であった。
「フランシスコ、君は君のハネムーンのことでも思っているのかい?」
見上げる天には星がきらきらとまたたいていた。冴えわたった八月の宵のことである。若者は答えた。
「そうだよ、結婚しようと思ってね、だが私のもらおうという花嫁は、君たちの知っているどの婦人よりも気高く、裕福な、またあでやかな婦人なのだ。」
いつのまにかやってきて彼を取りまいていた友人達は、そこでどっと笑った。
フランシスコはその笑い声を聞いて怒ったが、それは友人達にではなかった。
今までの自分の生活が、ことごとく愚かで、思慮のない、子供っぽい虚栄に包まれたものであり、それが突然 目の前で光に照らし出されたからである。
そこには まったく浅ましい みじめな自分の姿が写し出されていた。
そして自分の前には、今まで送ったことのない光に照らされた生活、真の、正しい、しかも気高い、豊かな生活-イエズス・キリストのうちに活きるという生活が、さん然と光を放っていたのである。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 

アッシジの貧者(3)

 町からほど遠からぬ所に一つの岩穴があり、フランシスコはそこを自分の祈りの場とした。外界から離れて、暗い洞くつの中で、天にましますおん父に祈りを捧げる場所を見つけたのである。

日が経つにつれ、神の思召しを行ないたいという願いが強まり、神が自分に何をお望みになるかをはっきりと確めるまでは、心の安らぐ日がなかった。
何度も何度も詩篇の言葉が唇にのぼった。
「主よ、あなたの道を示し、その小道を教えよ」と。
この清らかな理想の前に、今までの自分の生活が暗くいとわしかった。もはやあの放埒で愉快だった生活を思いだしたくもない。けれども、また元の木阿弥にならないためにはどうしたらよいのだろうか。またもや この世の喜びに、以前のように身を躍らせはしないだろうか。
フランシスコは自分の心の弱さをよく知っていた。
つらい苦しみのただ中で、フランシスコは自分の救いのため、暗い洞くつの中で独り戦っていたのである。
いつしかフランシスコは祈りの人となった。
祈りの甘美さを味わいはじめ、祈り続けた。
だから街を歩いていても、突然何もかも放り出して、祈るために御聖堂に入ってしまうことも度々あった。
フランシスコはほとんど以前と同じような生活を送っていたが、ただ違うところは、今までの友人たちに変わり、貧しい人たちを訪れたり、食事に招いたりしていたことであった。そして彼らの訴えに耳を傾け、援助した。

「せめて一度は、貧乏とは どういうことなのか、行きずりに小銭を投げ与える人ではなく、ぼろと塵芥とを身にまとって路傍に立ち、へりくだり、身をかがめて、施しをもらおうと 色あせた帽子を差し出す人とは どういう人なのか、もし私が知ることができるなら」という考えが、心に芽生えてきた。
しかし誰もが知っているアッシジではできかねた。
そこでローマへ巡礼しようと思い立った。
あの大都会なら誰も自分を見知っている者はいない。
そこでこの計画を成就させようと。
ローマに入ったフランシスコは、まっすぐ聖ペトロ大聖堂へ行った。そこで多くの巡礼者たちに行き会い、彼らが風習に従って使徒の墓に(その格子の窓越しに)捧げものとして小銭を投げこんでいるのを見た。フランシスコは、さっそく自分のふくれ上がった財布をひきずり出し、金銀貨をわしづかみにし、格子窓目がけて投げこんだ。まわりの人々は驚いて 彼の方をいっせいに振り向いた。
急いで教会を後にしたフランシスコは、一人の乞食に出会った。この旅行の目的を達する機会をとうとうつかんだのである。本物のボロを身にまとい、本当の乞食となって、聖堂に昇る階の上に立ち、他の乞食たちに混じって物乞いをした。
この瞬間のフランシスコの心はどんなであっただろう。
フランシスコがどれくらいローマに滞在していたかは、私たちには知らされていない。多分着いた翌日には帰っていったのかもしれない。資料にはただ、乞食たちの食事にあずかってから、借りた服を脱ぎ、自分のものを受け取り、それを身に着けてアッシジへと帰っていった、とあるだけである。
今やフランシスコは、貧乏とはどういうものであるか という経験 -ぼろを身にまとい、人様から恵まれたパンをかじり- をしたのである。
足るを知るということ、所有物を持たないということ、そうしたことを 実行し得るということに、精神的魅力を感じたのである。そしてまた、泉からのひとすくいの水、慈悲深い方からの一きれのパン、星のきらきらまたたく大空の下の夜の宿、こうしたもの以外に 何一つ持たないという生活が、この世にあり得る という喜びを感じたのであった。
あまりにもたくさんな事柄について、お金や財産、家や畑、使用人や家畜について、ほんのわずかで事足りるのに、どうして不安や心配が ついてまわるのだろうか? 聖福音書にこうあるではないか、
「心の貧しい人は幸いである」と。
「らくだが針の穴を通るのは、金持ちが天国に入るよりはやさしい」と。
この問題は、ローマから帰ってからのフランシスコを悩ませた。まえにも増して熱心に、導きと光とを神に叫び求めた。
聖フランシスコが「遺言書」の中で、この時期のことについて明白に書き残している。
「私が、自分の罪のうちに生活していた間は、らい病者に会うのが何よりも苦痛でした。けれども主は、私をそうした病人たちの下に連れていかれ、そこで私はその人たちに慈善を施したのです。このようにして主は私を回心させてくださったのでした」と。
中世ヨーロッパに於いて、らい病者の生活は悲惨を極めていた。社会からは突き放され、人々からは追い払らわれ、きびしい掟に縛られ、四方八方から隔離され、しいたげられていた。それであるからこそ、あらゆる悩みをかかえた人々にも増して、らい病人は救い主の象徴と見なされ、たくさんのらい病病院が建てられた。アッシジとポルチウンクラとの中程にも、らい病病院があり、フランシスコはよくこのあたりを散歩したが、病院を一目見ただけで恐怖におびえていた。
この点がフランシスコの最も大きな弱点であり、これを克服しなければならなかったのである。
ある日のこと、いつものように神に祈り願っていると、あの声が聞こえてきた。
「フランシスコ、おまえが神の意志を本当にわかろうとするのなら、おまえが今なお、肉のうちに愛し続け、好ましく思っているすべてのもの、それらをことごとく軽んじ慎まねばならない。そうすれば おまえが甘美で愛らしく思っていたものが、すべて堪えがたく苦いものとなり、以前におまえが避けていたすべてのものこそ、非常な甘美と大いなる喜びとなるであろう」と。
これこそ、フランシスコに与えられたプログラムであり、歩んで行くべき道が、ここに示されたのであった。
フランシスコは一人 ウンブリアの平原を、馬の歩みに運ばせながら、このお言葉について考えこんでいた。すると目の前の ほんの二、三歩のところに、らい患者がいるのを目にした。
フランシスコは飛び上がった。
背中を向けて一刻も早く逃げようという衝動にかられたが、自分の心に聞いた声、「おまえがいつも忌みきらっていたもの、それこそおまえにとって喜びとなり甘美となるであろう」……・。
自分にとって らい病者ほど忌みきらっていたものが あっただろうか?今こそ主をお言葉において受け入れる、その意志を示すべき時であった。
フランシスコは意を決し、馬から下り、らい病者に近づき、広げられた崩れた手に施し物を置き、そして恐るべき病でおおわれたその指に接吻した。
再び馬の背に戻ったフランシスコは、すっかり興奮して、自分が今何をしたのやらわからなかった。けれども主は、そのお言葉をお守りになったのである。
得も言われぬ甘美さと、幸福と、喜悦とが霊魂のうちに流れこんできた。あふれてもなおいっぱいに満たされたのである。
それはまるで 瓶に水を注ぎ 溢れ出た清らかな清水が、いつまでもかぎりなく注ぎ続けられているかのようであった。
その翌日から、フランシスコはらい病病院を訪れ、くずれた顔、腫れあがった手足、指のない手、臭気を発する病人のひとりひとりに 施し 物をわけ与え、ひとりひとりに接吻していった。
こうしてフランシスコは、人のかち得る最大の勝利、自分にうち克つ勝利を得たのである。この時フランシスコは自分自身の主人公であり、私達がたいていそうであるように、自分自身の奴隷ではなくなったのである。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(4)

 アッシジの近郊には今日でも、小さな御聖堂が、路ばたに、野原に 半ば廃虚となって残されている。このような半ば荒廃に帰した一つの古い御聖堂サン・ダミアノが、フランシスコの若い頃、町近く 少し下った所にあった。そこに下ってゆく道は、七百年経った今日でも あんまり変わってはいない。
 その小さなこわれかかった小聖堂の祭壇の上には、ビザンチン風の十字架像がかかっていた。この聖十字架のご像の前で、よくフランシスコは祈っていた。
あのらい病人達との出会いから少し後、いつものように このご像のおん前にひざまずき、「お話し下さい、主よ。おん身のしもべがここに聞いております!」と熱烈に繰り返していた。

そして起こったのである。
 神はそのしもべに 声をおかけになろうと されたのである。十字架につけられたもうた ご像から、心のうちにだけ聞くことのできる声が 聞こえてきた。
 「さあ、フランシスコ、出かけていって神の家を築き上げるのです。今にも倒れようとしている!」
あのスポレットで聞いた声と同じだった。単純で文字通りにとる人だったフランシスコは、この古い御聖堂の中をぐるっと見回した。すると実際この建物は殆ど倒壊しかけていた。フランシスコは喜びに満ち、十字架に架けられているお方に、こう答えたのである。
 「主よ、私は喜び勇んでおん身のお望みのとおりにいたしましょう!」と。とうとう神は願いを聞き届けられ、一つの仕事を命じられた。即座に行動を起こすという性質のフランシスコは、ただちに主の命じたもうたことを実行に移そうと立ち上がった。外に出ると、司祭が目に止まった。彼は貧しく年をとっており、石に腰をおろし日向ぼっこをしていた。青年はうやうやしく老司祭に近づいて挨拶し、自分の財布を司祭の手にのせてこういった。
 「どうかこのお金で油を買って下さい。いつもこの十字架のご像の前にあかりがともされておりますように。そしてお金がなくなりましたら私に知らせて下さい。いつでもまた差し上げますから。」
 そして老司祭の驚きをあとに、フランシスコは行ってしまった。青年の心はみなぎり、自分に起こった大事で満たされていた。歩きながら何度も十字架をきった。そうする度毎に、自分の心に十字架につけられたご像が深く刻み込まれでもするように。
 家に帰ったフランシスコは、父の店から商品である高価な織物をたくさん持ち出し、馬につけ隣の町へいき 市に出した。さらに自分の乗ってきた馬さえ売り払い、その代金を懐にして サン.ダミアノへと徒歩でひき返し、さき程の老司祭にお金をすべて差し出し、これを御聖堂修復のために捧げます、と申し出たのである。
 この司祭はさきほどの小さな喜捨は受け取ったが。今フランシスコが差し出した莫大な金には疑問を抱き、受け取る事を拒んだ。おそらくは この道楽息子のいつもの気まぐれであり、町の長者であるフランシスコの父への遠慮もあった。フランシスコは 一所懸命 説得に努めたが だめだった。ただ 何ものにも妨げられず、祈りと信心業が出来るようにと、このサン・ダミアノに しばらくの間住むことを 許してくれた。
 この時以来、フランシスコは修道士として生涯を送ろうと決心したのである。しかし ただちに修道院に入ろうというのではなく、いとも聖なるおん方おん自らが 教え導かれたのである。
 この司祭館の近くに一つの岩穴があった。そこを自分の部屋に選び、夜も昼も祈りを捧げ,大斎を守り、主のみを思って過ごした。
 この頃のフランシスコについて、今日まで伝えられている一つの話がある。
 それはある日のこと、ポルチウンクラまたはサンタ・マリア・デッリ・アンジエリと呼ばれている 古い小さな御聖堂近くを、泣きながら、嘆息しては泣きじゃくり、深い愁いと悲しみにうちひしがれてさまよっているフランシスコが見られた。通りがかった人が「いったいどうなさったのですか、なぜ泣いているのですか」とたずねると、フランシスコは「主イエズス。キリストのお苦しみを思うと、泣けて泣けて仕方がないのです。全世界を歩き回って、こうして泣いていましょうとも、少しも恥ずかしいとは思いません」と答えた。そこでこの人はいたく感動し、二人して泣いたということである。
 フランシスコにとっては、肉に従って生きるのではない、霊に従って活きるという生活が、ここに始められたのである。こうしたフランシスコを、両親がだまって見ていたわけではなかった。商売で留守がちな父親は、帰ってくる度に息子がいないのに腹を立てていたが、信仰深い母親のとりなしでなんとかその怒りをおさえていた。
 ある日、父ピエトロ ディベルナルド-ネが店にいると、表の通りから大きな騒ぎが聞こえてきた。外に出たピエトロが見たものは、乞食のようななりをして、子供達に石をなげられ、追っかけ回されている自分の息子であった。輝かしい未来と希望とを賭けていた息子なのに、今目の前にいるその息子は、やせおとろえ、髪を乱し、目のふちには黒ずんだくまをこしらえ、恥ずかしい身なりをして、石を投げられ血を流して...ピエトロの腹わたは煮えくり返り、今にも息の根が止まってしまいそうだった。ピエトロは一言も発せず、郡衆の中にとびこんで、息子をわしづかみにすると、家の中に引きずりこみ、地下室の床の上に たたきつけた。フランシスコは気を失って死んだようになっている。外から扉に鍵がかけられた。父親はこの監禁で、息子の最近の馬鹿さ加減をなおそうと考え、水とパンだけしか与えなかった。以前の食い道楽を知っているから、こうすれば速やかに目が覚めると思ったのである。だがそうした時期はすでに過ぎ去っており、フランシスコは別人になっていた。
 2,3日経ち、父ピエトロはまた旅に出かけなければならなくなった。母のピイカ夫人は、夫の留守を見届けると、監禁所の扉を開けた。ところが息子は少しも挫けも屈してもおらず、自分の信念のために何もかも堪え忍んで、それどころか喜びさえ感じている、というありさまであった。
 息子の信念が堅いのを知った母は、息子を自由にしてやろうと決心した。放たれた小鳥が巣に帰ってでもいくかのように、いそいそとして、フランシスコはまっすぐに、サン・ダミアノの隠れ家目指してかえっていったのである。
 旅から帰ったピエトロは、フランシスコがいないのを知ると怒り狂った。そして色々の手段をこうじて、フランシスコに家族のもとに帰るように説得した。しかし翻意しないと知るや、ついに息子が以前持ち出した金をすべて返還するように法律に訴えた。訴訟は受理され、定められた時刻に、父と子は司教の前に立ったのである。

 町の最高の金持ちであり、恩人でもあった父と、乱心した息子との間の訴訟事件は大評判になり、たくさんの傍聴者が詰めかけた。
 司教がフランシスコに言った。「神にお仕えするということがおまえの志であるならば、父上にその金を返すがよい。多分よろしくないやり方で得られたものであるから、教会のために用いてはならない」
皆の目が父から息子へ向けられた。するとどうであろう、みんなを驚かすことが起こったのである。歴史初まって以来、かつて起こったことのない、またこれから先も起こることのないこと、画家は幾世紀にもわたって徳の絵を描き、詩人は賛歌を献じ、司祭はそれについて説教するという場面が。
 静かに しかも輝かしい眼をして、フランシスコは立ち上がった。
「司教様、私は父上からのお金は喜んでお返しいたします。それからいただきましたこの着物も」というと、法廷の後ろに見えなくなった。そしてすぐに出てきた。裸で、ただ腰の所に毛皮の帯だけ着けている、手にはそれ以外の衣を全部抱えて。皆思わずざわめき立ち上がった。

 父と息子は立ったまま向きあっている。息子の声はふるえを帯び、目は頭上はるか彼方に向けられて、何ものかをそこに見てでもいるかのように、こう言った。
 「皆さん、私の言う事を聞いて下さい。今まで私はピエトロ・ディ・ベルナルド-ネを父と呼んでいました。今私はお金も、いただきました着物もみんなお返しします。ですから、これから先はもうピエトロ ディ ベルナルド-ネを父と呼びません。天にまします私どものおん父を、父と申します!」
そして緋にいろどられた上衣と、麻の下衣とを父の足許に置き、そこにお金を置いた。
並み居る者のあいだに 強い感動の渦が巻き起こった。皆わっと泣きだし、司教さえ目に涙を浮かべている。だがピエトロ・ディ・ベルナルド-ネは怒りで蒼白となり 石のように押し黙って、着物とお金を持って出ていった。司教はフランシスコに歩み寄り、そのマントでこの若者を包みこんだ。
この時からフランシスコは、まったく神のしもベとなり、教会の人となったのである。
 最初の強烈な感激の嵐がしずまり、フランシスコが司教とただ二人残された時、初めて司教はこの若者に着せる着物の心配をし始めた。丁度庭師の古い上つ張りがあったのを、フランシスコは喜んでいただき、その着物の背中に十字架のしるしを白墨で描き、司教館を後にした。ウンブリアの四月、空は青く澄みわたり、空気はさわやかで快く、イタリアの最も美しい季節であった。ピエトロ・ディ・ベルナルド-ネの息子は、こんなふうにして聖福音書のみ言葉を文字通りに実行し、あらゆる物を捨てて、ただ十字架を我が身に引き受け、イエズスのみ跡に従ったのである。
 しかしそのためには、身を切るような苦しみを乗り越えねばならなかった。後年フランシスコは、生涯のうちで一番辛かったことはと問われた時、小さな声で、父との決裂であったともらしたという。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(5)

 司教館を出て、アッシジの門を後にしたフランシスコは、サン・ダミアノへは向かわず、また 下の野原の小さな御聖堂ポルチウンクラにも向かわず、まっすぐモンテ・スバジオ目指して道を辿った。

 こうしてただ一人 モンテ・スバジオの頂に着いた。そこからは一望のもと はるか彼方まで見渡せる。スポレットの谷が、きらきら光る河が、オリーブの植えられた畑が、そして家々や教会が おもちゃのように見える。下のアッシジでは視界をさえぎっていた山々は 低く横たわり、その向こうにはもっと高い淡い青色をした山々が、遠いアペニーニの山脈がその頂をそびえさせている。
 スバジオ山の山頂から、それらの風景を見渡しながら、やっと心の落ち着きを取り戻したフランシスコは、グッビオに向かって歩き出した。

 グッビオの町は、アッシジから4・5キロ隔たっており、少年の頃からの友人が住んでいた。その友人から修道士の着物と、腰帯と靴と杖をもらい受け、その後しばらくこの地の病院で、らい病患者の世話をして暮らしていたと伝えられている。
 ただアッシジの近郊サン・ダミアノでは、フランシスコの特別な仕事が、なおそのまま待っていた。

 しばらく後に、フランシスコの姿がサン・ダミアノで見られた。神が課せられたあの仕事を始めようとしたのである。御聖堂再建にとりかかったフランシスコは、一つの問題にぶつかった。今まで一度も煩わされたことのないことが、今現実の姿で迫ってきたのである。それはお金の問題であった。
 一体何処にその手段があるというのだろう。石や漆喰などは、どうしてもただで得られるはずのものではなかった。

 それなのに、フランシスコは企てたのである。必要な石や漆喰を無償で得るということを。それからアッシジの市場に、修道服を着て、吟遊詩人のように人々に歌って聞かせるフランシスコの姿が見られた。そして歌い終わると、聴衆の間を歩き回って乞うた「与えるものは天国でその報いを受けるでしょう」「二つの石を与えるものは倍の報いを、三つの石を与えるものは三倍の報いを受けましょう」。聴衆はどっと笑いたてたが、フランシスコはただ笑い返すほかなかった。でもある人達は、あの道楽息子のフランシスコが、こんなにまで神の愛に酔いしれて回心させられているのを見て、感動し涙を流した。

 とにかくフランシスコは、石をたくさん集めることに成功した。そしてそれを肩に担って運び、自分で のみ をとった。通りすがりの人々は、フランシスコが仕事をしながら、楽しげに歌をうたっているのを聞いた。誰か立ち止まって見てでもいようものなら、こう呼びかけた。「どうです、ここへきてわたしを助けてくれませんか? 聖ダミアノの御聖堂を修復するのです。手伝ってください。」
 フランシスコの熱心で、骨身惜しまぬ働きに、老司祭は感動して、いつも夕には自分の貧しい境遇の許す範囲でごちそうを皿に盛って、労をねぎらってくれた。
 
 しかしある夜ふとフランシスコは、多分これから先き、自分がたどり着くであろうどこでも、このようなことが期待できるのだろうかという問題に行きあたった。こうしていることは、少なくとも私が今まで求めていたような貧しい人たちの生活ではない。いや本当に貧しい人は、戸口から戸口へと、鉢を手にして歩き、親切な方が恵んでくださるものをその中に集めるのだ。「さあ、私も今からそうしなくてはならない」と。
 
 次の日から、正午の鐘が鳴り、人々が食卓につく時分になると、フランシスコは鉢を持って、町中を巡回しに出かけた。ともかく戸を叩けば何かがもらえた。ひとすくいのスープ、肉がまだ幾らかついている骨、一切れのパン、二、三枚のサラダ、あらゆるものが入り混じって。フランシスコが物乞いを終えた時には、その鉢はいっぱいであった。だがまるで食欲をそそらない混合物であった。まったく気後れがしてしまい、この青年は階段にぺたりとしゃがみこんでしまった。じっとその鉢の中を見つめる。犬の餌でも入れた木製の桶のようだ。今にも吐き出しそうになりながら、唇に最初の一片を持っていった。するとどうであろう、あのらい患者に接吻した時、ちょうどその時のようであった! 心が、出し抜けに聖霊の甘美さに満たされて、いまだかってこんなおいしいごちそうを一度も口にしたことがないように思われたのであった。
 
 宙を飛ぶ思いで司祭館に帰ると、もうこれからは自分の食べ物は自分で心配します、と司祭に申し出た。
こうしてピエトロ・ディ・ベルナルドーネの息子は、実際に公然と乞食になったのである。

 サン・ダミアノの仕事は速やかにはかどった。実際 改築以上の修繕であった。仕事の締めくくりとして、フランシスコはこの司祭の許に、御聖堂のあかりを灯す油を、とりわけ聖なる秘跡の祭壇の前の永灯明のために十分な油をたくさん蓄えて残しておこうと思い、アッシジの町を、油をもらい集めるために回り始めた。夢中になって一軒、一軒と回っているうち、ふと気がつくと昔の友人の家の前であった。そして昔彼がよくやっていたような酒宴を開いていた丁度その所に行きあたった。突然くたくたと勇気がくじけてしまった。

 父にも負けなかったし、人々の嘲笑にも負けなかったのに、恥ずかしくなった、昔の仲間の前に出るのが。
おそらく全ての回心者が経験する瞬間、言うに言われぬあのつらい瞬間を経験したのだった。フランシスコには自分が見捨ててきたものの方がかえって輝き、喜んで着ていた隠棲修道士のみなりがおかしな仮装のように思われ、あの過ぎ去った楽しかった時代よりももっと今日はつまらない人間であるかのように思われたのだった・・・。

 しかしこうした闘いもほんの少しの間だった。酒宴が催されている家を二、三歩行き過ぎてから、自分の臆病な振る舞いを悔やみ、後戻りして、友人達にサン・ダミアノの灯火のための油を神への愛のために、あなたたちから喜捨していただこうとするにあたり、自分がどんなに弱かったかを皆に告白したのである。
 こうしてこの修復工事が完成した後、さらに古いベネディクト会の聖堂サン・ピエトロの修築をした。そうしてしまいには、とうとうあの小さな古い野原にある御聖堂、かつてその前でキリストのお苦しみを思って泣いたというあのポルチウンクラ、またの名をサンタ・マリア・デッリ・アンジェリと呼ばれた御聖堂を再建し始めたのである。この御聖堂は、サン・ダミアノと同じように、スバジオ山上のベネディクト会修道院に属しており、聖地から帰郷してきた巡礼者たちによって352年に建てられたといわれている。この近くにフランシスコはそれから長い間の住所を定めたのであった。

 この頃のフランシスコが、物質的な教会堂の建設ということを、自分の本質的な生涯の課題であると考えていたと言うことは疑う余地がない。この後1213年にはサン・ジュミニーニとポルカーリマとの間に、聖マリアのための御聖堂を建てているし、1216年にはアッシジのサンタ・マリア・デル・ヴェスコヴァードの修築にも関係を持っていた。謙遜な心を抱いている全ての人たちのように、何を為すかということよりは、いかに行うかということの方がより大事であることを知っていた。その生活、それは単調でしかも大きな課題に欠けているために、神の愛を多く要求し、あまりにも多くのこの小さい有限なものの背後に、無限なる神の愛を感じる能力を多く必要とするのである。
 働く日々のさ中にあって、日曜日の心を守るように、来る日も来る日も悲しいときにも陽気な心でいられるように、つまらぬことに疲れ果てても強い心が持てるように・・・。フランシスコはこうしたことのできる強い陽気な精神を持っていた。

 そして目の前には、一つの生活が、その将来の遠景のように、くっきりと描かれていた。少しばかりの固くなったパン、時としてはそれすらも全くない昼間の手仕事と、それから淋しい夕べの祈り、静かな朝の路傍や山々の間の御聖堂や教会でのミサや、聖体拝領などに分けられていた・・・。

 13世紀の初め頃は、カトリック司祭は各自 毎日ミサを捧げるという風習は一般にはなかった。ただ日曜日毎に、あるいは要求された場合に、または大きな祝いの日にミサが捧げられただけであった。こうした機会のある度毎に、フランシスコは必ず与ったし、またフランシスコを喜ばせるために司祭は、サン・ダミアノから幾たびとなく朝早くポルチウンクラに下って行き、新しく改築された御聖堂でミサ聖祭を捧げたのであった。

 1209年2月14日 聖マチアの祝日のミサが ポルチウンクラの御聖堂で行われ、フランシスコは聖福音書の一節を、司祭が読誦されるのを聞いていた。

「『天の国は近づいた』とのべ伝えよ。病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を清め、悪魔を追い出せ。あなたたちは無償でもらったものだから、無償で与えよ。金銀や銅貨を帯に入れてはならない。旅袋も二枚の上着も、靴も杖も、持っていってはならない。働く人は、当然自分の糧を受けるはずであるから。どんな町や村に入っても、ふさわしい人をさがし、出発するまではそこにとどまれ。家に入る時には平安を祈れ。その家が平安を受けるに値するなら、その上にくだるだろうし、値しないなら、その平安はあなたたちに返ってくるだろう。」(マタイ福音書 第10章 7~13)
 この一節は、あの2年前のサン・ダミアノでのお言葉よりも新たに、いっそうはっきりとした 主のお言いつけであるように思われ、フランシスコの全生涯にとって決定的なものとなった。
 フランシスコが、その時の聖福音書の読誦を、神聖なる啓示と受け取ったということは、「遺言書」の中にこう書き残していることでもわかる。

「いとも高きお方自らわたしのために、おまえは聖福音書に従って生活すべきであると啓示されました」と。そしてまた「主はわたしめに、わたしどもが申すべき挨拶即ち『主があなたに平安を与えられますように』という言葉を啓示せられました」と。

 完全に神の弟子になろうと欲する人達に、神に捧げて神にのみ仕えようとする人々に、神の要求されることを、フランシスコが幻視のうちに了解したことは、そのもの達は使徒となり、あらゆるよけいなことから免れて、俗世間のあらゆる心配をせず、霊のうちに歓喜して、古より厳として存する喜ばしい訪れをもって、「回心せよ、天国は近づいた!」と進軍していくということであった。

 御聖堂を建てる隠棲修道士フランシスコは、この時から福音を宣べ伝える使徒フランシスコ、回心と平和の福音宣教者となったのであった。
 
 御聖堂から出てきたフランシスコは、さっそく靴を脱ぎ、杖を投げ捨て、寒さを防ぐために着ていたマントを取り去り、腰帯の代わりに縄の帯を腰に締め、その地方の百姓がよく身につけていた長い茶褐色の上っ張りを身にまとい、頭巾を頭に投げ掛けられるように背中の上の方につけて、使徒たちが遍歴したように、素足で世の中に遍歴に出て行き、主の平安を迎え入れようと望む人々の所に、それをもたらせようと決心したのであった。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(6)

 その日からアッシジの町には、奇妙な姿が見られるようになった。町の広場や通りのそこここに、百姓の着る灰色の衣を身にまとい、頭には頭巾をかぶり、腰には縄の帯を締めた風体の者が現われ、出会っただれかれに、「主があなたに平安を与えられますように」と挨拶をする。人々が大勢集まっているのを見ると、そこに歩み寄り、裸足で階段や石の上にあがって説教をし始める。
 この奇妙な男は、こんなふうに福音宣教の仕事を始めた。これがピエトロ・ディ・ベルナルドーネの息子なのであった。この男はきわめて単純に、巧まずに、人間の最高の善としての平安について語った。


 神のご命令を守ることによる神との平安について、正しい行いによる人との平安について、心にやましいところがないという保証による各自自身の平安について、これだけが話しの中心であり、問題なのであった。
 次第に人々は、フランシスコの話すことに耳を傾け始めた。そこに語られた言葉は、聞き流されてしまわないどころか、感じやすい多くの人の心の中に、また神にもっと近く一致させて生きようという憧れを抱いている、強い、けれども定まらない人々の心の中に、穀物の種子のように落ちていったのである。

 こうして少し経つうちに、フランシスコは弟子を持つようになった。その最初の弟子と言われている人は、「信心深い、単純なアッシジ出の人」であったというだけで、その名前も、詳しい話しも伝えられてはいない。
 それで歴史上知られている最初の弟子は、あのクィンタヴァッレのベルナルドである。ベルナルドはフランシスコのように商人であった。たぶんそれ程フランシスコより年上ではなかったが、あの昔の遊び仲間ではなかった。もっと離れた遠くから、この青年のめざましい行いを観察していた。

 初めの頃は、他の多くの人々のように、フランシスコの回心や聖堂修復を、ただ気紛れだと見ていたが、日が経つにつれ、フランシスコが自ら選んだ生活をよく持ちこたえ、それをどこまでも続けていくのを見て、ベルナルドの疑いは、尊敬の念に変わり、フランシスコに従っていきたいという心が芽生えてきた。

 さて、後世の聖人伝には、ベルナルドがその身をフランシスコの許に置く前に、フランシスコの信心が本物か、それとも見せかけなのか明らかにしようと試みた話しが載せられている。

 ある日ベルナルドは、フランシスコを自分の所にお泊まり下さいと招待した。その頃定まった住まいをもってはいなかったであろうフランシスコは、喜んでこれに応じた。ベルナルドはお客のために、自分の寝室にもう一つベッドをしつらえさせた。その部屋には、相当な家庭の風習として、夜通し灯す灯りがともされていた。フランシスコは部屋に入るとすぐベッドに入り、もう寝ついてしまったようにしていた。ベルナルドもまたベッドに身を横たえて、深い眠りにおちたかのように、いびきをたてた。するとフランシスコは、ベルナルドがもう本当に寝ついたのだと思い、ふとんから起き上がり、お祈りをし始めたのである。眼を天に向け、両手を高く差し上げて、大いなる信心と、熱誠とをこめて叫んだ。
「私の神、私のすべて!」
 その他は何一つ言わず、朝までそれを繰り返していた。ベルナルドはただ茫然と、その姿を見ているだけであった。

 夜が白々と明け放たれた時、ベルナルドのフランシスコに従おうという決心は、もう変わらないものとなっていた。
 
それでこの望みを次のような質問の形で述べたのである。

「ある人がその主人から、ある財産を受け取って、それを長年の間所有していたのですが、もうこれから先き、もはやそれを持ち続けていきたくはないと思った時、その人はいったいどうしたら良いのでしょうか?」
「それは以前くださった方にお返しになったらよいでしょう」と、フランシスコは極めて当たりまえの返事をした。
「ところがあなたに今お話ししようというのはこういうことなのです。私がこの世で所有しておりますものは、みんな神とイエズス・キリストからいただいたものでありましょう。それで今これをお返し申したいのですが、あなたはどうすれば一番良いとお思いになりますか?」

「今あなたが申されたことは、大変重大です。ですから私たちの主イエズス・キリストにご意見を伺いましょう。どのようにこの考えを実行に移したらよいか、神の思し召すところをお知らせ下さるように、教会に行って、福音書を開き、主がその弟子たちにどのようにお命じになられたかを拝読いたしましょう。」

 それで丁度やってきたベルナルドの友人で法律家のピエトロ・ディ・カッターニと共に三人で近くのサン・ニッコロという教会へ行き、御聖堂で一緒に祈った。そしてフランシスコは祭壇に上がり、ミサ典書をとって開く。

「あなたがもし完全でありたいなら、行って持ち物を売り、これを貧しい者に施せ。そうすれば天において宝を積む」

 さらに聖書を開くと、二回目は「私のあとについてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架をとって私に従いなさい」
三回目は、「旅のためになにもたずさえてはならない」とあった。

 フランシスコは聖書を閉じ、二人の方をふり向いてこう言った。

「これが私たちの生活と掟です。否そればかりではなく、私たちと一緒に生活したいと望む全ての人々の生活です。掟です。さあお発ちなさい。そしてあなた方がお聞きになったことをなさって下さい!」
ベルナルドは早速ジェオルジオの御聖堂の広場(今の聖クララの広場)に立って、全財産を貧しい人達に頒け与え始めた。そのそばにフランシスコは立ち、心のうちに神をほめたたえていた。かつてはピエトロ・ディ・ベルナルドーネの代わりに、自分で一人の乞食を父に選んだのであったが、今またここに、神は弟アンジェロの代わりに、すばらしい兄弟をお与え下さったのである。

 ベルナルドの友人、ピエトロ・ディ・カッターニもまたフランシスコに従うために、自分の財産を手放そうと立ち去っていった。
 キリストを学ぶ三人の兄弟たちは、全てを整理してしまうと、一緒にアッシジを発ち、ポルチウンクラでその夜を過ごした。御聖堂の近くに、木の枝と泥とを捏ね合わせて固め、夜はそこに宿り、昼は祈ることのできる小さな小屋をこしらえた。

 アッシジからエジディオという青年が訪ねてきたのは、ベルナルドが回心してから八日目のことだった。富裕なベルナルドと、法律家のピエトロがその全財産を施し与えてしまったということは、町中に大変な衝撃をひき起こし、寄るとさわると、昼も夜も、人々の間で尽きない話題の種となっていた。家族との団らんのうちにその噂を聞いたエジディオは、次の日ポルチウンクラに向かって歩き出していた。そこにフランシスコが滞在していると聞いたからであった。途中道が二つに分かれていたが、エジディオは道を間違えないように神に祈った。それから二、三時間歩き続けて行くと、とある森に出た。ふと見ると向こうからフランシスコがやってくるではないか。お祈りは聞き届けられたのだった。エジディオはすぐさまフランシスコの前に身を投げ出して、自分を兄弟たちの仲間に入れて下さいと懇願した。フランシスコはエジディオの敬虔で、若々しい様子をつくづくと見てたすけ起こし、こう言った。

「愛する兄弟よ。神はあなたにそれはそれは大きな恩寵をお示しになられたのです!神があなたを、その聖なる福音を完全に行うようにと、ご自分のまことの僕にお選びになられたということは、どんなにあなたにとって喜ばしいことかしれません」

 そこでフランシスコは、エジディオを兄弟たちに引き合わせ、四人の兄弟たちは愛のうちに貧しいが喜びに満ちた食事を共にした。食事が済むと、フランシスコはエジディオを連れて、この兄弟のために、着物の布を手に入れようと出かけていった。道で一人のお婆さんに出会った。そのお婆さんは施しを求めた。フランシスコは兄弟エジディオを振り向きながらこう言った。

「私の愛する兄弟よ。神のおんために、この可愛相なお婆さんに、あなたの着ておられるマントを与えようではありませんか!」

 兄弟エジディオはすぐ立派なマントを脱ぎ、お婆さんに与えた。この施し物は(後年エジディオが言っているように)エジディオの心のうちに、いうにいわれぬ喜びを与えたのであった。

 このようにして四人はポルチウンクラの小屋で一緒に生活しながら、布教の旅に出ていった。フランシスコが今までただ一人でしてきたことを、今度は四人で一緒にやったり、二人ずつに分かれてした。フランシスコはエジディオと組になって一緒に、アルカ・アンコーナへ、アペンニーニの山とアドリア海との間にある地方へ行った。 帰りに三人の新しい弟子を得るという喜びがあった。サッバティーノとモリーコとヨハネの三人である。
 この七人はポルチウンクラの小屋に集まると、またもやすぐにみんな布教に出かけた。フランシスコの兄弟たちの説教は極めて単純であり、素朴であった。その説教は説き勧めるというよりは、むしろ実践されたことの報告といった印象を与えた。飾らない言葉は心から心へと通っていった。その説教の主旨はいつも重要な三つのことに帰した。即ち神を畏れ敬うこと、神を愛すること、そして悪から善へと回心することの三つであった。

 この新しい説教者たちは、いたる所で、百姓たちの間で非常な噂の種をまいた。多くの人たちは彼らをおぞましく思い、婦人たちは彼らがくると、いそいで隠れてしまった。だが一部の人たちは彼らに耳を傾け、あなたたちは何という修道会で、どこからやってきたのかと聞いた。すると彼らは別に修道会を組織しているわけではなく、ただ「痛悔の生活を送っている、アッシジから来たものです」とだけ答えるのだった。

 だが、たとえこの人たちが世にいう痛悔者であっても、いかにもそれらしくうなじを垂れているような人たちではなかった。先頭に立って歌うフランシスコと共に、彼らは非常な喜びに満たされ、絶えず神を賛美していたのであった。彼らが陽春の光を浴びて小鳥のように自由に、緑なすぶどう畑をさまよう時、この世を愛する人が、そのために悩み苦しまねばならない罠や枷から免れさせて下さる全能のお方以外には、何者にも感謝は捧げられないのであった。

 フランシスコは六人の弟子たちを派遣するに当たり、とある森の中に一同を集めこう話した。
「さあ、みなさん、出かけていって平安と回心の福音を宣べ伝えるのです!艱難に際しては辛抱強く忍耐なさい。あなた方に尋ねる人があったなら、誰にでも卑り下って答えなさい、あなた達を迫害する人があったなら、その人達には祝福を与えなさい。あなた達に不正をなし、誹謗する人があったなら、その人達に感謝しなさい。そのためにあなた達への報いは天国でそれは大きなものとなるでしょう! そしてあなた達に学問がないからといって恐れてはなりません。あなた達が語るのではない、天にましますあなた達のおん父の霊があなた達を通して語りたもうでありましょう!そしてあなた達は信仰の厚い、善良な、柔和な、たくさんの人々に会うでしょう。あなた達を、あなた達の言葉を喜んで受け入れてくれる人々に!
 またいっぽう、神を冒涜するもっとたくさんの人達に会うでしょう。あなた達に抵抗し、反対する人々に!このためにあなた達は、へりくだってあらゆるものに耐えられるように準備なさい!」

 こう言い終えるとフランシスコは、一人一人をかき抱いて祝福し、最後の糧として聖書の次の言葉をはなむけとしたのである。

「あなたの行く末を主にゆだねよ、主はあなたを支えるだろう。」(詩編54.23)

 それから弟子たちは、二人ずつ連れだって遍歴の旅に、世の中に出て行った。

 兄弟たちには、フランシスコが旅に出る時に与えた「耐え忍ぶ」という訓戒が、すぐ必要となった。多くの人々から気狂い扱いされ、追い払われ、嘲弄され、路端の泥を投げつけられ、殆ど裸にもひとしい姿で旅を続けてゆくのであった。

 山の上の町ポッジョ・ブストーネの町からさらに五百メートルも高い所に一つの洞窟があって、フランシスコはアッシジ以来の習慣を忠実に守り、布教の旅から戻ると祈るためによく一人その中に入った。非常にわびしい、静かな、聞こえるものといえば小鳥の「チッチッ」という鳴き声と岩陰の小川のせせらぎの他には何もなかった。その固い石の上に、幾時間も幾時間もひざまずいていた。彼は福音宣教者であると同時に、また隠棲修道士でもあったのである。生涯このことは変わらなかった。

 フランシスコは自分自身の心の底まで見つめて、全世界には自分よりももっとあさましい被造物も、より大きな罪人も、魂を悪魔の手に渡した堕落者もないと考えて、追い詰められ、底の底から天高くまします神に向かって嘆いたのである。

「主よ、この貧しい罪人であります私を、あわれんでください!」と。

 一つの霊魂が全く自分自らに対する信頼を失い、ただ信仰と希望と愛とで、神によりすがる時、祈りは聞かれた。いつものように「おそれるな、わが子よ、おまえの罪は許されている!」
 この時からフランシスコは、自分の罪の赦しを確信し、自分を待っている仕事に十分に武装せられ、キリスト教の核心に引き入れられたのである。
 まさしく一切を放棄し断念したが故に、今や一切に勝ち得たのである。父母や、家や家庭や金や財産ばかりではない、神が自分のものとなり、また自分が神のものとなるべきはずのものであるならば、他の何ものにも増して重要であるところのもの、自分自身をも捨ててしまったのである。今からは、フランシスコの義は、使徒がいうところの、キリストが信者の信仰によって働きかけたもうそれであった。 そしてこの義からその生活が聖性の芽をふいていったのである。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より) 
 
アッシジの貧者(7)

 フランシスコの兄弟たちは増え続け、ポルチウンクラの小屋から20分程離れた所の、リヴォ・トルトと名付けられた場所の、壊れかかった納屋か物置のような建物に移った。

このリヴォ・トルトのみすぼらしい小屋には、教会も御聖堂もなかったので、兄弟たちはその小屋の前に建てられた 大きな木で作られた十字架の前で祈った。フランシスコにとっては、このように 非常に貧しいということ、それに関しては言うべきことは 何一つなかった。否それどころか、ここリヴォ・トルトが大層お気に入りだった。ここから川の流れに沿ってゆくと、モンテ・スバジオの幾つかの洞窟にたどり着く。それらの穴がいずれも狭く小さかったので、それらを自分の「牢屋」(カルチェリ)と呼んで、そこでよく祈っていた。

こうしたことはすべて、アッシジでは色々と取り沙汰されていて、当然司教の耳にも入っており、とりわけこの人達が乞食をして食べるということに嫌悪感をもっていた。それにもかかわらず、フランシスコは この点については 一歩も引こうとしなかった。なぜならお金や所有物を捨てることによって、真のキリスト教的生活の障害物が取り除かれるのを、よくわかっていたからである。

ある日のこと、フランシスコは「霊的指導者」と尊敬しているグィド司教の部屋にいた。

「司教様」とフランシスコは言った。

「もし私達が財産を持つといたしますと、私達もまたそれを守るために武器をとらなくてはなりません。と申しますのは、所有するということ、そのことから隣人との間に、親しい者達の間に争いが生じます。それで神への愛や、人々やお互い同士の愛がすっかりこわされてしまいます。ですからこれを完全に損なわないで保つために、私達はこの世に於いては何一つ所有しようと欲しない固い決意なのです」

司教自身が財産所属の問題について、ベネディクト修道院や十字架奉持会とも争っていたので、首をうなだれて黙ってしまった。司教もまたそんな理想の高みへは飛び上がれないでいる。だからフランシスコを妨げたり、阻止したりなどあえてしようとはしなかった。

フランシスコが望んだところのものは、ナザレのイエズスがお望みになられたことであった。人はでき得る限り少なく所有すべきだということ、生計を営むためには自分の手で働くべきで、その働きで十分でない時には他の人に援助を乞うこと、不必要な心配はすべきではなく、また余分な財を蓄めてはならないこと、小鳥のように自由でいて、この世の罠に はまらないこと、与えてくださる賜にたいして 神に感謝し、その み業の美しさを賛美して生活すること。「旅人として、遍歴者として」という使徒の言葉は いつもいつもフランシスコの唇に繰り返された。

フランシスコは 自分から担った つらい困窮の生活に堪えられるように、兄弟達をしっかりと励ました。やがて彼らは、ある時は病院で働き、ある時は刈り入れの百姓達を手伝った。それでも決して その日のパンと、泉からの一すくいの水以外には何も報酬を受けなかったのである。

仕事はたびたび見つからなかったし、アッシジでは、どの戸口も修道士達の鼻の先で閉められてしまった。これでは希望を生き生きとさせておくのは大変なことである。リヴォ・トルトの小屋の「アッシジの痛悔者たち」が失望したことは十分に察せられる。

うっとおしい雨の降る日、粗末な小屋の屋根から雨もりがして、地面が黒くにじみ、跣足で歩くのに冷たかった。彼らは粗い衣を着て坐り、一日中何も口にせず、外に物乞いに出かけていった修道士達が、何か持ち帰ってくれるものやら それも分からず、身を温める火もなく、読むべき書物もなかった・・・。

このような雨の日や、陰うつな寒い時、短いけれども冷酷なきびしいウンブリアの冬、兄弟達のうちのだれか、こいつはみんな気狂い沙汰だ、町へ引き返そう、そうだ町へ、ああ!あそこではかつて自分は家も、畑も、金も、財産も持っていたんだ、そいつをみんな貧民どもにくれてしまったんだ、というようなことが起こったかもしれない。が、どうであろう! 確かに一人ならず兄弟達の中には、痛悔の念が消えうせたと感じた瞬間があったに違いない。それなのに最初の弟子達のうちで、脱退者はただ一人あっただけだといわれている。他の者たちはみんなしっかりと踏み留どまり、耐え忍んだのである。

そうするうちに次第に、一般の人々の彼らを見る目も変わってきた。兄弟達の忍耐が、感嘆の念を呼び起こし、その信仰深い生活態度が信用をかち得たのであった。夜分リヴォ・トルトの小屋のそばを通り過ぎる人達は、その中で祈っている兄弟達の声を聞いた。貧乏ではあったが、できることは 乞われれば何でもした。金には無関心であった。特に彼らは 互いに愛し合っていた。こういうことがあった。二人の兄弟が巡歴している時、山野をさ迷う精神錯乱者に襲われ、石を投げつけられたことがあった。するとこの二人はいずれも、自分の身体でもう一人をかばおうとして、石の飛んでくる方へ身体をむけながら、絶えずその位置を変えているのが見られたという。悪い噂や、余計な世間話などは彼らのうちでは聞かれなかったし、途上で女性の側を通り過ぎる時には、地面に目を向け、心を高く天に挙げたのであった。この世の下らぬことや つまらぬことを、この人達は追いかけはしなかった。

そうするうちに、フランシスコは 自分と兄弟達が 従い生活してゆく則を、教会の最高権威によって裁可してもらうために、ローマへ行こうと決心した。

1210年のある夏の日のこと、リヴォ・トルトから痛悔者の小さな一隊が、ローマへと向かった。旅行中の先達はベルナルド・ダ・クインタヴァッレが努めた。一同はこの人に従っていったということ、歩く道々祈ったり、歌ったり、話し合ったりなどして、旅路を少しも長いと感じずに過ごしたこと、が記されている。主は、(伝記によれば)いたるところで夜の宿の用意をされ、少しも この人達に必要なものを欠かされなかった ということである。
ローマに着いた彼らが最初に会ったのは、丁度ローマ滞在中であったアッシジのグィド司教であった。そして兄弟達にヨハネ枢機卿を紹介してくれたので、教皇謁見への道が開けた。時の教皇はインノセント三世であった。

フランシスコと会ったヨハネ枢機卿は、目の前にいる男が、徹頭徹尾利己心のない男であることを、速やかに、明白に了解し、フランシスコが、自らの意思と計画とを単純に、「神は私達を聖なる信仰のために、そしてローマ教会の聖職者や司祭方のためにお力添えするようにとお召しになられたのです」と言った時、そのまじり気のない純粋さに感動すら覚えた。
数日の後、ヨハネ枢機卿の骨折りによって、アッシジの兄弟達は教皇訪問を許された。教皇はフランシスコにその計画を述べさせ、こう答えられた。

「愛する子よ、あなたとあなたの兄弟達が送っておられる生活は、私にはいたってきびしいように思われる。あなた方自身は最初の感激に支えられ、こうした生活を送り得ることをもちろん私は疑わない。けれどもあなた方は、これから先あなた方のところへやってくる、そして恐らく同じ熱心さを持ってはいまいと思われる人々のことをまた考えなくてはなりません。

これに対して、フランシスコはただこう申し上げた。

「教皇聖下、私は主イエズス・キリストに依り頼み 申し上げております。キリストは私達に 永遠の生命と 天国の至福とを 約束されました。そして私達がこの世で生活を維持するに要する こうした些細なものをもまた、私達に 主は拒絶なさらないでしょう。」

フランシスコの建てようとしたのは、純粋な観想的修道会であったのではなく、そうしたものと完全な清貧とを なおもっと一致させて考えたものであった。
聖フランシスコの理想とは、実に使徒的生活であり、ペトロとパウロが実現なし得たこと、即ち、自分の手で働き、人様の恵んでくださるもので生活しながら、同時に世の人々に福音を宣べ伝えるということ、これが今もなされなければならない、というのであった。
枢機卿団は、この聖フランシスコの願いに ごうごうたる反対を巻き起こした。だが、ヨハネ枢機卿の次の言葉によって、すべての反対者の気勢は挫けてしまった。彼はこういった。

「彼らが、私達に許して欲しいと願ったのは、ただ聖なる福音を遵奉してゆくという、そのことだけなのであります。もし私共が今、このことは人力の及ばぬところである、と布告するならば、従って聖なる福音を遵奉することは不可能であると宣告するにも等しいのであり、聖なる福音の源であられるキリストを嘲弄することになります。」

この言葉が功を奏して、フランシスコは再び教皇との謁見を許された。

この二回目の会見に先立つ宵のこと、教皇は不思議な夢をごらんになられたといわれている。その時教皇は、ラテラノ宮の鏡の間と呼ばれる所に立ち、洗礼者ヨハネと福音史家ヨハネに奉献せられた「あらゆる聖堂の首にして母」なるラテラノ大聖堂を眺めておられた。すると さしもの大きな建物がぐらぐらっと揺れて塔が傾き、壁は割れ、コンスタンティヌスの古い大聖堂も もはや単なる一塊の土塊となり潰えるかに見えた。驚きのあまり身体はしびれ、手足はなえて、教皇は宮殿の中に立ちすくまれ、どうなることかと、ただ はらはらとされるばかり、叫べども叫べず、祈ろうにも手が合わせられず、たとえ手を合わせたにしても、そんなことも もう役に立たぬかに見えた・・・。

その時一人の男がラテラノ広場を通ってゆくのが見えた。小さな、見栄えのしない男が、百姓の着物を着けて、はだしで、帯の代わりに腰に縄を締めて。この小さい、貧しい男は、脇目も振らず崩れかかっている御聖堂めざして突き進む。今この男はその壁際に立った。壁はその男の上に倒れかかっていて、今にも どっと墜ちかかり押し潰されそうだった。と、不思議なことが起こった。この小さな男は、突然大きくなり、その側の壁と殆ど同じくらいの背丈となったのである。見よ、今この男はその肩を壁の蛇腹に当て、一押し力強く押すと、全く倒れるばかりであった大聖堂が立ち直ってしまった。もと通り完全にまっすぐと立ち直ったのである・・・。
思わず教皇はほっとなさり、今までの緊張から解かれ、救われたという深いため息をつかれた。この小さな男は顔をまっすぐラテラノ宮に向けて、くるっと後ろを向いた。それでインノセント教皇は、この「あらゆる聖堂のかしらにして母なる聖堂」をふしぎにも建て直した男が、アッシジの貧しい兄弟フランシスコに他ならないことを見られたのであった・・・。
翌日教皇のおん前に立ったフランシスコを見て、教皇は神の霊と力が宿っているとお悟りになり、並居る枢機卿に向かい、こう叫ばれた。

「まことにこの者こそ、神の教会が立ち直されるはずの、聖なる、信心深い男である!」
そして立ち上がられ、フランシスコを抱かれ、フランシスコと兄弟達を祝福されて言われた。
「神と共に行きなさい。全能にましますお方が、あなた方にもっと大きな任務を委せるでしょう」と。
そして説教をしてもよいとの許しがフランシスコに、兄弟達にはフランシスコを通してのみ与えられた。謁見の最後に、ついに聖職者の剃髪を受けた。言い伝えによると、この日は4月16日であったといわれている。
聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂を訪れ、使徒達の墓参りをした上で、フランシスコと兄弟達は、ローマを後にした。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(8)

 ローマから再びリヴォ・トルトの小屋に帰ったフランシスコは、アッシジの大聖堂(サン・ルフィーノ)での説教を許された。 大胆に、素直に、キリスト教の理想を宣べ伝えたフランシスコには、「預言者は故郷では受け入れられない」という言葉は当てはまらなかった。 それどころか、「聖職者も一般信徒も、多くの人々が神の霊にとらわれ、世俗の思いわずらいを投げ捨てて、フランシスコの歩いた足跡を追ったのである」。 そしてこの新しい弟子達の大部分は、アッシジの町やその近隣の人々なのであった。

それだけではない。 サン・ルフィーノでフランシスコがした説教は、もっともっと広い範囲に影響を及ぼした。チェラノのトマスはその成果を、地平線の彼方に輝く星が昇るのにも似て、また暗い夜の明けゆく朝焼けにもたとえた。 また春の季節に、土の中から萌え出る新芽のようだともたとえた。

その地方で見られた ことごとくのものが、変えられてしまったのである。実際アッシジの社会状態がすっかり変えられたのである。 フランシスコの説教によって、それまで奴隷であった市民が、わずかな身代金で解放され、その影響はイタリアの他の都市アレッツォ、ペルージャ、シエナの町にも広がっていった。

この頃のことであった。 ある日、フランシスコは会則を朗読してもらっていた。 読み手は第7章まで読み進んだ。 そこにはこう書かれていた。

「・・・・・・そしてより小さな者であれ」と。 この会の正式な呼び名について、フランシスコは長い間頭を悩ませていた。 今、会則のこの箇所が読まれた時、この「より小さな者たち」という言葉が耳に入ってきた。
「小さい者たち」、「小さい兄弟たち、この名こそ自分たちにふさわしい!」 そこで「小さな兄弟たちの修道会」、すなわち聖フランシスコ会の正しい呼び名が出来たのであった。 (この「小さい」とは、貧しいとか、へりくだったとか、つまらないとかいう意味)
この小さな兄弟たちの共同生活は、フランシスコを中心として、お互いに何一つ包み隠すことなく、愛に支えられたものであった。

フランシスコの及ぼした力は、とりわけその人格に根ざしている。 言葉ばかりではなく、その行いによって兄弟たちを教えた。 

食事を楽しむことを戒め、あらゆる誘いに対して、勇気を持って戦うことを修道士達に悟らせた。 肉体の誘いを潰走させるために、フランシスコは冬のさ中に凍えるような冷たい川に飛びこんで、自ら範を垂れたのであった。

そのようなリヴォ・トルトでの幸福な生活は、まったく突然思いもかけない奇妙な出来事でその幕を閉じた。

ある日、兄弟たちがめいめいの場所で祈りを捧げていた時、突然一人の農夫がロバを連れてやってきて、「さあ入れ、ここでわしらは気楽にできる!」と大声で叫びながら、そのロバを入れた。 今まで小聖堂であった所を、ロバの厩にしようとしているのだった。フランシスコはしばらくこの男の傍若無人な振る舞いをじっと見ていたが、「兄弟たちよ、神が私たちをお召しになったのは、ロバの宿を保つためではなく、お祈りをし、救いの道を人々に示すためです!」と叫んだ。
そこで皆立ち上がり、永久にリヴォ・トルトを去り、その時からポルチウンクラが、その後のフランシスコ運動の中心となったのである。
(2)
ポルチウンクラの小さい、古い御聖堂は、伝説によると、4世紀に、リベリラス教皇の時代に、聖チェリルスから贈られた聖マリアの墓の聖遺物を携えて聖地から帰郷した4人の隠棲修道士によって建てられたと言われている。 その祭壇の上には聖母マリアの被昇天が描かれた古い絵があり、それには宙空に浮かんで聖マリアを取りまいている天使たちがたくさん描かれているので、人々は「諸天使の聖マリア」(サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ)とこの御聖堂を呼んでいた。 「ポルチウンクラ」(小さな耕地)という呼び名は、この御聖堂の持ち主であった、スバジオ山の聖ベネディクト会士たちが、その場所をこう呼んでいたので、世の人々もそう呼ぶようになったのであった。 ところがこの建物が大変に荒廃してしまったので、1075年ベネディクト会の修道士たちはそこを立ち去って、上の山の母修道院に引き上げてしまった。 

この荒廃した御聖堂を修復したフランシスコは、兄弟たちとしばしばこの御聖堂を取り囲んでいる森の中に滞在した。 そしてスバジオ山の修道院から、このポルチウンクラの用益権を1211年に永久に譲られた時、非常に喜んだのであった。しかしフランシスコは、その聖堂を自分たちの所有物として受け取ることは好まず、毎年一籠の魚を上の山の修道士たちに贈り届けるということにして、それを厳重に守ったのである。

この御聖堂のそばにフランシスコと兄弟たちは、枝を組み合わせて泥で固め、木の葉で屋根を葺いた小屋を建てた。 わらを詰めた袋を寝床とし、地べたが机や椅子であり、くさむらの藪が修道院の塀であった。
最初のフランシスコ会の「居る所」は、聖フランシスコの明確な意志に従い、他の全ての同会の修院の前例となるように建てられた。 のちにその理想が低下しはじめた時、この「居る所」という呼び名は、堂々たる修道院と換えられ、富についてのきびしさをゆるめようとする人たちによって、この修道会が内部的に分裂してゆく一つの兆しを示している。

初めからいた一群の弟子たちのほかに、ここポルチウンクラで今や新しい兄弟たちが仲間に加わった。 この人達をフランシスコ会の第二の時代の人々と呼ぶのはふさわしいであろう。 この兄弟たちは、前時代の人々よりも光輝いているといってもよいくらいである。

最初の弟子たちの多くは、一緒に生活するということよりは、孤独に一層価値を置いた。 シルヴェストロはカルチェリの洞窟に留まり、祈りと黙想に身を委ねることを好んだ。 ベルナルドは、森の中で祈っていた時、あまりにも神に想いを潜めていて、兄弟フランシスコが呼んでも気がつかないほどであった。 またある時は、一ヶ月もの長い間、非常に高い山の頂を一人でさまよい、高くおいでになるお方をみていた。

エジディオは、山野を歩き回るという生活を送り、ある時は聖地エルサレムに、スペインに、またある時はローマに、聖ニコラオの遺骸が安置されているパリに巡礼した。 彼らは終生神の立派な騎士であり、初期のフランシスカニズムの精神を愛した偉大な証明である。

このように最初の兄弟たちの多くは一人で生活していたが、フランシスコ会の第二の時代の人たちは、フランシスコと殆どいつも一緒にいた。特にアッシジの近くのマリニャーノから来たマッセオは、多くの大切な巡歴にいつもフランシスコのそばにいた。 フランシスコが小柄で見栄えのしない貧相な人だと人々から思われたのにひきかえ、マッセオは見たところ大きく立派で、弁舌の才に恵まれ、人々とよく話した。 二人で物乞いに行くと、フランシスコが得たものは、ほんの少しの食物とパンの小片であっても、マッセオは大きなパンを得た。 それでもマッセオは、フランシスコに命じられる通り、門番をしたり、施しを受けたり、台所の心配をしたりすることをカルチェリで引き受けねばならなかった。 ほかの兄弟たちが妨げられずに祈りと黙想とに身を捧げている間、家事万端の重荷を一人で担わなければならなかった。

このような卑り下った行いをさせることによって、フランシスコはこのかっぷくの良い立派な風体の兄弟マッセオに、自分をつまらない、小さなものと感ずる訓練を与えたのであった。 それでマッセオは、ついに大変に謙遜深くなり、日に日にあらゆる徳が進んだので、今度は自分は非常に罪深く地獄に値するものだと思っていたほどであった。 でもこうして謙遜が身についてからは、いつも喜びに溢れていたほどに内側の光に満たされていた。

 そのほか、第二の時代の兄弟たちには、あの古い弟子のクィンタヴァッレのベルナルドを想い起こさせる兄弟ルフィーノと、フランシスコの精神に充ち満ちていたジネプロ、フランシスコのすることを全てまねしようとして「単純」というあだ名をもらったヨハネなどがいる。

 これらの弟子の修道士たちのうちで、聖フランシスコの真実の腹心の友であり、一番よい友であったのは、おそらくアッシジの兄弟レオーネであり、この修道士は、フランシスコの聴罪司祭と秘書という二重の重要な地位を占めていた。 このレオーネによって、フランシスコのすばらしい言葉が残されている。

 ある冬の日のことであった。 フランシスコと兄弟レオーネがペルージャからポルチウンクラへの道をたどっていた時、厳しい寒さが彼らを大変苦しめた。 先に立って歩いていたフランシスコは、兄弟レオーネに呼びかけてこういった。


 「もし私たち修道士が、全世界に聖性と教化との善いお手本を渡そうとも、その中に完全な喜びはありません」

 「ああ兄弟レオーネよ、たとえ私たち修道士が、盲に視力を回復させ、足なえを癒し、悪魔を追い出し、つんぼを聞こえるようにし、痛風を患うものを歩かせ、聾にものを言わせ、なおそれにもまして四日も経た死者を死の床より呼びさまそうとも、覚えて下さい、その中に完全な喜びはありません」

 「おお兄弟レオーネよ、もし私たち修道士が、あらゆる国々の言葉を語り、あらゆる学問とあらゆる貴い書物を知り、未来の事柄や人心の秘奧をさぐり得たとしても、覚えて下さい、その中に完全な喜びはありません」

 「おお兄弟レオーネよ、たとえ私たち修道士がすべての不信心な者たちをキリストの信仰へと回心させる説教を心得ていようとも、それでも覚えて下さい、そこには完全な喜びはありません」


 そんなふうにして話しながら、半マイル以上も歩いて行った。 兄弟レオーネは非常に驚いていった、「どうか神さまのために、完全な喜びがどこにあるかを聞かせて下さい」


 するとフランシスコはこう答えた。





「私たちが今ポルチウンクラへ、雨にずぶぬれになって、寒さに凍えて、道の泥に汚れて、飢えでへとへとになって辿り着いて修道院の戸を叩きますと、門番が出て来て怒って、『だれだ、お前らは?』 といいます。

 私たちは、『あなたの二人の兄弟です!』と申します。 

するとその人は、『お前らは本当のことを言わない、それどころかお前らはうろつき回って、人をたぶらかし、貧しい人たちから施し物を盗む街の盗賊だ、去れ!』という時。 

その門番がそんなふうに言って、私たちに戸を開けてくれないで、私たちは雪と冷たい水と飢えとのさ中に立たされ、夜が迫って来る時。

そしてその時私たちがそのような罵言や、悪意や、そのような取り扱いに耐えて、怒らずに、その人に向かって不平をこぼさずに耐え忍ぶ時。

そして私たちはその代わりに謙遜に情愛深く、この門番は正しく根底から私たちを知らないで、この人に私たちに向かって言わせたのは神であるということを考える時、

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、これこそ完全な喜びです。


そして私達が続けて叩くと、その人が出て来て怒って、ずうずうしい二人の浮浪人のように扱い、悪しざまに罵って横面を張って私たちを追い出し、『立ち去れ! お前ら恥知らずのやくざものめが。ここには食べるものも寝る所も、お前らのためにはないのだ!』と言う時。

これをがまんして、晴れやかに情愛をもって耐え忍ぶ時、

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、そこにこそ完全な喜びがあるのです。


私たちが、飢えと寒さと闇に迫られてもう一度叩き、私たちを屋根の下へだけでも神さまのために入れてくれるように熱い涙を流して頼みますと、その人はますます怒っていいます。『この本当に恥知らずのごろつきめが。さあ、お前らにふさわしい扱い方をしてやるぞ』そして節くれだった棒をつかんで跳び出してきて、私たちの頭巾をつかんで地面に叩きつけ、雪の中をごろごろと転がし、その棒で散々になぐりつけます。

私たちはこうしたすべてを耐え、朗らかに耐え忍んで、いと高くほめ賛えられたもうキリストのご苦難をよくしのび、キリストの愛のために苦しむことは、どんなにか私たちにふさわしいことでしょう。

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、その中に完全な喜びがあるのです。


 ですから、兄弟レオーネよ!こうしたすべてのことの結論を聞きなさい。

キリストがその友にお許しになる、聖霊のあらゆる恩寵とあらゆる賜にもまして、自己にうち克ち、キリストのために喜んであらゆる不正にも、あらゆる侮辱にも、いかなる不快にも耐え忍ぶということ、これなのです。

なぜなら、神さまのあらゆるその他の賜は私たちは誇ることはできないのですから。だから使徒は、『あなたはもらわないものを、何か持っているか。もしもらったものなら、なぜもらったのではないように、それを自慢するのか』と言っています。試みも、苦難も、十字架も私たちは誇ることができないのです。ですから使徒はまた、『わが主イエズス・キリストの十字架においてほかには、決して誇るものはない』と言っています」



 エルンスト・ルナンは、
フランシスコによって起こされた運動よりも力強い聖福音を実現するという企ては、使徒時代以来決してなされたことはなかったと、言っている。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 

 

 

もう一度生まれても、やっぱり宣教師」 (釧路黒金教会での講話)
"If I Were To Be Born Again,I Would Be A Missionary Again."

 日本のことわざの意味、ほとんど判るけどね、一つだけよくわからないものがあります。それは「残り物には福がある」
 残り少ないビールを「飲め」と言われたら、わたしならもう一本新しいのを開ければいいのにと思います(笑)こんなこと言ったら立派な先輩たちに怒られるかな。
I can understand most Japanese proverbs,but there is one that I don't understand,and that is - "Last but not least" -
For example; If there's a little beer left in a bottle and someone says,"finish it",I don't want to. I want to drink the fresh beer from a newly opened bottle. I suppose my older brothers in the mission would become angry with me for this.

 わたしの生まれたのは小さな村で、人口5000人くらいの酪農も農業もあんまり出来ない石だらけのところでした。私の家でも畑の準備をするのに石拾いが必要でしたが、学校から帰ってくると「石を拾いなさい」と毎日言われてましたね。麦を植えると雑草が出てくるのですが、それを抜くのも子供の仕事でした。
 麦とかジャガイモといったものは貧しい土地から作るのですが、やっぱりたいしたものではないんですね。よく父に、「お前、このような仕事に向いてないみたいだね。やりたくないみたいだし、修道院に入れてもらうしかないだろうね?」と皮肉を言われましたね。毎日そのように言われていると、そのうちにわたしも「入ってやろう」という気持ちになったこともありました。
I was born in a small village with a population of about 5,000 people. Although the land there is very stony, the people lived mainly by dairy and agriculture. In my home,it was necessary for us to pick the stones before planting. My parents told me to pick up the stones every day when I came home from school. We also had to clean the weeds from between the wheat rows each day by hand. This was the chileren's work.
My father always said to me,"You don't look suited for this work. If you don't like farming,the only other way for you is to join the seminary." I think he was being cynical. After hearing the same thing every day though, I began to think,"Why not join?!"

 農業だけでは生活ができないから、羊2・3頭、山羊2頭、牛1頭を飼っていましたが、わたしの担当は羊と山羊の世話でした。学校から帰ってきたら日本の子供たちは「勉強しなさい!」って言われるでしょ。でもねわたしの場合は「羊が待ってるから、はやく行きなさい!」って言われましたね。わたしは、羊も、とくに山羊が大っ嫌いで、よく逃げちゃうし、死ねばいいって思ってました(笑)
We had one cow,two goats,and two or three sheep,because we couldn't live by farming alone. I was in charge of the goats and sheep. In Japan,the parents tell their children to study after school,don't they? In my case,however,myparents told me to go and take care of the sheep. I hate goats and sheep because they were always escaping. I especially hated the goats. Each time they escaped I wished they would die.

 学校に40分かけて通うのですが、その前に搾った牛乳、ん?山羊の牛乳?、牛乳と言わないね。山羊のミルクと言えばいいかな、そのミルクをチーズを作っているところまで持っていかなければならないんですね。いつも私の役割、わたしは残念ながらね、運が悪かったのはね、長男として生まれたのでした(笑)弟たちに行かせようとすると、弟たちは行きたくないから泣くんですね。そうすると「お前のせいでしょ!」って。まーほんとに、運が悪かったね(笑)
It took 40 minutes to walk to school everyday. Before going to school,I had to carry the goat's milk to the neighbor' place where they made it into cheese. Than I could go to school. This was my routine everyday. Unfortunately I was unlucky to be the first son. If I tried to make my younger brothers do some of the work,they would cry because they didn't want to do it. My mother said it was my fault that they cried. I was really unlucky.

 さきほどルカ神父様が子供のころを話しましたが、その中で、教区の神父様たちの服はボタンが多いとか、まーそうね、わたしもあんまり良い印象はなかったですね(ニコニコ)。
 毎週土曜日に土曜学校に行かなければならない。土曜学校はね、勉強よりもね、まず告解が必要でしたね。赦しの秘跡、まーわたしの罪は、お母さんから砂糖をかっぱらったなど、でした。あるとき神父様はわたしに「告解の仕方をしらないのか。勉強してから戻ってきなさい」といいましたね。まっすぐ家に帰ったら母に叱られるでしょ?「どこに行ってたの?ちゃんと告解したの?」とか。ぶらぶらしながら帰りましたね。それで次の土曜日、おそるおそる告解にいったのですが、そのとき神父様は半分眠っていてぜんぜん気がつきませんでしたね(笑)
(Fr.Luca just talked about his childhood. In his talk he said that parish priests have a lot of buttons on their habits. I have the same impression.)
On Saturday,I had to go to Saturday school. Ialso had to go to confession. My confessions were usually things like,"I stole sugar from my mother",or something similar. One time the priest said to me,"Don't you know how to confess? Study first and then come." I then wondered,"If I went straight home,my mother would become upset and ask me where I've been,and if I'd been to confession." So I walked leisurely home. The next Saturday, I nervously went to confession again,but the father was so tired that he didn't recognize me.

 そんな子供時代でしたが、わたしの村の近くには、フランシスコ会の修道院があって、ある時期になると修道士たちは托鉢しに来ましたが、ぶどう畑に彼らは歌いながらやってきてタダでもらっていくのです。それで、麦の収穫の時期になったらやっぱりやって来るんですね。わたしは子供ながらに、この人たちは前もって調べてくるんじゃないかって思ってました(笑)それに彼らはね、みんないつも幸せそう。とにかく、その修道士たちが来たら、村のみんなが「修道士様、一杯飲みましょう」と言うんですね。彼らは朝から酔っぱらっていて、だからいつも嬉しそうだったのかもしれないね。
This was my childhood. There was a Franciscan Monastery near my village. Sometimes the monks came asking for alms. They came to the vineyards singing,asking for free donations of grapes. During the wheat harvest they came again,singing and asking for wheat. From my eyes they checked first and then came. They always looked very happy. When those monks came,everyone in the village invited them to drink,even in the morning.

 わたしはこの嬉しそうにしている修道士たちをみて、この人たちは何のために生きているのか?って思うようになったのですが、やっぱり、人生を楽しむためかな、と思ったんですね。それで「よし、決めた!」って思いました(笑)
 それでお父さん、お母さんに言ったらね、母は「んー、あなたには向いているかな」っていいましたね。父は「んーまあ、この人は仕事で役に立たないけど、おそらく坊主としてなら役に立つだろう」と言ってくれましたね。
That's why they looked so happy. When I saw these happy monks, I wondered what their purpose for life was? I thought a lot about this and came to the conclusion that they wanted to be happy. That's when I decided that this is what I want. I told my father and mother. My mother said,"Maybe it's good for you" My father said,"Well,you're useless for farming. Maybe you'll be O.K. as a monk."

 神学校に入ると、そこにはルカ・ボナヴィゴ神学生もいて、そのときから友になっているんですね。彼もわたしの裏表を知っているけど、私も彼の裏表を知っている(笑)もう50年近く付き合っているからね。まあ、わたしは威張ることはないけれど、彼は威張ることがあるかどうかは判らないけどね(ニコニコ)
 でもね、わたしも一つのことだけ威張ることがあります。それはね、ある人に「あなたはもう一度生まれるとしたら同じ道を歩みますか」って言われたのですが、わたしは「同じ道を歩みますよ」って言いいましたね。この人に「あなたは、奥さんともう一度結婚しますか」って質問したら何と答えるだろうね。みんなの前では答えないでしょう。今晩恐ろしいからね(笑)
When I entered the Seminary,I met a seminarian named Luca Bonafigo. We have been friends ever since. He knoes my two sides and I know his two sides. We have known each other for 50years. I'm not overly proud of anything,but I'm not sure if he is the same. The one thing I am proud of is,"If you were born again,would you choose the same path?" My answer was, "Yes!" If I were to ask this person the same question,what would answer? He probably wouldn't answer it in front of people,especially his wife becouse he would be afraid to go home.

 イタリアのジリオラ・チンクエッティさんという人が歌っている歌の中に、こういう言葉があるんですね。「知らないのか~、一番いい年は、今のあなたの年です」というもの。知らないのか~、一番いい奥さん、一番いい旦那さんは、今の、あなたのご主人、今の、あなたの奥さんでしょ。だから、奥さんに向かって「出ていけ!」という前によく考えてください。出て行かれたら、みじめになるのは自分だから、ね(笑)お茶も入れられない、パンも焼けない人とかね、貧しい生活がまってますね。
The Italian singer,Giriolla Chinquetti,used to sing,there's a phrase,"Don't you know the best age is the age you have now." I say, "Don't you know the best wife/husband, is the wife/husband you have now>" Isn't that right? So,please think very carefully before you tell your wife or husband to leave. If you wife leaves your home,you will be the one who becomes miserable. You can't make your own tea or cook. Your life will become mentally poor.

 最後になりますが、わたしは、わたしみたいな人でも、司祭・修道士という役割を神様からいただいて、何と言いますか、宣教師になって、まだ一度も後悔をしたことがありません。
God led me on the path to be a monk, even someone like me. From the Beginneing,I've never regretted being a missionary.

フランシスコの生き方

 私は第二の太平洋戦争中に北イタリアの農家の家で生まれたのですが、主にサクランボ・ブドウなど大自然の物を作って暮らしていました。
 毎日40分ほど歩いて学校に通い、生まれた村のすぐ近くには、フランシスコ会の修道院がありました。
 そこの修道士達は、四旬節の時日曜日に告解を聴くためとか、御説教をするためとか、いろいろな機会に私の村まで来ていました。
 又自然の収穫と共に、麦やぶどう・サクランボやとうもろこしなどを托鉢にみえることもありました。
 いつも貧乏な修道士達は裸足にサンダルを履き、荷物を入れる馬車・馬車を引く馬かラバ・又はロバをつれ、いつもニコニコして歌をうたいながら、家から家へ回り「主の平和」と挨拶をしていきました。
 お昼御飯を、いろいろな家でごちそうになり、ぶどう酒も好きで酔うほどではないのですが、顔を赤くして飲んでいたことを覚えています。
 私はまだ5,6歳の頃だったのですが、この修道士達の幸せそうな顔は、私にとっての喜びとなっていました。
 冬の時、寒くても裸足で歌をうたいながら歩いている姿を見ると私は不思議に思いました。
 父や母は修道士達の生活は大変だと話をしているのですが、私にはこの修道士達の人生が楽しいものに見えたのでした。
 この頃から私の心の中では、大きくなったら修道院に入りたいと思うようになりはじめました。又アシジの聖フランシスコの生き方は積極的であり、人に喜びをうるものだと分かりはじめ、私も修道院に入り修道士になった時、自分の心の中にもその喜びがあふれる様になるためにも、もう一度聖フランシスコの歩んだ道を歩く必要があるんだなあと思いました。
 もちろんそれは簡単なものではないということが分かりました。
 毎日悪と戦い、自分の悪い傾きと戦いながらイエズス様のように、イエズス様をモデルにして生きる様にしなければ決して自分の心の中に喜びが生まれてくることは出来ないからです。
 日本に来て、日本人はアシジの聖フランシスコにものすごく魅力を感じていることが分かりました。なぜ魅力を感じているのかは、はっきりとは分からないのですが、おそらく自然に対する尊敬の念と、人間のわび、さび、しぶみに共通する思いがあるのではないかと思います。
 初めにわび(侘び)は、おちついていて、さびしさのあるおもむき、閑寂など徘かいや茶道の精神を示しているのですが、フランシスコもこの様なわびの生活を送りたかったと言う気がします。
 次にさび(寂び)は、もの静かでおもむきがある、じみだが平和な生活を送るなどの意味で松尾芭蕉(1644-1694)がうたっていると思うのですが、運命や神のおぼしめしに従って生きるの意味もあり、日本人にとってもこの様な気持ちは強いのではないでしょうか?
 最後にしぶみ(渋)ですが、室町時代(1333-1568)からしぶさ、しぶみとして表されており、せいそな物を楽しむことを示し、アシジの聖フランシスコも、鳥のさえずり、魚の色、木の葉の揺れる音などを好み、もっとも東洋人に近い西洋人の聖人だと思うのです。
 ヨーロッパへ行くたびにアシジにも寄るのですが、主に日本人が多く、やはりヨーロッパの中でアシジは、わび、さび、しぶみを示す場所であり又聖フランシスコは、ヨーロッパの中で、このような東洋的な文化を作った人とも言えるでしょう。
 日本語の学校に通っていた時に、僧であり歌人でもあり書家でもある、良寛さん(1757-1831)について学んだのですが、良寛さんもアシジの聖フランシスコとの共通点が多いと思いました。
 一つは、2人共お金、物などを捨ててしまい、物質からの欲を開放した人であり、次に、不思議なことに、アシジの聖フランシスコと聖女クララとの間にすばらしい交際があった様に、良寛さんの生活にも「ていしん」と言う若い尼さんとの交際があり、生活に輝きと彼にうたう喜びを与えていたのでした。
 良寛さんは、中国語でも日本語でも、短歌や長歌を作った人ですが、聖フランシスコもイタリア語の最初の詩人であり、又イタリア語でも、ラテン語でも、フランス語でも詩などを書いていたのです。
 
 東洋と西洋を比較することは難しいと思うのですが、アシジの聖フランシスコはみごとに、東洋の世界を西洋に紹介した様な気がします。
 ただ、東洋人にない聖フランシスコの特徴は『喜び』ではないかと思います。
 『喜び』は人間になった神を信じるところから生まれてくるものであり、東洋にはこの様な信仰がないので、なんとなく暗い影がいつでもある様な気がしてしまうのです。
 「聖フランシスコの喜び」は、神様の作った自然のものから生まれて来るのと同時に、クリスマスの赤ちゃんになった神様の顔でも、その喜びは満たされ、苦しみは、自然を破壊する所から生まれて来るだけでなく、十字架の上で死んでいる神様を見るところから、又その十字架のもとで苦しんでいるお母さんの聖母マリアをながめることから出て来るのです。
 私が子供の頃に見た修道士の喜びは、この様な喜びだったと思いますし、あの頃見えなかった彼らの苦しみが、今になるとなんとなく分かる様な気がします。
 芭蕉や良寛さん、アシジの聖フランシスコに出合えたなら、きっといい友達になれたでしょう。又芭蕉や良寛さんもイエズス様を信じる様になっていたでしょう。

アッシジの貧者(1)

 ある朝のこと、イタリアのアッシジという町で、一人の青年が目を覚ました。今から七百年も昔のことである。青年は「重い病い」からやっと回復したばかりだった。

よろい戸のすき間からは朝の強い日ざしがさんさんと降りそそぎ、サンタ・マリア・ヴンスコヴァード教会からはミサを告げる鐘が鳴り響いていた。
今日、とうとうこの病人は床払いが許されたのだ。

「何とすがすがしい朝でしょう!ねえ、フランシスコ。こんな朝はね、天も地も祝日の教会のように美しいし、生きとし生けるものはみんな神さまを賛美し、愛し、感謝しているように思われますよ。」

といいながら部屋に入ってきた母の腕には、新しい一揃いの服と、美しく磨かれた象牙の握手のある杖がかけられていた。
開け放たれたよろい戸から朝のすがすがしい風を受け、フランシスコは新調の服を身にまとい、杖で支えながら、まだ弱々しい足どりでゆっくりと歩きだした。
そして外に出て、なつかしい風景 ―中世の世界から抜け出したような美しく清潔なアッシジの町、広い野原や たわわに房をつけたぶどう畑、斜面の下のオリーブの樹林、澄みきった空にくっきりと浮かぶ山々― に挨拶をした。

でも何か、物足りなさを感じた。故郷の色とりどりの風景は、以前は大きな喜びでフランシスコを感動させたものだったが、今日 その喜びは あふれるほどには いたらなかった。胸の中で強く高鳴っていた心臓が、突然老いこんだかのように感じられた。ふと戦慄に似たある思いがフランシスコを突き刺した。自分の若さはもう過ぎ去ってしまったのだろうか。
絶えず自分に平和を与えてくれると信じていたもの、決して自分からは持ち去られることはないと信じていたもの ―日光、青空、緑の野、回復期の日毎夜毎しきりに願い求めたもの― 自分の手にあるすべてのものが、今や何の価値もない灰になっていたのである。
"あなたはちりであり、ちりに帰らねばならないものだ"(創世記3・19)
ものは みな すべて ちり であり、ちりであって ちり以外の何ものでもない。すべては滅んでいくのだ。すべては むなしいもの。
フランシスコは長い間 立っていた。目の前のもの すべてが しぼんでいくかのように見えた。身をこわばらせながら じっと立ちつくし、それから苦しそうに杖 にすがってとぼとぼと我が家のほうへ 歩き去った。
フランシスコにとって、この日こそ、「私はおまえの道にいばらを敷こう」と主が言われた その日であった。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
アッシジの貧者(2)

 フランシスコは、アッシジの最高富裕者の一人である大きな織物商ピエトロ・ディ・ベルナルドーネの跡取り息子であった。
彼はイタリアの風習に従って、店で父の手伝いを始めていた。商才のあったこの少年を、父親は早くから自分の商売の片腕としていたようであるが、少年は少なからずお金を意のままに扱い自分が儲けたものはことごとく遊楽のために散じる有様であった。
父の莫大な財力と、彼の生来の陽気さと気前のよさから、フランシスコは上流階級の青年達が集う社交界で中心人物となっていった。
フランシスコが育った時代は、まさに戦国の世であり、皇帝と教皇とは互いに相争い、貴族や市民をも巻き込んで、たびたび戦いをくり返していた。
1202年 ペルージァに敗北したアッシジの戦闘員は捕えられ 一年間監禁された。フランシスコもその中にいたが、商人の息子であるこの青年は高貴な装いをしていたため 一般市民たちとではなく貴族たちと一緒に監禁されることとなった。監禁中のフランシスコは、いつも陽気に歌ったり喜んだりしていたので、仲間の者たちをあきれさせたが、彼のおかげで気むずかしい人や仲間はずれになっていた人も同輩の中に迎え入れられ、補りょたちの間でフランシスコは 幸福の使徒となった。
こうして捕われ人となった貴族たちの中に、長い間おり、つきあっていたので、この若い商人の心には貴族たちの生活習慣に対する愛着心がますますつのっていき、釈放されてアッシジに戻ってからも、遊楽と酒宴の渦巻きのさ中に身を投じ続けた。彼は騎士として もっとも偉大な もっとも高貴なもの のために闘い、武勲を挙げ、貴族に列せられるのを夢みていた。



そして・・・「重い病」に罹った。
22才の時の(ほとんど死の入口まで連れてゆかれた)「この病気」がひとまず彼を救ってくれたものの、貴族になる夢がそれっきり潰えてしまうことには ならなかった。フランシスコには、回心までに まだまだ長い道程があった。

切実に自分の心のうちに寂寞さを感じてはいたものの、どうやってそれを満たしてよいのか、皆目見当がつかなかった。だんだん体調も回復し、元気を取りもどしてくるにつれ、またもとの生活にかえっていき、病気前と同じ道を歩み始めた。けれども以前とは違い、送っている生活の中にもはや何の喜びも感じないのだった。何かそこには不安があり、少しも平和はなく、心にはとげが生え、絶えずいらいらしていた。そして以前にも増して、大偉業を、珍奇な冒険を、遠い外国での勲功を夢みるのであった。
ちょうどこの頃、皇帝と教皇との争いが、また新しい局面に展開し、戦いが南イタリアで繰り広げられた。アッシジの一貴族は 小さな一隊を引き連れて その戦いに参加するための武装を整えていた。フランシスコはこれを耳にするや、熱に浮かされたようになり、長い間待ちこがれていたこのまたとない機会に、「アッシジの貴族は自分を迎え入れる!」「自分は騎士に列せられる!」と狂喜した。
派手好きで、金持ちの この青年の戦争のための身支度は、金に糸目をつけないものであった。でもまったくフランシスコらしいことだったのは、ちょうど出発に当たって、同行者の一貴族に出会ったが、彼は貧しかったので、身にふさわしい甲冑を装うことができなかった。それを目にしたフランシスコは、すぐさま自分の高価な装いを彼に与え、自分はその貴族の貧しいものを代わりに受け取り身に着けた、ということである。
その夜のこと、彼は夢を見た。それはフランシスコにとって、他のどんな夢よりも意味深く思われた。フランシスコが父の店に -多分いとまを告げに- 立っている。だがいつものように床から天井まで、どの棚もどの棚も反物でうまってはいず、その代わり、どっちを向いても輝く楯、光る槍、さん然と輝く甲冑がいっぱいである。不思議に思っていると、「みんなこれは、お前とお前の勇士たちのものになる」という声が聞こえた。
フランシスコがこの夢を、幸先が良いと受け取ったことはいうまでもない。そして輝く朝を馬にまたがり、喜び勇んでアブリア目指して一鞭くれた。
南イタリアへ通じるスポレットへさしかかった頃、以前フランシスコをあの病床に投げこみ、反省と目覚めに導かれたその同一の御手が、ここスポレットでまた彼を捕えたのである。フランシスコは熱病に襲われ、寝床から起きられなくなった。そして夢うつつの中をさ迷った。その時、どこへ行こうとしているのか、とたずねる声が聞こえた。
「アプリアへ、騎士になりに」と病人は答える。
「フランシスコ、おまえに一番ためになる人はだれか?主ですか、それとも僕か?」 
「御主」とびっくりして、フランシスコは答える。
「それなら、なぜおまえは家臣に代えて主君を、僕に代えて主を見捨てるのか?」
そこでフランシスコは自分に話しかけておられるお方がどなたであられるかを知り、パウロの吐いたあの言葉で叫んだ。
「主よ、おん身は私に何をお望みですか?」と。

けれどもその声は次のように答えられた。

「おまえの家へ帰るがよい、そこでおまえのすべきことを告げよう。おまえの見た夢は、別の仕方で解き明かされなければならない。」
そこで声は黙し、フランシスコは目が覚めた。まんじりともせず夜を明かし、朝になると静かに起き上がり、馬にまたがり、しょう然とアッシジの方へ引き返していったのである。
アッシジに戻ったフランシスコは 何をすべきかわからないまま、またすぐに遊び仲間の中心となり、すべてがもとの生活に戻っていった。しかしスポレットで、あの夜、懇切に語りかけられた優しいみ声はいつも彼の耳から離れなかった。
フランシスコの心の中は、混乱しゆれ動いていた。目まぐるしく その時その時の気分に支配され、ある時はこの世の声だけに耳を傾けたり、ある時は主に仕えようと しきりに請い願い求めたりした。そうこうするうちに、いっさいのものから 身を退き、孤独の中に自分の召命についてみきわめようという気持ちが、だんだんと強まり高められていった。こちらから訪ねていくことはなかったが、友達は相変わらずやってくるので、つきあいが悪くなったと言われたくないばかりに、相も変わらず豪奢な客あしらいを続けていた。
ある晩のこと、いつにも増して豪華な饗宴が張られた。宴が終ると 青年たちはいつもしているように 放吟しながら街頭へと繰り出した。フランシスコも少しおくれて歩いていく、歌も歌わない、ともすれば友達に遅れ、遅れては離れて、やがてとある小さな広っぱで一人になった。
そこで起こったのである。再び主はフランシスコを訪れたもうたのである。
この世とそのはかなさに堪えられなくなっていたフランシスコの心に、突然非常な甘美さが満ちあふれ、そのほかのことは何もわからなくなってしまった。
この世のものとも思われぬ甘美さに包まれ、われを忘れてそこに立ちつくしていたフランシスコがやっとわれに返ったのは、彼を捜しに引き返してきた友達の一人が、呼びかけた時であった。
「フランシスコ、君は君のハネムーンのことでも思っているのかい?」
見上げる天には星がきらきらとまたたいていた。冴えわたった八月の宵のことである。若者は答えた。
「そうだよ、結婚しようと思ってね、だが私のもらおうという花嫁は、君たちの知っているどの婦人よりも気高く、裕福な、またあでやかな婦人なのだ。」
いつのまにかやってきて彼を取りまいていた友人達は、そこでどっと笑った。
フランシスコはその笑い声を聞いて怒ったが、それは友人達にではなかった。
今までの自分の生活が、ことごとく愚かで、思慮のない、子供っぽい虚栄に包まれたものであり、それが突然 目の前で光に照らし出されたからである。
そこには まったく浅ましい みじめな自分の姿が写し出されていた。
そして自分の前には、今まで送ったことのない光に照らされた生活、真の、正しい、しかも気高い、豊かな生活-イエズス・キリストのうちに活きるという生活が、さん然と光を放っていたのである。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 

アッシジの貧者(3)

 町からほど遠からぬ所に一つの岩穴があり、フランシスコはそこを自分の祈りの場とした。外界から離れて、暗い洞くつの中で、天にましますおん父に祈りを捧げる場所を見つけたのである。

日が経つにつれ、神の思召しを行ないたいという願いが強まり、神が自分に何をお望みになるかをはっきりと確めるまでは、心の安らぐ日がなかった。
何度も何度も詩篇の言葉が唇にのぼった。
「主よ、あなたの道を示し、その小道を教えよ」と。
この清らかな理想の前に、今までの自分の生活が暗くいとわしかった。もはやあの放埒で愉快だった生活を思いだしたくもない。けれども、また元の木阿弥にならないためにはどうしたらよいのだろうか。またもや この世の喜びに、以前のように身を躍らせはしないだろうか。
フランシスコは自分の心の弱さをよく知っていた。
つらい苦しみのただ中で、フランシスコは自分の救いのため、暗い洞くつの中で独り戦っていたのである。
いつしかフランシスコは祈りの人となった。
祈りの甘美さを味わいはじめ、祈り続けた。
だから街を歩いていても、突然何もかも放り出して、祈るために御聖堂に入ってしまうことも度々あった。
フランシスコはほとんど以前と同じような生活を送っていたが、ただ違うところは、今までの友人たちに変わり、貧しい人たちを訪れたり、食事に招いたりしていたことであった。そして彼らの訴えに耳を傾け、援助した。

「せめて一度は、貧乏とは どういうことなのか、行きずりに小銭を投げ与える人ではなく、ぼろと塵芥とを身にまとって路傍に立ち、へりくだり、身をかがめて、施しをもらおうと 色あせた帽子を差し出す人とは どういう人なのか、もし私が知ることができるなら」という考えが、心に芽生えてきた。
しかし誰もが知っているアッシジではできかねた。
そこでローマへ巡礼しようと思い立った。
あの大都会なら誰も自分を見知っている者はいない。
そこでこの計画を成就させようと。
ローマに入ったフランシスコは、まっすぐ聖ペトロ大聖堂へ行った。そこで多くの巡礼者たちに行き会い、彼らが風習に従って使徒の墓に(その格子の窓越しに)捧げものとして小銭を投げこんでいるのを見た。フランシスコは、さっそく自分のふくれ上がった財布をひきずり出し、金銀貨をわしづかみにし、格子窓目がけて投げこんだ。まわりの人々は驚いて 彼の方をいっせいに振り向いた。
急いで教会を後にしたフランシスコは、一人の乞食に出会った。この旅行の目的を達する機会をとうとうつかんだのである。本物のボロを身にまとい、本当の乞食となって、聖堂に昇る階の上に立ち、他の乞食たちに混じって物乞いをした。
この瞬間のフランシスコの心はどんなであっただろう。
フランシスコがどれくらいローマに滞在していたかは、私たちには知らされていない。多分着いた翌日には帰っていったのかもしれない。資料にはただ、乞食たちの食事にあずかってから、借りた服を脱ぎ、自分のものを受け取り、それを身に着けてアッシジへと帰っていった、とあるだけである。
今やフランシスコは、貧乏とはどういうものであるか という経験 -ぼろを身にまとい、人様から恵まれたパンをかじり- をしたのである。
足るを知るということ、所有物を持たないということ、そうしたことを 実行し得るということに、精神的魅力を感じたのである。そしてまた、泉からのひとすくいの水、慈悲深い方からの一きれのパン、星のきらきらまたたく大空の下の夜の宿、こうしたもの以外に 何一つ持たないという生活が、この世にあり得る という喜びを感じたのであった。
あまりにもたくさんな事柄について、お金や財産、家や畑、使用人や家畜について、ほんのわずかで事足りるのに、どうして不安や心配が ついてまわるのだろうか? 聖福音書にこうあるではないか、
「心の貧しい人は幸いである」と。
「らくだが針の穴を通るのは、金持ちが天国に入るよりはやさしい」と。
この問題は、ローマから帰ってからのフランシスコを悩ませた。まえにも増して熱心に、導きと光とを神に叫び求めた。
聖フランシスコが「遺言書」の中で、この時期のことについて明白に書き残している。
「私が、自分の罪のうちに生活していた間は、らい病者に会うのが何よりも苦痛でした。けれども主は、私をそうした病人たちの下に連れていかれ、そこで私はその人たちに慈善を施したのです。このようにして主は私を回心させてくださったのでした」と。
中世ヨーロッパに於いて、らい病者の生活は悲惨を極めていた。社会からは突き放され、人々からは追い払らわれ、きびしい掟に縛られ、四方八方から隔離され、しいたげられていた。それであるからこそ、あらゆる悩みをかかえた人々にも増して、らい病人は救い主の象徴と見なされ、たくさんのらい病病院が建てられた。アッシジとポルチウンクラとの中程にも、らい病病院があり、フランシスコはよくこのあたりを散歩したが、病院を一目見ただけで恐怖におびえていた。
この点がフランシスコの最も大きな弱点であり、これを克服しなければならなかったのである。
ある日のこと、いつものように神に祈り願っていると、あの声が聞こえてきた。
「フランシスコ、おまえが神の意志を本当にわかろうとするのなら、おまえが今なお、肉のうちに愛し続け、好ましく思っているすべてのもの、それらをことごとく軽んじ慎まねばならない。そうすれば おまえが甘美で愛らしく思っていたものが、すべて堪えがたく苦いものとなり、以前におまえが避けていたすべてのものこそ、非常な甘美と大いなる喜びとなるであろう」と。
これこそ、フランシスコに与えられたプログラムであり、歩んで行くべき道が、ここに示されたのであった。
フランシスコは一人 ウンブリアの平原を、馬の歩みに運ばせながら、このお言葉について考えこんでいた。すると目の前の ほんの二、三歩のところに、らい患者がいるのを目にした。
フランシスコは飛び上がった。
背中を向けて一刻も早く逃げようという衝動にかられたが、自分の心に聞いた声、「おまえがいつも忌みきらっていたもの、それこそおまえにとって喜びとなり甘美となるであろう」……・。
自分にとって らい病者ほど忌みきらっていたものが あっただろうか?今こそ主をお言葉において受け入れる、その意志を示すべき時であった。
フランシスコは意を決し、馬から下り、らい病者に近づき、広げられた崩れた手に施し物を置き、そして恐るべき病でおおわれたその指に接吻した。
再び馬の背に戻ったフランシスコは、すっかり興奮して、自分が今何をしたのやらわからなかった。けれども主は、そのお言葉をお守りになったのである。
得も言われぬ甘美さと、幸福と、喜悦とが霊魂のうちに流れこんできた。あふれてもなおいっぱいに満たされたのである。
それはまるで 瓶に水を注ぎ 溢れ出た清らかな清水が、いつまでもかぎりなく注ぎ続けられているかのようであった。
その翌日から、フランシスコはらい病病院を訪れ、くずれた顔、腫れあがった手足、指のない手、臭気を発する病人のひとりひとりに 施し 物をわけ与え、ひとりひとりに接吻していった。
こうしてフランシスコは、人のかち得る最大の勝利、自分にうち克つ勝利を得たのである。この時フランシスコは自分自身の主人公であり、私達がたいていそうであるように、自分自身の奴隷ではなくなったのである。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(4)

 アッシジの近郊には今日でも、小さな御聖堂が、路ばたに、野原に 半ば廃虚となって残されている。このような半ば荒廃に帰した一つの古い御聖堂サン・ダミアノが、フランシスコの若い頃、町近く 少し下った所にあった。そこに下ってゆく道は、七百年経った今日でも あんまり変わってはいない。
 その小さなこわれかかった小聖堂の祭壇の上には、ビザンチン風の十字架像がかかっていた。この聖十字架のご像の前で、よくフランシスコは祈っていた。
あのらい病人達との出会いから少し後、いつものように このご像のおん前にひざまずき、「お話し下さい、主よ。おん身のしもべがここに聞いております!」と熱烈に繰り返していた。

そして起こったのである。
 神はそのしもべに 声をおかけになろうと されたのである。十字架につけられたもうた ご像から、心のうちにだけ聞くことのできる声が 聞こえてきた。
 「さあ、フランシスコ、出かけていって神の家を築き上げるのです。今にも倒れようとしている!」
あのスポレットで聞いた声と同じだった。単純で文字通りにとる人だったフランシスコは、この古い御聖堂の中をぐるっと見回した。すると実際この建物は殆ど倒壊しかけていた。フランシスコは喜びに満ち、十字架に架けられているお方に、こう答えたのである。
 「主よ、私は喜び勇んでおん身のお望みのとおりにいたしましょう!」と。とうとう神は願いを聞き届けられ、一つの仕事を命じられた。即座に行動を起こすという性質のフランシスコは、ただちに主の命じたもうたことを実行に移そうと立ち上がった。外に出ると、司祭が目に止まった。彼は貧しく年をとっており、石に腰をおろし日向ぼっこをしていた。青年はうやうやしく老司祭に近づいて挨拶し、自分の財布を司祭の手にのせてこういった。
 「どうかこのお金で油を買って下さい。いつもこの十字架のご像の前にあかりがともされておりますように。そしてお金がなくなりましたら私に知らせて下さい。いつでもまた差し上げますから。」
 そして老司祭の驚きをあとに、フランシスコは行ってしまった。青年の心はみなぎり、自分に起こった大事で満たされていた。歩きながら何度も十字架をきった。そうする度毎に、自分の心に十字架につけられたご像が深く刻み込まれでもするように。
 家に帰ったフランシスコは、父の店から商品である高価な織物をたくさん持ち出し、馬につけ隣の町へいき 市に出した。さらに自分の乗ってきた馬さえ売り払い、その代金を懐にして サン.ダミアノへと徒歩でひき返し、さき程の老司祭にお金をすべて差し出し、これを御聖堂修復のために捧げます、と申し出たのである。
 この司祭はさきほどの小さな喜捨は受け取ったが。今フランシスコが差し出した莫大な金には疑問を抱き、受け取る事を拒んだ。おそらくは この道楽息子のいつもの気まぐれであり、町の長者であるフランシスコの父への遠慮もあった。フランシスコは 一所懸命 説得に努めたが だめだった。ただ 何ものにも妨げられず、祈りと信心業が出来るようにと、このサン・ダミアノに しばらくの間住むことを 許してくれた。
 この時以来、フランシスコは修道士として生涯を送ろうと決心したのである。しかし ただちに修道院に入ろうというのではなく、いとも聖なるおん方おん自らが 教え導かれたのである。
 この司祭館の近くに一つの岩穴があった。そこを自分の部屋に選び、夜も昼も祈りを捧げ,大斎を守り、主のみを思って過ごした。
 この頃のフランシスコについて、今日まで伝えられている一つの話がある。
 それはある日のこと、ポルチウンクラまたはサンタ・マリア・デッリ・アンジエリと呼ばれている 古い小さな御聖堂近くを、泣きながら、嘆息しては泣きじゃくり、深い愁いと悲しみにうちひしがれてさまよっているフランシスコが見られた。通りがかった人が「いったいどうなさったのですか、なぜ泣いているのですか」とたずねると、フランシスコは「主イエズス。キリストのお苦しみを思うと、泣けて泣けて仕方がないのです。全世界を歩き回って、こうして泣いていましょうとも、少しも恥ずかしいとは思いません」と答えた。そこでこの人はいたく感動し、二人して泣いたということである。
 フランシスコにとっては、肉に従って生きるのではない、霊に従って活きるという生活が、ここに始められたのである。こうしたフランシスコを、両親がだまって見ていたわけではなかった。商売で留守がちな父親は、帰ってくる度に息子がいないのに腹を立てていたが、信仰深い母親のとりなしでなんとかその怒りをおさえていた。
 ある日、父ピエトロ ディベルナルド-ネが店にいると、表の通りから大きな騒ぎが聞こえてきた。外に出たピエトロが見たものは、乞食のようななりをして、子供達に石をなげられ、追っかけ回されている自分の息子であった。輝かしい未来と希望とを賭けていた息子なのに、今目の前にいるその息子は、やせおとろえ、髪を乱し、目のふちには黒ずんだくまをこしらえ、恥ずかしい身なりをして、石を投げられ血を流して...ピエトロの腹わたは煮えくり返り、今にも息の根が止まってしまいそうだった。ピエトロは一言も発せず、郡衆の中にとびこんで、息子をわしづかみにすると、家の中に引きずりこみ、地下室の床の上に たたきつけた。フランシスコは気を失って死んだようになっている。外から扉に鍵がかけられた。父親はこの監禁で、息子の最近の馬鹿さ加減をなおそうと考え、水とパンだけしか与えなかった。以前の食い道楽を知っているから、こうすれば速やかに目が覚めると思ったのである。だがそうした時期はすでに過ぎ去っており、フランシスコは別人になっていた。
 2,3日経ち、父ピエトロはまた旅に出かけなければならなくなった。母のピイカ夫人は、夫の留守を見届けると、監禁所の扉を開けた。ところが息子は少しも挫けも屈してもおらず、自分の信念のために何もかも堪え忍んで、それどころか喜びさえ感じている、というありさまであった。
 息子の信念が堅いのを知った母は、息子を自由にしてやろうと決心した。放たれた小鳥が巣に帰ってでもいくかのように、いそいそとして、フランシスコはまっすぐに、サン・ダミアノの隠れ家目指してかえっていったのである。
 旅から帰ったピエトロは、フランシスコがいないのを知ると怒り狂った。そして色々の手段をこうじて、フランシスコに家族のもとに帰るように説得した。しかし翻意しないと知るや、ついに息子が以前持ち出した金をすべて返還するように法律に訴えた。訴訟は受理され、定められた時刻に、父と子は司教の前に立ったのである。

 町の最高の金持ちであり、恩人でもあった父と、乱心した息子との間の訴訟事件は大評判になり、たくさんの傍聴者が詰めかけた。
 司教がフランシスコに言った。「神にお仕えするということがおまえの志であるならば、父上にその金を返すがよい。多分よろしくないやり方で得られたものであるから、教会のために用いてはならない」
皆の目が父から息子へ向けられた。するとどうであろう、みんなを驚かすことが起こったのである。歴史初まって以来、かつて起こったことのない、またこれから先も起こることのないこと、画家は幾世紀にもわたって徳の絵を描き、詩人は賛歌を献じ、司祭はそれについて説教するという場面が。
 静かに しかも輝かしい眼をして、フランシスコは立ち上がった。
「司教様、私は父上からのお金は喜んでお返しいたします。それからいただきましたこの着物も」というと、法廷の後ろに見えなくなった。そしてすぐに出てきた。裸で、ただ腰の所に毛皮の帯だけ着けている、手にはそれ以外の衣を全部抱えて。皆思わずざわめき立ち上がった。

 父と息子は立ったまま向きあっている。息子の声はふるえを帯び、目は頭上はるか彼方に向けられて、何ものかをそこに見てでもいるかのように、こう言った。
 「皆さん、私の言う事を聞いて下さい。今まで私はピエトロ・ディ・ベルナルド-ネを父と呼んでいました。今私はお金も、いただきました着物もみんなお返しします。ですから、これから先はもうピエトロ ディ ベルナルド-ネを父と呼びません。天にまします私どものおん父を、父と申します!」
そして緋にいろどられた上衣と、麻の下衣とを父の足許に置き、そこにお金を置いた。
並み居る者のあいだに 強い感動の渦が巻き起こった。皆わっと泣きだし、司教さえ目に涙を浮かべている。だがピエトロ・ディ・ベルナルド-ネは怒りで蒼白となり 石のように押し黙って、着物とお金を持って出ていった。司教はフランシスコに歩み寄り、そのマントでこの若者を包みこんだ。
この時からフランシスコは、まったく神のしもベとなり、教会の人となったのである。
 最初の強烈な感激の嵐がしずまり、フランシスコが司教とただ二人残された時、初めて司教はこの若者に着せる着物の心配をし始めた。丁度庭師の古い上つ張りがあったのを、フランシスコは喜んでいただき、その着物の背中に十字架のしるしを白墨で描き、司教館を後にした。ウンブリアの四月、空は青く澄みわたり、空気はさわやかで快く、イタリアの最も美しい季節であった。ピエトロ・ディ・ベルナルド-ネの息子は、こんなふうにして聖福音書のみ言葉を文字通りに実行し、あらゆる物を捨てて、ただ十字架を我が身に引き受け、イエズスのみ跡に従ったのである。
 しかしそのためには、身を切るような苦しみを乗り越えねばならなかった。後年フランシスコは、生涯のうちで一番辛かったことはと問われた時、小さな声で、父との決裂であったともらしたという。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(5)

 司教館を出て、アッシジの門を後にしたフランシスコは、サン・ダミアノへは向かわず、また 下の野原の小さな御聖堂ポルチウンクラにも向かわず、まっすぐモンテ・スバジオ目指して道を辿った。

 こうしてただ一人 モンテ・スバジオの頂に着いた。そこからは一望のもと はるか彼方まで見渡せる。スポレットの谷が、きらきら光る河が、オリーブの植えられた畑が、そして家々や教会が おもちゃのように見える。下のアッシジでは視界をさえぎっていた山々は 低く横たわり、その向こうにはもっと高い淡い青色をした山々が、遠いアペニーニの山脈がその頂をそびえさせている。
 スバジオ山の山頂から、それらの風景を見渡しながら、やっと心の落ち着きを取り戻したフランシスコは、グッビオに向かって歩き出した。

 グッビオの町は、アッシジから4・5キロ隔たっており、少年の頃からの友人が住んでいた。その友人から修道士の着物と、腰帯と靴と杖をもらい受け、その後しばらくこの地の病院で、らい病患者の世話をして暮らしていたと伝えられている。
 ただアッシジの近郊サン・ダミアノでは、フランシスコの特別な仕事が、なおそのまま待っていた。

 しばらく後に、フランシスコの姿がサン・ダミアノで見られた。神が課せられたあの仕事を始めようとしたのである。御聖堂再建にとりかかったフランシスコは、一つの問題にぶつかった。今まで一度も煩わされたことのないことが、今現実の姿で迫ってきたのである。それはお金の問題であった。
 一体何処にその手段があるというのだろう。石や漆喰などは、どうしてもただで得られるはずのものではなかった。

 それなのに、フランシスコは企てたのである。必要な石や漆喰を無償で得るということを。それからアッシジの市場に、修道服を着て、吟遊詩人のように人々に歌って聞かせるフランシスコの姿が見られた。そして歌い終わると、聴衆の間を歩き回って乞うた「与えるものは天国でその報いを受けるでしょう」「二つの石を与えるものは倍の報いを、三つの石を与えるものは三倍の報いを受けましょう」。聴衆はどっと笑いたてたが、フランシスコはただ笑い返すほかなかった。でもある人達は、あの道楽息子のフランシスコが、こんなにまで神の愛に酔いしれて回心させられているのを見て、感動し涙を流した。

 とにかくフランシスコは、石をたくさん集めることに成功した。そしてそれを肩に担って運び、自分で のみ をとった。通りすがりの人々は、フランシスコが仕事をしながら、楽しげに歌をうたっているのを聞いた。誰か立ち止まって見てでもいようものなら、こう呼びかけた。「どうです、ここへきてわたしを助けてくれませんか? 聖ダミアノの御聖堂を修復するのです。手伝ってください。」
 フランシスコの熱心で、骨身惜しまぬ働きに、老司祭は感動して、いつも夕には自分の貧しい境遇の許す範囲でごちそうを皿に盛って、労をねぎらってくれた。
 
 しかしある夜ふとフランシスコは、多分これから先き、自分がたどり着くであろうどこでも、このようなことが期待できるのだろうかという問題に行きあたった。こうしていることは、少なくとも私が今まで求めていたような貧しい人たちの生活ではない。いや本当に貧しい人は、戸口から戸口へと、鉢を手にして歩き、親切な方が恵んでくださるものをその中に集めるのだ。「さあ、私も今からそうしなくてはならない」と。
 
 次の日から、正午の鐘が鳴り、人々が食卓につく時分になると、フランシスコは鉢を持って、町中を巡回しに出かけた。ともかく戸を叩けば何かがもらえた。ひとすくいのスープ、肉がまだ幾らかついている骨、一切れのパン、二、三枚のサラダ、あらゆるものが入り混じって。フランシスコが物乞いを終えた時には、その鉢はいっぱいであった。だがまるで食欲をそそらない混合物であった。まったく気後れがしてしまい、この青年は階段にぺたりとしゃがみこんでしまった。じっとその鉢の中を見つめる。犬の餌でも入れた木製の桶のようだ。今にも吐き出しそうになりながら、唇に最初の一片を持っていった。するとどうであろう、あのらい患者に接吻した時、ちょうどその時のようであった! 心が、出し抜けに聖霊の甘美さに満たされて、いまだかってこんなおいしいごちそうを一度も口にしたことがないように思われたのであった。
 
 宙を飛ぶ思いで司祭館に帰ると、もうこれからは自分の食べ物は自分で心配します、と司祭に申し出た。
こうしてピエトロ・ディ・ベルナルドーネの息子は、実際に公然と乞食になったのである。

 サン・ダミアノの仕事は速やかにはかどった。実際 改築以上の修繕であった。仕事の締めくくりとして、フランシスコはこの司祭の許に、御聖堂のあかりを灯す油を、とりわけ聖なる秘跡の祭壇の前の永灯明のために十分な油をたくさん蓄えて残しておこうと思い、アッシジの町を、油をもらい集めるために回り始めた。夢中になって一軒、一軒と回っているうち、ふと気がつくと昔の友人の家の前であった。そして昔彼がよくやっていたような酒宴を開いていた丁度その所に行きあたった。突然くたくたと勇気がくじけてしまった。

 父にも負けなかったし、人々の嘲笑にも負けなかったのに、恥ずかしくなった、昔の仲間の前に出るのが。
おそらく全ての回心者が経験する瞬間、言うに言われぬあのつらい瞬間を経験したのだった。フランシスコには自分が見捨ててきたものの方がかえって輝き、喜んで着ていた隠棲修道士のみなりがおかしな仮装のように思われ、あの過ぎ去った楽しかった時代よりももっと今日はつまらない人間であるかのように思われたのだった・・・。

 しかしこうした闘いもほんの少しの間だった。酒宴が催されている家を二、三歩行き過ぎてから、自分の臆病な振る舞いを悔やみ、後戻りして、友人達にサン・ダミアノの灯火のための油を神への愛のために、あなたたちから喜捨していただこうとするにあたり、自分がどんなに弱かったかを皆に告白したのである。
 こうしてこの修復工事が完成した後、さらに古いベネディクト会の聖堂サン・ピエトロの修築をした。そうしてしまいには、とうとうあの小さな古い野原にある御聖堂、かつてその前でキリストのお苦しみを思って泣いたというあのポルチウンクラ、またの名をサンタ・マリア・デッリ・アンジェリと呼ばれた御聖堂を再建し始めたのである。この御聖堂は、サン・ダミアノと同じように、スバジオ山上のベネディクト会修道院に属しており、聖地から帰郷してきた巡礼者たちによって352年に建てられたといわれている。この近くにフランシスコはそれから長い間の住所を定めたのであった。

 この頃のフランシスコが、物質的な教会堂の建設ということを、自分の本質的な生涯の課題であると考えていたと言うことは疑う余地がない。この後1213年にはサン・ジュミニーニとポルカーリマとの間に、聖マリアのための御聖堂を建てているし、1216年にはアッシジのサンタ・マリア・デル・ヴェスコヴァードの修築にも関係を持っていた。謙遜な心を抱いている全ての人たちのように、何を為すかということよりは、いかに行うかということの方がより大事であることを知っていた。その生活、それは単調でしかも大きな課題に欠けているために、神の愛を多く要求し、あまりにも多くのこの小さい有限なものの背後に、無限なる神の愛を感じる能力を多く必要とするのである。
 働く日々のさ中にあって、日曜日の心を守るように、来る日も来る日も悲しいときにも陽気な心でいられるように、つまらぬことに疲れ果てても強い心が持てるように・・・。フランシスコはこうしたことのできる強い陽気な精神を持っていた。

 そして目の前には、一つの生活が、その将来の遠景のように、くっきりと描かれていた。少しばかりの固くなったパン、時としてはそれすらも全くない昼間の手仕事と、それから淋しい夕べの祈り、静かな朝の路傍や山々の間の御聖堂や教会でのミサや、聖体拝領などに分けられていた・・・。

 13世紀の初め頃は、カトリック司祭は各自 毎日ミサを捧げるという風習は一般にはなかった。ただ日曜日毎に、あるいは要求された場合に、または大きな祝いの日にミサが捧げられただけであった。こうした機会のある度毎に、フランシスコは必ず与ったし、またフランシスコを喜ばせるために司祭は、サン・ダミアノから幾たびとなく朝早くポルチウンクラに下って行き、新しく改築された御聖堂でミサ聖祭を捧げたのであった。

 1209年2月14日 聖マチアの祝日のミサが ポルチウンクラの御聖堂で行われ、フランシスコは聖福音書の一節を、司祭が読誦されるのを聞いていた。

「『天の国は近づいた』とのべ伝えよ。病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を清め、悪魔を追い出せ。あなたたちは無償でもらったものだから、無償で与えよ。金銀や銅貨を帯に入れてはならない。旅袋も二枚の上着も、靴も杖も、持っていってはならない。働く人は、当然自分の糧を受けるはずであるから。どんな町や村に入っても、ふさわしい人をさがし、出発するまではそこにとどまれ。家に入る時には平安を祈れ。その家が平安を受けるに値するなら、その上にくだるだろうし、値しないなら、その平安はあなたたちに返ってくるだろう。」(マタイ福音書 第10章 7~13)
 この一節は、あの2年前のサン・ダミアノでのお言葉よりも新たに、いっそうはっきりとした 主のお言いつけであるように思われ、フランシスコの全生涯にとって決定的なものとなった。
 フランシスコが、その時の聖福音書の読誦を、神聖なる啓示と受け取ったということは、「遺言書」の中にこう書き残していることでもわかる。

「いとも高きお方自らわたしのために、おまえは聖福音書に従って生活すべきであると啓示されました」と。そしてまた「主はわたしめに、わたしどもが申すべき挨拶即ち『主があなたに平安を与えられますように』という言葉を啓示せられました」と。

 完全に神の弟子になろうと欲する人達に、神に捧げて神にのみ仕えようとする人々に、神の要求されることを、フランシスコが幻視のうちに了解したことは、そのもの達は使徒となり、あらゆるよけいなことから免れて、俗世間のあらゆる心配をせず、霊のうちに歓喜して、古より厳として存する喜ばしい訪れをもって、「回心せよ、天国は近づいた!」と進軍していくということであった。

 御聖堂を建てる隠棲修道士フランシスコは、この時から福音を宣べ伝える使徒フランシスコ、回心と平和の福音宣教者となったのであった。
 
 御聖堂から出てきたフランシスコは、さっそく靴を脱ぎ、杖を投げ捨て、寒さを防ぐために着ていたマントを取り去り、腰帯の代わりに縄の帯を腰に締め、その地方の百姓がよく身につけていた長い茶褐色の上っ張りを身にまとい、頭巾を頭に投げ掛けられるように背中の上の方につけて、使徒たちが遍歴したように、素足で世の中に遍歴に出て行き、主の平安を迎え入れようと望む人々の所に、それをもたらせようと決心したのであった。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(6)

 その日からアッシジの町には、奇妙な姿が見られるようになった。町の広場や通りのそこここに、百姓の着る灰色の衣を身にまとい、頭には頭巾をかぶり、腰には縄の帯を締めた風体の者が現われ、出会っただれかれに、「主があなたに平安を与えられますように」と挨拶をする。人々が大勢集まっているのを見ると、そこに歩み寄り、裸足で階段や石の上にあがって説教をし始める。
 この奇妙な男は、こんなふうに福音宣教の仕事を始めた。これがピエトロ・ディ・ベルナルドーネの息子なのであった。この男はきわめて単純に、巧まずに、人間の最高の善としての平安について語った。


 神のご命令を守ることによる神との平安について、正しい行いによる人との平安について、心にやましいところがないという保証による各自自身の平安について、これだけが話しの中心であり、問題なのであった。
 次第に人々は、フランシスコの話すことに耳を傾け始めた。そこに語られた言葉は、聞き流されてしまわないどころか、感じやすい多くの人の心の中に、また神にもっと近く一致させて生きようという憧れを抱いている、強い、けれども定まらない人々の心の中に、穀物の種子のように落ちていったのである。

 こうして少し経つうちに、フランシスコは弟子を持つようになった。その最初の弟子と言われている人は、「信心深い、単純なアッシジ出の人」であったというだけで、その名前も、詳しい話しも伝えられてはいない。
 それで歴史上知られている最初の弟子は、あのクィンタヴァッレのベルナルドである。ベルナルドはフランシスコのように商人であった。たぶんそれ程フランシスコより年上ではなかったが、あの昔の遊び仲間ではなかった。もっと離れた遠くから、この青年のめざましい行いを観察していた。

 初めの頃は、他の多くの人々のように、フランシスコの回心や聖堂修復を、ただ気紛れだと見ていたが、日が経つにつれ、フランシスコが自ら選んだ生活をよく持ちこたえ、それをどこまでも続けていくのを見て、ベルナルドの疑いは、尊敬の念に変わり、フランシスコに従っていきたいという心が芽生えてきた。

 さて、後世の聖人伝には、ベルナルドがその身をフランシスコの許に置く前に、フランシスコの信心が本物か、それとも見せかけなのか明らかにしようと試みた話しが載せられている。

 ある日ベルナルドは、フランシスコを自分の所にお泊まり下さいと招待した。その頃定まった住まいをもってはいなかったであろうフランシスコは、喜んでこれに応じた。ベルナルドはお客のために、自分の寝室にもう一つベッドをしつらえさせた。その部屋には、相当な家庭の風習として、夜通し灯す灯りがともされていた。フランシスコは部屋に入るとすぐベッドに入り、もう寝ついてしまったようにしていた。ベルナルドもまたベッドに身を横たえて、深い眠りにおちたかのように、いびきをたてた。するとフランシスコは、ベルナルドがもう本当に寝ついたのだと思い、ふとんから起き上がり、お祈りをし始めたのである。眼を天に向け、両手を高く差し上げて、大いなる信心と、熱誠とをこめて叫んだ。
「私の神、私のすべて!」
 その他は何一つ言わず、朝までそれを繰り返していた。ベルナルドはただ茫然と、その姿を見ているだけであった。

 夜が白々と明け放たれた時、ベルナルドのフランシスコに従おうという決心は、もう変わらないものとなっていた。
 
それでこの望みを次のような質問の形で述べたのである。

「ある人がその主人から、ある財産を受け取って、それを長年の間所有していたのですが、もうこれから先き、もはやそれを持ち続けていきたくはないと思った時、その人はいったいどうしたら良いのでしょうか?」
「それは以前くださった方にお返しになったらよいでしょう」と、フランシスコは極めて当たりまえの返事をした。
「ところがあなたに今お話ししようというのはこういうことなのです。私がこの世で所有しておりますものは、みんな神とイエズス・キリストからいただいたものでありましょう。それで今これをお返し申したいのですが、あなたはどうすれば一番良いとお思いになりますか?」

「今あなたが申されたことは、大変重大です。ですから私たちの主イエズス・キリストにご意見を伺いましょう。どのようにこの考えを実行に移したらよいか、神の思し召すところをお知らせ下さるように、教会に行って、福音書を開き、主がその弟子たちにどのようにお命じになられたかを拝読いたしましょう。」

 それで丁度やってきたベルナルドの友人で法律家のピエトロ・ディ・カッターニと共に三人で近くのサン・ニッコロという教会へ行き、御聖堂で一緒に祈った。そしてフランシスコは祭壇に上がり、ミサ典書をとって開く。

「あなたがもし完全でありたいなら、行って持ち物を売り、これを貧しい者に施せ。そうすれば天において宝を積む」

 さらに聖書を開くと、二回目は「私のあとについてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架をとって私に従いなさい」
三回目は、「旅のためになにもたずさえてはならない」とあった。

 フランシスコは聖書を閉じ、二人の方をふり向いてこう言った。

「これが私たちの生活と掟です。否そればかりではなく、私たちと一緒に生活したいと望む全ての人々の生活です。掟です。さあお発ちなさい。そしてあなた方がお聞きになったことをなさって下さい!」
ベルナルドは早速ジェオルジオの御聖堂の広場(今の聖クララの広場)に立って、全財産を貧しい人達に頒け与え始めた。そのそばにフランシスコは立ち、心のうちに神をほめたたえていた。かつてはピエトロ・ディ・ベルナルドーネの代わりに、自分で一人の乞食を父に選んだのであったが、今またここに、神は弟アンジェロの代わりに、すばらしい兄弟をお与え下さったのである。

 ベルナルドの友人、ピエトロ・ディ・カッターニもまたフランシスコに従うために、自分の財産を手放そうと立ち去っていった。
 キリストを学ぶ三人の兄弟たちは、全てを整理してしまうと、一緒にアッシジを発ち、ポルチウンクラでその夜を過ごした。御聖堂の近くに、木の枝と泥とを捏ね合わせて固め、夜はそこに宿り、昼は祈ることのできる小さな小屋をこしらえた。

 アッシジからエジディオという青年が訪ねてきたのは、ベルナルドが回心してから八日目のことだった。富裕なベルナルドと、法律家のピエトロがその全財産を施し与えてしまったということは、町中に大変な衝撃をひき起こし、寄るとさわると、昼も夜も、人々の間で尽きない話題の種となっていた。家族との団らんのうちにその噂を聞いたエジディオは、次の日ポルチウンクラに向かって歩き出していた。そこにフランシスコが滞在していると聞いたからであった。途中道が二つに分かれていたが、エジディオは道を間違えないように神に祈った。それから二、三時間歩き続けて行くと、とある森に出た。ふと見ると向こうからフランシスコがやってくるではないか。お祈りは聞き届けられたのだった。エジディオはすぐさまフランシスコの前に身を投げ出して、自分を兄弟たちの仲間に入れて下さいと懇願した。フランシスコはエジディオの敬虔で、若々しい様子をつくづくと見てたすけ起こし、こう言った。

「愛する兄弟よ。神はあなたにそれはそれは大きな恩寵をお示しになられたのです!神があなたを、その聖なる福音を完全に行うようにと、ご自分のまことの僕にお選びになられたということは、どんなにあなたにとって喜ばしいことかしれません」

 そこでフランシスコは、エジディオを兄弟たちに引き合わせ、四人の兄弟たちは愛のうちに貧しいが喜びに満ちた食事を共にした。食事が済むと、フランシスコはエジディオを連れて、この兄弟のために、着物の布を手に入れようと出かけていった。道で一人のお婆さんに出会った。そのお婆さんは施しを求めた。フランシスコは兄弟エジディオを振り向きながらこう言った。

「私の愛する兄弟よ。神のおんために、この可愛相なお婆さんに、あなたの着ておられるマントを与えようではありませんか!」

 兄弟エジディオはすぐ立派なマントを脱ぎ、お婆さんに与えた。この施し物は(後年エジディオが言っているように)エジディオの心のうちに、いうにいわれぬ喜びを与えたのであった。

 このようにして四人はポルチウンクラの小屋で一緒に生活しながら、布教の旅に出ていった。フランシスコが今までただ一人でしてきたことを、今度は四人で一緒にやったり、二人ずつに分かれてした。フランシスコはエジディオと組になって一緒に、アルカ・アンコーナへ、アペンニーニの山とアドリア海との間にある地方へ行った。 帰りに三人の新しい弟子を得るという喜びがあった。サッバティーノとモリーコとヨハネの三人である。
 この七人はポルチウンクラの小屋に集まると、またもやすぐにみんな布教に出かけた。フランシスコの兄弟たちの説教は極めて単純であり、素朴であった。その説教は説き勧めるというよりは、むしろ実践されたことの報告といった印象を与えた。飾らない言葉は心から心へと通っていった。その説教の主旨はいつも重要な三つのことに帰した。即ち神を畏れ敬うこと、神を愛すること、そして悪から善へと回心することの三つであった。

 この新しい説教者たちは、いたる所で、百姓たちの間で非常な噂の種をまいた。多くの人たちは彼らをおぞましく思い、婦人たちは彼らがくると、いそいで隠れてしまった。だが一部の人たちは彼らに耳を傾け、あなたたちは何という修道会で、どこからやってきたのかと聞いた。すると彼らは別に修道会を組織しているわけではなく、ただ「痛悔の生活を送っている、アッシジから来たものです」とだけ答えるのだった。

 だが、たとえこの人たちが世にいう痛悔者であっても、いかにもそれらしくうなじを垂れているような人たちではなかった。先頭に立って歌うフランシスコと共に、彼らは非常な喜びに満たされ、絶えず神を賛美していたのであった。彼らが陽春の光を浴びて小鳥のように自由に、緑なすぶどう畑をさまよう時、この世を愛する人が、そのために悩み苦しまねばならない罠や枷から免れさせて下さる全能のお方以外には、何者にも感謝は捧げられないのであった。

 フランシスコは六人の弟子たちを派遣するに当たり、とある森の中に一同を集めこう話した。
「さあ、みなさん、出かけていって平安と回心の福音を宣べ伝えるのです!艱難に際しては辛抱強く忍耐なさい。あなた方に尋ねる人があったなら、誰にでも卑り下って答えなさい、あなた達を迫害する人があったなら、その人達には祝福を与えなさい。あなた達に不正をなし、誹謗する人があったなら、その人達に感謝しなさい。そのためにあなた達への報いは天国でそれは大きなものとなるでしょう! そしてあなた達に学問がないからといって恐れてはなりません。あなた達が語るのではない、天にましますあなた達のおん父の霊があなた達を通して語りたもうでありましょう!そしてあなた達は信仰の厚い、善良な、柔和な、たくさんの人々に会うでしょう。あなた達を、あなた達の言葉を喜んで受け入れてくれる人々に!
 またいっぽう、神を冒涜するもっとたくさんの人達に会うでしょう。あなた達に抵抗し、反対する人々に!このためにあなた達は、へりくだってあらゆるものに耐えられるように準備なさい!」

 こう言い終えるとフランシスコは、一人一人をかき抱いて祝福し、最後の糧として聖書の次の言葉をはなむけとしたのである。

「あなたの行く末を主にゆだねよ、主はあなたを支えるだろう。」(詩編54.23)

 それから弟子たちは、二人ずつ連れだって遍歴の旅に、世の中に出て行った。

 兄弟たちには、フランシスコが旅に出る時に与えた「耐え忍ぶ」という訓戒が、すぐ必要となった。多くの人々から気狂い扱いされ、追い払われ、嘲弄され、路端の泥を投げつけられ、殆ど裸にもひとしい姿で旅を続けてゆくのであった。

 山の上の町ポッジョ・ブストーネの町からさらに五百メートルも高い所に一つの洞窟があって、フランシスコはアッシジ以来の習慣を忠実に守り、布教の旅から戻ると祈るためによく一人その中に入った。非常にわびしい、静かな、聞こえるものといえば小鳥の「チッチッ」という鳴き声と岩陰の小川のせせらぎの他には何もなかった。その固い石の上に、幾時間も幾時間もひざまずいていた。彼は福音宣教者であると同時に、また隠棲修道士でもあったのである。生涯このことは変わらなかった。

 フランシスコは自分自身の心の底まで見つめて、全世界には自分よりももっとあさましい被造物も、より大きな罪人も、魂を悪魔の手に渡した堕落者もないと考えて、追い詰められ、底の底から天高くまします神に向かって嘆いたのである。

「主よ、この貧しい罪人であります私を、あわれんでください!」と。

 一つの霊魂が全く自分自らに対する信頼を失い、ただ信仰と希望と愛とで、神によりすがる時、祈りは聞かれた。いつものように「おそれるな、わが子よ、おまえの罪は許されている!」
 この時からフランシスコは、自分の罪の赦しを確信し、自分を待っている仕事に十分に武装せられ、キリスト教の核心に引き入れられたのである。
 まさしく一切を放棄し断念したが故に、今や一切に勝ち得たのである。父母や、家や家庭や金や財産ばかりではない、神が自分のものとなり、また自分が神のものとなるべきはずのものであるならば、他の何ものにも増して重要であるところのもの、自分自身をも捨ててしまったのである。今からは、フランシスコの義は、使徒がいうところの、キリストが信者の信仰によって働きかけたもうそれであった。 そしてこの義からその生活が聖性の芽をふいていったのである。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より) 
 
アッシジの貧者(7)

 フランシスコの兄弟たちは増え続け、ポルチウンクラの小屋から20分程離れた所の、リヴォ・トルトと名付けられた場所の、壊れかかった納屋か物置のような建物に移った。

このリヴォ・トルトのみすぼらしい小屋には、教会も御聖堂もなかったので、兄弟たちはその小屋の前に建てられた 大きな木で作られた十字架の前で祈った。フランシスコにとっては、このように 非常に貧しいということ、それに関しては言うべきことは 何一つなかった。否それどころか、ここリヴォ・トルトが大層お気に入りだった。ここから川の流れに沿ってゆくと、モンテ・スバジオの幾つかの洞窟にたどり着く。それらの穴がいずれも狭く小さかったので、それらを自分の「牢屋」(カルチェリ)と呼んで、そこでよく祈っていた。

こうしたことはすべて、アッシジでは色々と取り沙汰されていて、当然司教の耳にも入っており、とりわけこの人達が乞食をして食べるということに嫌悪感をもっていた。それにもかかわらず、フランシスコは この点については 一歩も引こうとしなかった。なぜならお金や所有物を捨てることによって、真のキリスト教的生活の障害物が取り除かれるのを、よくわかっていたからである。

ある日のこと、フランシスコは「霊的指導者」と尊敬しているグィド司教の部屋にいた。

「司教様」とフランシスコは言った。

「もし私達が財産を持つといたしますと、私達もまたそれを守るために武器をとらなくてはなりません。と申しますのは、所有するということ、そのことから隣人との間に、親しい者達の間に争いが生じます。それで神への愛や、人々やお互い同士の愛がすっかりこわされてしまいます。ですからこれを完全に損なわないで保つために、私達はこの世に於いては何一つ所有しようと欲しない固い決意なのです」

司教自身が財産所属の問題について、ベネディクト修道院や十字架奉持会とも争っていたので、首をうなだれて黙ってしまった。司教もまたそんな理想の高みへは飛び上がれないでいる。だからフランシスコを妨げたり、阻止したりなどあえてしようとはしなかった。

フランシスコが望んだところのものは、ナザレのイエズスがお望みになられたことであった。人はでき得る限り少なく所有すべきだということ、生計を営むためには自分の手で働くべきで、その働きで十分でない時には他の人に援助を乞うこと、不必要な心配はすべきではなく、また余分な財を蓄めてはならないこと、小鳥のように自由でいて、この世の罠に はまらないこと、与えてくださる賜にたいして 神に感謝し、その み業の美しさを賛美して生活すること。「旅人として、遍歴者として」という使徒の言葉は いつもいつもフランシスコの唇に繰り返された。

フランシスコは 自分から担った つらい困窮の生活に堪えられるように、兄弟達をしっかりと励ました。やがて彼らは、ある時は病院で働き、ある時は刈り入れの百姓達を手伝った。それでも決して その日のパンと、泉からの一すくいの水以外には何も報酬を受けなかったのである。

仕事はたびたび見つからなかったし、アッシジでは、どの戸口も修道士達の鼻の先で閉められてしまった。これでは希望を生き生きとさせておくのは大変なことである。リヴォ・トルトの小屋の「アッシジの痛悔者たち」が失望したことは十分に察せられる。

うっとおしい雨の降る日、粗末な小屋の屋根から雨もりがして、地面が黒くにじみ、跣足で歩くのに冷たかった。彼らは粗い衣を着て坐り、一日中何も口にせず、外に物乞いに出かけていった修道士達が、何か持ち帰ってくれるものやら それも分からず、身を温める火もなく、読むべき書物もなかった・・・。

このような雨の日や、陰うつな寒い時、短いけれども冷酷なきびしいウンブリアの冬、兄弟達のうちのだれか、こいつはみんな気狂い沙汰だ、町へ引き返そう、そうだ町へ、ああ!あそこではかつて自分は家も、畑も、金も、財産も持っていたんだ、そいつをみんな貧民どもにくれてしまったんだ、というようなことが起こったかもしれない。が、どうであろう! 確かに一人ならず兄弟達の中には、痛悔の念が消えうせたと感じた瞬間があったに違いない。それなのに最初の弟子達のうちで、脱退者はただ一人あっただけだといわれている。他の者たちはみんなしっかりと踏み留どまり、耐え忍んだのである。

そうするうちに次第に、一般の人々の彼らを見る目も変わってきた。兄弟達の忍耐が、感嘆の念を呼び起こし、その信仰深い生活態度が信用をかち得たのであった。夜分リヴォ・トルトの小屋のそばを通り過ぎる人達は、その中で祈っている兄弟達の声を聞いた。貧乏ではあったが、できることは 乞われれば何でもした。金には無関心であった。特に彼らは 互いに愛し合っていた。こういうことがあった。二人の兄弟が巡歴している時、山野をさ迷う精神錯乱者に襲われ、石を投げつけられたことがあった。するとこの二人はいずれも、自分の身体でもう一人をかばおうとして、石の飛んでくる方へ身体をむけながら、絶えずその位置を変えているのが見られたという。悪い噂や、余計な世間話などは彼らのうちでは聞かれなかったし、途上で女性の側を通り過ぎる時には、地面に目を向け、心を高く天に挙げたのであった。この世の下らぬことや つまらぬことを、この人達は追いかけはしなかった。

そうするうちに、フランシスコは 自分と兄弟達が 従い生活してゆく則を、教会の最高権威によって裁可してもらうために、ローマへ行こうと決心した。

1210年のある夏の日のこと、リヴォ・トルトから痛悔者の小さな一隊が、ローマへと向かった。旅行中の先達はベルナルド・ダ・クインタヴァッレが努めた。一同はこの人に従っていったということ、歩く道々祈ったり、歌ったり、話し合ったりなどして、旅路を少しも長いと感じずに過ごしたこと、が記されている。主は、(伝記によれば)いたるところで夜の宿の用意をされ、少しも この人達に必要なものを欠かされなかった ということである。
ローマに着いた彼らが最初に会ったのは、丁度ローマ滞在中であったアッシジのグィド司教であった。そして兄弟達にヨハネ枢機卿を紹介してくれたので、教皇謁見への道が開けた。時の教皇はインノセント三世であった。

フランシスコと会ったヨハネ枢機卿は、目の前にいる男が、徹頭徹尾利己心のない男であることを、速やかに、明白に了解し、フランシスコが、自らの意思と計画とを単純に、「神は私達を聖なる信仰のために、そしてローマ教会の聖職者や司祭方のためにお力添えするようにとお召しになられたのです」と言った時、そのまじり気のない純粋さに感動すら覚えた。
数日の後、ヨハネ枢機卿の骨折りによって、アッシジの兄弟達は教皇訪問を許された。教皇はフランシスコにその計画を述べさせ、こう答えられた。

「愛する子よ、あなたとあなたの兄弟達が送っておられる生活は、私にはいたってきびしいように思われる。あなた方自身は最初の感激に支えられ、こうした生活を送り得ることをもちろん私は疑わない。けれどもあなた方は、これから先あなた方のところへやってくる、そして恐らく同じ熱心さを持ってはいまいと思われる人々のことをまた考えなくてはなりません。

これに対して、フランシスコはただこう申し上げた。

「教皇聖下、私は主イエズス・キリストに依り頼み 申し上げております。キリストは私達に 永遠の生命と 天国の至福とを 約束されました。そして私達がこの世で生活を維持するに要する こうした些細なものをもまた、私達に 主は拒絶なさらないでしょう。」

フランシスコの建てようとしたのは、純粋な観想的修道会であったのではなく、そうしたものと完全な清貧とを なおもっと一致させて考えたものであった。
聖フランシスコの理想とは、実に使徒的生活であり、ペトロとパウロが実現なし得たこと、即ち、自分の手で働き、人様の恵んでくださるもので生活しながら、同時に世の人々に福音を宣べ伝えるということ、これが今もなされなければならない、というのであった。
枢機卿団は、この聖フランシスコの願いに ごうごうたる反対を巻き起こした。だが、ヨハネ枢機卿の次の言葉によって、すべての反対者の気勢は挫けてしまった。彼はこういった。

「彼らが、私達に許して欲しいと願ったのは、ただ聖なる福音を遵奉してゆくという、そのことだけなのであります。もし私共が今、このことは人力の及ばぬところである、と布告するならば、従って聖なる福音を遵奉することは不可能であると宣告するにも等しいのであり、聖なる福音の源であられるキリストを嘲弄することになります。」

この言葉が功を奏して、フランシスコは再び教皇との謁見を許された。

この二回目の会見に先立つ宵のこと、教皇は不思議な夢をごらんになられたといわれている。その時教皇は、ラテラノ宮の鏡の間と呼ばれる所に立ち、洗礼者ヨハネと福音史家ヨハネに奉献せられた「あらゆる聖堂の首にして母」なるラテラノ大聖堂を眺めておられた。すると さしもの大きな建物がぐらぐらっと揺れて塔が傾き、壁は割れ、コンスタンティヌスの古い大聖堂も もはや単なる一塊の土塊となり潰えるかに見えた。驚きのあまり身体はしびれ、手足はなえて、教皇は宮殿の中に立ちすくまれ、どうなることかと、ただ はらはらとされるばかり、叫べども叫べず、祈ろうにも手が合わせられず、たとえ手を合わせたにしても、そんなことも もう役に立たぬかに見えた・・・。

その時一人の男がラテラノ広場を通ってゆくのが見えた。小さな、見栄えのしない男が、百姓の着物を着けて、はだしで、帯の代わりに腰に縄を締めて。この小さい、貧しい男は、脇目も振らず崩れかかっている御聖堂めざして突き進む。今この男はその壁際に立った。壁はその男の上に倒れかかっていて、今にも どっと墜ちかかり押し潰されそうだった。と、不思議なことが起こった。この小さな男は、突然大きくなり、その側の壁と殆ど同じくらいの背丈となったのである。見よ、今この男はその肩を壁の蛇腹に当て、一押し力強く押すと、全く倒れるばかりであった大聖堂が立ち直ってしまった。もと通り完全にまっすぐと立ち直ったのである・・・。
思わず教皇はほっとなさり、今までの緊張から解かれ、救われたという深いため息をつかれた。この小さな男は顔をまっすぐラテラノ宮に向けて、くるっと後ろを向いた。それでインノセント教皇は、この「あらゆる聖堂のかしらにして母なる聖堂」をふしぎにも建て直した男が、アッシジの貧しい兄弟フランシスコに他ならないことを見られたのであった・・・。
翌日教皇のおん前に立ったフランシスコを見て、教皇は神の霊と力が宿っているとお悟りになり、並居る枢機卿に向かい、こう叫ばれた。

「まことにこの者こそ、神の教会が立ち直されるはずの、聖なる、信心深い男である!」
そして立ち上がられ、フランシスコを抱かれ、フランシスコと兄弟達を祝福されて言われた。
「神と共に行きなさい。全能にましますお方が、あなた方にもっと大きな任務を委せるでしょう」と。
そして説教をしてもよいとの許しがフランシスコに、兄弟達にはフランシスコを通してのみ与えられた。謁見の最後に、ついに聖職者の剃髪を受けた。言い伝えによると、この日は4月16日であったといわれている。
聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂を訪れ、使徒達の墓参りをした上で、フランシスコと兄弟達は、ローマを後にした。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(8)

 ローマから再びリヴォ・トルトの小屋に帰ったフランシスコは、アッシジの大聖堂(サン・ルフィーノ)での説教を許された。 大胆に、素直に、キリスト教の理想を宣べ伝えたフランシスコには、「預言者は故郷では受け入れられない」という言葉は当てはまらなかった。 それどころか、「聖職者も一般信徒も、多くの人々が神の霊にとらわれ、世俗の思いわずらいを投げ捨てて、フランシスコの歩いた足跡を追ったのである」。 そしてこの新しい弟子達の大部分は、アッシジの町やその近隣の人々なのであった。

それだけではない。 サン・ルフィーノでフランシスコがした説教は、もっともっと広い範囲に影響を及ぼした。チェラノのトマスはその成果を、地平線の彼方に輝く星が昇るのにも似て、また暗い夜の明けゆく朝焼けにもたとえた。 また春の季節に、土の中から萌え出る新芽のようだともたとえた。

その地方で見られた ことごとくのものが、変えられてしまったのである。実際アッシジの社会状態がすっかり変えられたのである。 フランシスコの説教によって、それまで奴隷であった市民が、わずかな身代金で解放され、その影響はイタリアの他の都市アレッツォ、ペルージャ、シエナの町にも広がっていった。

この頃のことであった。 ある日、フランシスコは会則を朗読してもらっていた。 読み手は第7章まで読み進んだ。 そこにはこう書かれていた。

「・・・・・・そしてより小さな者であれ」と。 この会の正式な呼び名について、フランシスコは長い間頭を悩ませていた。 今、会則のこの箇所が読まれた時、この「より小さな者たち」という言葉が耳に入ってきた。
「小さい者たち」、「小さい兄弟たち、この名こそ自分たちにふさわしい!」 そこで「小さな兄弟たちの修道会」、すなわち聖フランシスコ会の正しい呼び名が出来たのであった。 (この「小さい」とは、貧しいとか、へりくだったとか、つまらないとかいう意味)
この小さな兄弟たちの共同生活は、フランシスコを中心として、お互いに何一つ包み隠すことなく、愛に支えられたものであった。

フランシスコの及ぼした力は、とりわけその人格に根ざしている。 言葉ばかりではなく、その行いによって兄弟たちを教えた。 

食事を楽しむことを戒め、あらゆる誘いに対して、勇気を持って戦うことを修道士達に悟らせた。 肉体の誘いを潰走させるために、フランシスコは冬のさ中に凍えるような冷たい川に飛びこんで、自ら範を垂れたのであった。

そのようなリヴォ・トルトでの幸福な生活は、まったく突然思いもかけない奇妙な出来事でその幕を閉じた。

ある日、兄弟たちがめいめいの場所で祈りを捧げていた時、突然一人の農夫がロバを連れてやってきて、「さあ入れ、ここでわしらは気楽にできる!」と大声で叫びながら、そのロバを入れた。 今まで小聖堂であった所を、ロバの厩にしようとしているのだった。フランシスコはしばらくこの男の傍若無人な振る舞いをじっと見ていたが、「兄弟たちよ、神が私たちをお召しになったのは、ロバの宿を保つためではなく、お祈りをし、救いの道を人々に示すためです!」と叫んだ。
そこで皆立ち上がり、永久にリヴォ・トルトを去り、その時からポルチウンクラが、その後のフランシスコ運動の中心となったのである。
(2)
ポルチウンクラの小さい、古い御聖堂は、伝説によると、4世紀に、リベリラス教皇の時代に、聖チェリルスから贈られた聖マリアの墓の聖遺物を携えて聖地から帰郷した4人の隠棲修道士によって建てられたと言われている。 その祭壇の上には聖母マリアの被昇天が描かれた古い絵があり、それには宙空に浮かんで聖マリアを取りまいている天使たちがたくさん描かれているので、人々は「諸天使の聖マリア」(サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ)とこの御聖堂を呼んでいた。 「ポルチウンクラ」(小さな耕地)という呼び名は、この御聖堂の持ち主であった、スバジオ山の聖ベネディクト会士たちが、その場所をこう呼んでいたので、世の人々もそう呼ぶようになったのであった。 ところがこの建物が大変に荒廃してしまったので、1075年ベネディクト会の修道士たちはそこを立ち去って、上の山の母修道院に引き上げてしまった。 

この荒廃した御聖堂を修復したフランシスコは、兄弟たちとしばしばこの御聖堂を取り囲んでいる森の中に滞在した。 そしてスバジオ山の修道院から、このポルチウンクラの用益権を1211年に永久に譲られた時、非常に喜んだのであった。しかしフランシスコは、その聖堂を自分たちの所有物として受け取ることは好まず、毎年一籠の魚を上の山の修道士たちに贈り届けるということにして、それを厳重に守ったのである。

この御聖堂のそばにフランシスコと兄弟たちは、枝を組み合わせて泥で固め、木の葉で屋根を葺いた小屋を建てた。 わらを詰めた袋を寝床とし、地べたが机や椅子であり、くさむらの藪が修道院の塀であった。
最初のフランシスコ会の「居る所」は、聖フランシスコの明確な意志に従い、他の全ての同会の修院の前例となるように建てられた。 のちにその理想が低下しはじめた時、この「居る所」という呼び名は、堂々たる修道院と換えられ、富についてのきびしさをゆるめようとする人たちによって、この修道会が内部的に分裂してゆく一つの兆しを示している。

初めからいた一群の弟子たちのほかに、ここポルチウンクラで今や新しい兄弟たちが仲間に加わった。 この人達をフランシスコ会の第二の時代の人々と呼ぶのはふさわしいであろう。 この兄弟たちは、前時代の人々よりも光輝いているといってもよいくらいである。

最初の弟子たちの多くは、一緒に生活するということよりは、孤独に一層価値を置いた。 シルヴェストロはカルチェリの洞窟に留まり、祈りと黙想に身を委ねることを好んだ。 ベルナルドは、森の中で祈っていた時、あまりにも神に想いを潜めていて、兄弟フランシスコが呼んでも気がつかないほどであった。 またある時は、一ヶ月もの長い間、非常に高い山の頂を一人でさまよい、高くおいでになるお方をみていた。

エジディオは、山野を歩き回るという生活を送り、ある時は聖地エルサレムに、スペインに、またある時はローマに、聖ニコラオの遺骸が安置されているパリに巡礼した。 彼らは終生神の立派な騎士であり、初期のフランシスカニズムの精神を愛した偉大な証明である。

このように最初の兄弟たちの多くは一人で生活していたが、フランシスコ会の第二の時代の人たちは、フランシスコと殆どいつも一緒にいた。特にアッシジの近くのマリニャーノから来たマッセオは、多くの大切な巡歴にいつもフランシスコのそばにいた。 フランシスコが小柄で見栄えのしない貧相な人だと人々から思われたのにひきかえ、マッセオは見たところ大きく立派で、弁舌の才に恵まれ、人々とよく話した。 二人で物乞いに行くと、フランシスコが得たものは、ほんの少しの食物とパンの小片であっても、マッセオは大きなパンを得た。 それでもマッセオは、フランシスコに命じられる通り、門番をしたり、施しを受けたり、台所の心配をしたりすることをカルチェリで引き受けねばならなかった。 ほかの兄弟たちが妨げられずに祈りと黙想とに身を捧げている間、家事万端の重荷を一人で担わなければならなかった。

このような卑り下った行いをさせることによって、フランシスコはこのかっぷくの良い立派な風体の兄弟マッセオに、自分をつまらない、小さなものと感ずる訓練を与えたのであった。 それでマッセオは、ついに大変に謙遜深くなり、日に日にあらゆる徳が進んだので、今度は自分は非常に罪深く地獄に値するものだと思っていたほどであった。 でもこうして謙遜が身についてからは、いつも喜びに溢れていたほどに内側の光に満たされていた。

 そのほか、第二の時代の兄弟たちには、あの古い弟子のクィンタヴァッレのベルナルドを想い起こさせる兄弟ルフィーノと、フランシスコの精神に充ち満ちていたジネプロ、フランシスコのすることを全てまねしようとして「単純」というあだ名をもらったヨハネなどがいる。

 これらの弟子の修道士たちのうちで、聖フランシスコの真実の腹心の友であり、一番よい友であったのは、おそらくアッシジの兄弟レオーネであり、この修道士は、フランシスコの聴罪司祭と秘書という二重の重要な地位を占めていた。 このレオーネによって、フランシスコのすばらしい言葉が残されている。

 ある冬の日のことであった。 フランシスコと兄弟レオーネがペルージャからポルチウンクラへの道をたどっていた時、厳しい寒さが彼らを大変苦しめた。 先に立って歩いていたフランシスコは、兄弟レオーネに呼びかけてこういった。


 「もし私たち修道士が、全世界に聖性と教化との善いお手本を渡そうとも、その中に完全な喜びはありません」

 「ああ兄弟レオーネよ、たとえ私たち修道士が、盲に視力を回復させ、足なえを癒し、悪魔を追い出し、つんぼを聞こえるようにし、痛風を患うものを歩かせ、聾にものを言わせ、なおそれにもまして四日も経た死者を死の床より呼びさまそうとも、覚えて下さい、その中に完全な喜びはありません」

 「おお兄弟レオーネよ、もし私たち修道士が、あらゆる国々の言葉を語り、あらゆる学問とあらゆる貴い書物を知り、未来の事柄や人心の秘奧をさぐり得たとしても、覚えて下さい、その中に完全な喜びはありません」

 「おお兄弟レオーネよ、たとえ私たち修道士がすべての不信心な者たちをキリストの信仰へと回心させる説教を心得ていようとも、それでも覚えて下さい、そこには完全な喜びはありません」


 そんなふうにして話しながら、半マイル以上も歩いて行った。 兄弟レオーネは非常に驚いていった、「どうか神さまのために、完全な喜びがどこにあるかを聞かせて下さい」


 するとフランシスコはこう答えた。





「私たちが今ポルチウンクラへ、雨にずぶぬれになって、寒さに凍えて、道の泥に汚れて、飢えでへとへとになって辿り着いて修道院の戸を叩きますと、門番が出て来て怒って、『だれだ、お前らは?』 といいます。

 私たちは、『あなたの二人の兄弟です!』と申します。 

するとその人は、『お前らは本当のことを言わない、それどころかお前らはうろつき回って、人をたぶらかし、貧しい人たちから施し物を盗む街の盗賊だ、去れ!』という時。 

その門番がそんなふうに言って、私たちに戸を開けてくれないで、私たちは雪と冷たい水と飢えとのさ中に立たされ、夜が迫って来る時。

そしてその時私たちがそのような罵言や、悪意や、そのような取り扱いに耐えて、怒らずに、その人に向かって不平をこぼさずに耐え忍ぶ時。

そして私たちはその代わりに謙遜に情愛深く、この門番は正しく根底から私たちを知らないで、この人に私たちに向かって言わせたのは神であるということを考える時、

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、これこそ完全な喜びです。


そして私達が続けて叩くと、その人が出て来て怒って、ずうずうしい二人の浮浪人のように扱い、悪しざまに罵って横面を張って私たちを追い出し、『立ち去れ! お前ら恥知らずのやくざものめが。ここには食べるものも寝る所も、お前らのためにはないのだ!』と言う時。

これをがまんして、晴れやかに情愛をもって耐え忍ぶ時、

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、そこにこそ完全な喜びがあるのです。


私たちが、飢えと寒さと闇に迫られてもう一度叩き、私たちを屋根の下へだけでも神さまのために入れてくれるように熱い涙を流して頼みますと、その人はますます怒っていいます。『この本当に恥知らずのごろつきめが。さあ、お前らにふさわしい扱い方をしてやるぞ』そして節くれだった棒をつかんで跳び出してきて、私たちの頭巾をつかんで地面に叩きつけ、雪の中をごろごろと転がし、その棒で散々になぐりつけます。

私たちはこうしたすべてを耐え、朗らかに耐え忍んで、いと高くほめ賛えられたもうキリストのご苦難をよくしのび、キリストの愛のために苦しむことは、どんなにか私たちにふさわしいことでしょう。

おお兄弟レオーネよ、覚えて下さい、その中に完全な喜びがあるのです。


 ですから、兄弟レオーネよ!こうしたすべてのことの結論を聞きなさい。

キリストがその友にお許しになる、聖霊のあらゆる恩寵とあらゆる賜にもまして、自己にうち克ち、キリストのために喜んであらゆる不正にも、あらゆる侮辱にも、いかなる不快にも耐え忍ぶということ、これなのです。

なぜなら、神さまのあらゆるその他の賜は私たちは誇ることはできないのですから。だから使徒は、『あなたはもらわないものを、何か持っているか。もしもらったものなら、なぜもらったのではないように、それを自慢するのか』と言っています。試みも、苦難も、十字架も私たちは誇ることができないのです。ですから使徒はまた、『わが主イエズス・キリストの十字架においてほかには、決して誇るものはない』と言っています」



 エルンスト・ルナンは、
フランシスコによって起こされた運動よりも力強い聖福音を実現するという企ては、使徒時代以来決してなされたことはなかったと、言っている。
(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 

 

  

アッシジの貧者(9)

 福音を実行しようとしたアッシジの聖フランシスコによって創立されたフランシスコ会の生活を見ようとする時、何よりもまず優れた女性の弟子、聖クララに目を向けなければならない。 

彼女は自分を兄弟フランシスコの植木と呼ぶのを好んでいた。実際クララはフランシスコ会の花であり、彼女が生活した所を訪れる者は、700年経った今でも、この花特有な、人の心を捉えずには置かない芳香を感ずるであろう。

 クララは1194年7月11日に生まれたといわれている。 父はファヴォリーノ・ディ・シフィ、母はオルトラーナといい、二人とも貴族の家系であり、特にシフィ家はアッシジで最も高貴な家柄に属していた。

 母オルトラーナは、善良で信仰深く、たびたび聖地やローマ等に巡礼の旅に出ていた。5人の子を設けたが、次女クララの生まれる少し前、祈っている時、今度生まれる子は洗礼の時に、クララ 即ち「輝く」という意味の名を受けたのである。

 クララは堅実に賢命に信仰厚く生い立ってゆくための、大変によい環境と裕福と秩序に取り巻かれて大きくなった。

 美しく成長したクララが15才になった時、最初の求婚者が現れた。両親は大変気に入ったが、クララは結婚に少しも耳を傾けようとしない。母が説得すると、自分はもう神さまに身を捧げているので、男性のことなど知ろうとも思わないと打ち明けた。 

 そのような時、かつて回心によってアッシジの町の評判になったフランシスコが、ローマより説教の許しを得て帰り、サン・ルフィーノ聖堂の説教壇に登ったのである。 

 その説教を聞き、フランシスコを見た瞬間から、クララはフランシスコが送ったような生活が、自分の生活であり、これこそ自分にたいする神のご意志であることを知ったのであった。

 親戚である「小さな兄弟」ルフィーノとシルヴェストロによって道は開かれ、クララはフランシスコを訪れ、心中を打ち明けた。

 フランシスコもまた、すでにクララについて聞いていたので、はっきりと、空しく過ぎ去るこの世に執着せず、自分の体をただ神の住居として守り、キリスト以外にはどのような花婿をも持たないようにと勧めた。

 フランシスコはその時以来、クララの霊的指導者となった。彼の指導の下にクララは決然たる一歩を踏み出し、身を捧げ、主イエズスやフランシスコのように足ることを知り、働き、祈り、平和と喜びのうちに生活しようと心を燃えたたせた。

 ついに、この新しい生活への熱望が強まり、もはやそれを制するどころか、今までの生活様式から抜け出さずにはいられなくなった。そこでフランシスコは、クララが「この世の楽しみを主のおん苦しみの悲しみに変えよう」という時機を、「枝の主日」の次の夜に定めたのである。

 クララはこの日曜の日(1212年3月18日)を、厳かにこの世に訣別を告げる日とした。一番立派な式服で身を飾り、母や妹たちと共に教会へ行った。この日誰よりもクララ・シフィはその名の如く美しく輝いていた。

 その次の夜、クララは家から抜け出し、ポルチウンクラへと道を辿った。待っていたフランシスコ会士たちは炬火をともして出迎えた。そしてまもなく、クララは小さな御聖堂の聖マリアのご像の前にひざまずき、「貧しいぼろにくるまれたもう嬰児イエズスをお愛しするあまり」ずっと以前から書いて持っていた離縁状をこの世に渡したのであった。 

 そのきらびやかな衣服を兄弟たちの手に渡し、その代わりに粗い毛織の兄弟たちのような衣服を受け取り、宝石をちりばめた帯を、結び目のある粗い縄と取り替え、美しい刺しゅうで飾られた靴の代わりに、素足に木のサンダルをはいた。そしてフランシスコによって、その黄金の髪が落とされ、厚い黒の被りものをかぶったのである。 

 三つの修道誓願を立て、さらに修道士たちのように、自分の長上としてフランシスコに従うことを誓約した。

 こうして高貴な生まれの令嬢クララ・シフィは、修道女クララとなったのである。式が終わるとすぐに、フランシスコは、近くのベネディクト会の聖パウロ女子修道院にクララを連れていった。そこがフランシスコが用意したクララのための寝所であった。 



 クララがどこにいるのか、勿論そう長い間隠されているわけにはいかない。まもなく父と親戚の者たちが、避難所をかぎ出して、クララを連れ戻そうとやってきた。けれども18才のこの若い娘は動かなかった。懇願もお追従も、種々の約束ごともみな無駄であった。それでも何度も何度も、父や叔父たちはクララを取り戻そうと試みた。そこでフランシスコは、クララをパンツォの女子修道院サンタンジェロに移した。クララの脱出後16日目に、妹のアグネスもまた姉の生活に加わろうとサンタンジェロにおもむいた。婚約も整い、結婚式の日取りまで決められていた。父ファヴォリーノは腹を立て、弟に12人の武装した男をつれて取り戻してくるように頼んだ。

 武力の前にサンタンジェロの修道女たちは驚き、アグネスを引き渡す。それでも精いっぱい抵抗するアグネスを、男たちは手荒く取り扱わざるを得なかった。たたかれたり、足で踏まれたり。「クララ、クララ! 救けにきてください!」とアグネスは引きずり出されながら、空しく声をはりあげた。

 クララは自分の部屋にいて、神にどうかこの危急をお救いくださるようにと祈っていた。すると突然、アグネスの身体が重くなり、屈強な男たちがただの1センチもこの娘の体を動かすことができなくなった。叔父モナルドはこの思わぬ妨げに激怒して、一撃の下にこのできそこないの小娘の頭をうち割ってやろうと鉄拳を振り上げた。すると腕はしびれ、力が抜け、石のように動けなくなった。その間にクララがやってきて、死んだようになっているアグネスを連れていった。
 その後、父はもう二人の娘に干渉する企ては止めてしまった。そして後に三番目の妹ベアトリーチェもまたクララたちに加わり、父の死後母オルトラーナ自身も加わったのである。

 サンタンジェロの女子修道院は、クララやアグネスにとっては、仮の宿であり、フランシスコは彼女たちのために修道院を探さなければならなかった。その時、かつてフランシスコにポルチウンクラを譲ってくれた修道士たちが、喜んでサン・ダミアノとその御聖堂の付属として小さい修道院を贈ろうと申し出てくれたので、フランシスコの歓びは大きかった。

 2,3人の修道女たちと共に、クララはこの小さな建物に移り住み、その後41年間 教会中がこの聖女の霊の芳香で満たされたのである。というのは、ここに祈りと労働、清貧と喜悦の生活、即ちフランシスカニズムの花が咲き出たので、クララの示した模範は、広い範囲に影響を及ぼしたのである。

 この時代の女性たちにとって、修道院の白壁が象徴している、あの理性を超えた高い生活、それに対する憧れがまどろんでいたようである。そのまどろんでいた憧れを、クララは意識する自覚へと呼び覚まさせたので、この世の枷にまだしばられていない未婚の女性たちは、クララと共に生活しようとサン・ダミアノを目指したし、既婚の女性たちは、家でできる限りの修道的生活にいそしもうとした。またそのうちの何人かは、自ら粗い布をまとい、灰を被り、今までの生活を改め痛悔しようとこの女子修道院の門を潜ったのである。

 ポルチウンクラと同じく、サン・ダミアノへ入るための条件は、自分の所有に関するいっさいを全て貧しい人たちに分け与えるということであった。でも修道院自体は何一つ受け取らない。それはいつも「いと高き清貧の堅固な塔」でなければならなかった。

 だから修道女たちの生活の道は、フランシスコの兄弟たちと同じく、自ら働くということと、施しを乞い求めるということの二つであった。2、3の修道女たちが家に留まり働いている間に、他のものたちは戸口に立って施しを乞うたのである。

 当時フランシスコが、この修道女たちのために書いた「生活様式」の掟の内容は、福音的清貧に対する義務を構成していた。この会則は教皇によって認可され、1215年クララはフランシスコの厳命により、女子修道院長の職を引き受けさせられた。

 今まではフランシスコが、この二つの修道会の長上であり、指導者であったが、ローマにたいしては、クララが長上として立つことになったのである。

 イノセント三世教皇は、この注目すべき「清貧の特権」の最初の一行を手ずから書かれるということで、クララと修道女たちとに、清貧であり清貧に留まるという権利を保証せられたのであった。

 クララはキリスト教的意志の基礎としての清貧について、「あなたたちは神とマンモンの富との二つに仕えることはできない」という言葉に、聖フランシスコと見解を共にしていたように、また仕事についての意見も一致していた。

 女子修道院長としての体面があるにもかかわらず、クララは自分で病人を看とり、どんな汚い仕事でも決して尻ごみなどしなかった。それと共に、自分の体をいっこうに、いたわろうなどと決してしなかった。寝床はぶどうのつるを積み重ねたものだったし、枕は木片であった。フランシスコに命令されてやっと後にわらぶとんを用いた程であった。修道院の外に出ていた修道女が帰ってきたときには、自らその足を洗ってやり、睡眠中の修道女たちに夜着をかけてやったりした。

 しばしばフランシスコは、病人や弱っている人たちをサン・ダミアノへと送った。そこでクララは彼らの看病をし、自分が病気の時ですら仕事を止めなかった。体が少しでもききさえすれば、寝床の上に起き、祭壇の飾布や祭服の刺しゅうをした。こうしてコルポラーレ(聖体布)と呼ばれている祭式用のもろもろを ―聖フランシスコの精神と心として― 50組以上もこしらえ、絹製の袋に納め、あちこちの山や平地にある教会に贈り届けた。

 クララが率先して働き、修道女達に善い手本を示したと同様に、宗教的な面においてもまたそうであった。日々の聖務日課の一番最後すなわち終課を誦え終えたのちも、なお長い間ただ一人で、かつてフランシスコがお声をきいたというあの十字架のご像の前にひざまずいた。このような時のクララは、救い主のご受難を思いやり、観想に身を委ね、フランシスコが作って教えてくれたあのキリストの栄与のための祈り「十字架の聖務日課」を誦えるのであった。長い間祈り、御聖堂から帰ってきた時のクララの顔は、後光でもさしているかのように輝き、その口からほとばしりでる言葉は、歓喜に満ちあふれていた。 

 クララや修道女たちにとって、どんなにフランシスコが敬慕の的となっていたかは、フランシスコ自身に気づかれずにはいなかったであろう。そしてまたこの修道女たちの宗教的情操の一部が、この自分という一人物に結びつけられているのだということも。それだから、こうしたことを止めさせ、そしてひたすら心を、ただ神にだけ向かわせようと、それとなく修道女たちの前から身を退いた。サン・ダミアノへの訪問は、だんだんとだえがちになり、絶えてしまった。こうした振る舞いは兄弟たちにすら奇妙に思われたが、フランシスコはその理由を、修道女たちと神との間に自分は立ちたくないのだと説明した。



 クララは慰めと励ましとを求めた か弱い女性として、フランシスコの前に現れたとするなら、修道女たちに対しては、それらを保護し守ったという 強い人間であった。

 その不撓不屈の き然たる勇気は、色々なエピソードで伝えられているが、最もき然たる態度を示したのは、おそらく教皇との 清貧の誓願に忠実に留どまるための戦いにおいてであろう。

 クララのよい友人であったウブリーノ枢機卿は1227年イノセント四世教皇となったが、その最善のもくろみとして、クララの修院に多少とも財産を持つように、それによって他の修道会の修道女たちのように、安穏に平和に生活ができるように勧められたが、クララは断固として拒絶した。それでも教皇は、もしも立てた誓願のためであるなら、自分にはそれを解くことができると言ったが、クララは「父よ、私を罪より解き放して下さい。でも、私たちの主イエズス・キリストに従いますことはどうぞ解かないで下さい」と答えた。イノセント四世の、クララとその修道女たちに永久に清貧であり、それに留どまる権利を保証する大教書が、クララの手元に届いたのは、亡くなる二日前であった。

 クララは厳しい生活を送ったにもかかわらず、フランシスコとは異なり長生きした。享年61才、修道生活41年であった。

この長年の歳月に、一つの大きな悲しみに出会った。それは1226年のフランシスコの死である。

 フランシスコがポルチウンクラの貧しい小さな修房で死の床についていた時、クララからもう一度お目にかかりたいという使いがきた。しかしフランシスコは「いっさいの悲しみをお捨てなさい。今はもう私に会うことはできなくなりました。けれども、あなたにもあなたの所の修道女たちにも、あなたの亡くなられる前に私はお会いするでしょう。それによって大いなる慰めを得られることでしょう。」と兄弟を通じて伝えさせた。

 フランシスコは亡くなった。遺体はアッシジへ運ばれたが、途中サン・ダミアノの御聖堂へかつぎ入れられ、修道女たちの格子窓近くに置かれた。兄弟たちはその聖なる亡骸を柩から扶け起こし、窓の前に腕を伸ばしてそれを支えた。クララとその修道女たちは、亡くなった自分たちの精神上の父に、最後に会うことができたのであった。この小さな御聖堂は、悲しみに、お別れに、嘆き悲しむ声でいっぱいであった。

 年月が移り過ぎてもなお、クララは生きていた。亡きフランシスコの親しかった兄弟たちが、しばしばサン・ダミアノを訪れてくれたので、そんな時クララは師の在りし日の思い出に浸るのであった。



 とうとう死の呼ぶ声がクララにも聞かれる時がきた。 28年間という長い年月を病床で過ごした後、1252年の秋頃、食事もとれなくなったクララのそばには姉妹たちが集まっていた。 その時クララの声が響いた。

「おそれないでお進みなさい。あなたの行く手には立派な導き手がおられます。あなたをおつくりなったお方は、あなたを聖とし、常にあなたを保護し、母親が子を愛するように優しく愛してこられたのですから。主よ、私はあなたを賛めたたえます!あなたはこの私をおつくりになられたからです」

 クララは黄金のように輝くマリアさまの腕に抱かれ、その光の衣で包まれ、永遠に栄光の座に昇っていったのである。 



 サン・ダミアノの女子修道院は、クララやその姉妹たちがこの世を去った時の殆どそのままに、今日残っている。クララの小さな狭い、天井の低い寝室も見られる。クララの庭園と呼ばれる二つの壁にはさまれた細長い小縁の露台からは、ウンブリアの美しい土地を見渡すことができる。リヴォ・トルトが、ポルチウンクラが、あの白い道が、オリーブの生い立つ畑が見られる。

 古い言い伝えによると、クララはこの庭園にただ三種の花だけを作ったという。純潔の象徴としての百合の花を、謙遜の象徴としてすみれを、そしてばらの花は、神と人々への愛を意味しているという。


(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 

アッシジの貧者(12)

 フランシスコはこの時から亡くなるまで、生きていく二つの使命を持った。それは自らを極めて微細な点にいたるまで、聖福音に従って生活し、そのことによって自らが手本となり、兄弟たちに正しい道を示すこと。今一つは、新たに筆を執って教皇の裁可されたあの会則になお欠けていることがらを補う、ということである。 

 フランシスコが一人で、後には兄弟たちと、福音宣布者や歌い手としてさまよい歩いた時は過ぎ去り、なお残っている年月は、筆と私生活とによって影響を及ぼしてゆくことなのである。

 こうした晩年の大部分を、フランシスコはかつての布教の旅路の一つの舞台であったリエティの谷で過ごした。

 この時からフランシスコは、兄弟たちに語るときには、もはやその人達の上に権威を持つ人のようにはしなかった。フランシスコの意に添わない方向に兄弟たちを導く管区長たちや高位聖職者たちには、いら立つことがあったかもしれない。けれども神を信頼し、小さな兄弟たちがその理想から脱落すれば、人々は彼らを軽蔑し、いやそれどころか彼らを迫害し、正しい道に追い返すであろう。自分自身は兄弟たちのために祈り、自ら手本を示して、彼らの怠慢の言いのがれの隙を少しも与えないように、理想を擁護してゆく以外、もうなすべきことはなかった。
 
 聖フランシスコの健康も良くなかった。若い時には次から次と熱病の発作に襲われているし、後には数多くの、そして長期にわたる大斎が、その健康を害ねていた。そのうえ東方の国に滞在していた時、エジプトの風土病で目を患い、時おりは全く見えなくさえなった。その当時書かれた手紙の一つに、自分を指して「よぼよぼ人間」と称しているが、筆に頼ることで納得するよりほかはないようになっていた。

 書いたものの中に、最後に至るまで人々を天国に導こうとするフランシスコの情熱がはっきりと読みとれる。

 フランシスコはこの最後の時代に、五通の手紙ないし回章を、一通は全キリスト者に、一通は自分ができなかった聖霊降臨祭の総会に、一通は全ての聖職者たちに、一通は全ての副管区長に、そしてもう一通を全ての上長たちに送っている。そして「遺言書」とクララ会の修道会にあてた遺言書と、最後にその修道歌「太陽の賛歌」が結びつけられている。
 
 この聖フランシスコの手紙の中に見られるのは、斬新な驚かされるような思想ではなく、まさに古い昔ながらの教えなのである。

 この五つの信書は、上の空で読んでしまう人々には、思想が貧弱だと思われ、絶えず繰り返される二、三の主題に退屈するかもしれない。しかしながら、これらの言葉の背後にある生き生きとした人を、まったく純真で、愛に満ちているアッシジの「愚かもの」を推測するならば、命のない言葉は肉となり、精神の貧しさは豊かさとなって現れるであろう。なぜならそれこそフランシスコを完全に満たし、完全に所有していたものであったからである。

 フランシスコの修道生活を貫いているものは、何よりもまず行いで説教しようとしたことである。 

「みながまず手本となることによって説き示すがよい」とその会則の中で弟子たちに命じている。 

これをまっ先に実行したのはフランシスコ自身であった。こうした聖人の深い誠実さについて、晩年のリエティの谷での生活が、幾たびとなく新たな証拠を提供してくれる。

 けれども何にもましてフランシスコは、清貧に心を燃え立たせた施しを与えるのは幸いである。けれども受けることも幸いである、と宣言した。施し物として乞い受けたパンは、「天使のパン」であるように!だから施しを受けて家路を辿る兄弟は、歌をうたいながら帰ってこなければならない。絶えずフランシスコは、清貧を賛える詩編や聖福音の章句を口ずさんでいた。
 
 こうした清貧へのあらゆる努力にもかかわらず、それでも決して自分と兄弟たちは、十分に貧しいとは思っていなかった。「私たちは恥じなければなりません」と薄汚いぼろをまとった乞食のそばを通りながら言った。乞食はフランシスコにとって、それこそ聖なるものであった。だから本当に貧しい人には、自分が持っている全ての物を喜んで与えるのであった。外套もズボンも。

 このようだから兄弟たちは、師に着物を着させておくのにしばしば手を焼いた。ある時はフランシスコの外套を、一人のお婆さんから買い戻さなければならなかった。また次々と入会を申しこんでくる兄弟たちを食べさせるために、祭壇の装飾を売ったこともある。反対する兄弟に対して言った。「祭壇を飾って聖福音を破るよりも、祭壇を裸にして聖福音を守った方がはるかに良いのです」と。
 
 こうしてフランシスコは、自分の小径をあらゆる方法で純粋に保ち、見かけばかりではなく、本当に聖福音に従うことに努めたのであった。
 またフランシスコは、その霊的生活をたどって、弟子たちに教えた。「誰一人として多くの誘惑や災いに試みられないものは、自分を神の真実の僕であると思ってはなりません。克服された誘惑というものは、いわば主のくださった婚約の指環です」と。
 リエティの谷の世を離れた平和な生活の中で、忠実な弟子たちに囲まれ、共に語り合ってくらしていたフランシスコは、そこに小さな兄弟たちの理想的な姿を描き出していた。

すべての試みや誘惑に対して、フランシスコは度々、兄弟たちに三つの手段をとるように忠告している。第一は祈り、第二は他人の意志に従い、喜んでその通り行うという従順、第三は一切の邪悪な暗い考えを吹き飛ばしてしまう、主のうちにおける福音的喜びであった。 

これら三つの分野において、フランシスコは、兄弟たちに最上の手本を示した。喜んで一番年下の修練者にでも従った。いつでも自分の置かれている環境に満足していた。完全な従順について教えて下さいと兄弟たちが願った時、「死体をとって好きなようにしてみなさい。それは少しも逆らいませんし、姿勢を変えたり、立ち去って行ってしまうなどとはしません。王座の上に置くならば、上の方を見ないで下の方を向いていますし、緋の衣を着せれば、さらにいっそう青白くなるばかりです。ほんとうの従順とは、実際こうしたことで、どこへやられるのだとも聞きもしなければ、どうしてここへ来たか気にもかけませんし、移しやられることを求めもしません。ほまれを得れば、ただいっそう謙遜深くなるばかりで、ほめられればほめられる程ますます自分は役立たないものと思うだけなのです」と答えている。

 フランシスコにとって、平和に対する第一の大きな手だては、我意をいっさいあますところなく断念するという意味の従順であった。

 「あなたの頬を打つ人にはほかの頬も向け、マントをとる人には上着もこばんではならない。・・・・・・自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない。・・・・・・自分の命を救おうと思う人は、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである」

平和のための今一つの手段は祈りであった。 

不断の辛抱強い祈り、絶え間ない祈りである。

チェラノのトマスが言っているように、フランシスコ自身は、「その全存在が祈りと化していた」のであった。

 フランシスコが兄弟たちに垂示した平和への第三の手段は喜びであった。「悪魔に耳を傾けるものは頭を垂れて歩き回るがよい。私達にふさわしいのは、主のうちに喜ぶことなのです!」といった。もし霊魂が悲しみ、孤独で、愁いに沈んでいるなら、たやすくこの世のうわべだけの慰めや楽しみに向かう。だからフランシスコは再三、再四使徒の言葉を繰り返した。「つねに喜べ!」と。

フランシスコ兄弟たちは、悲しむ偽善者ではなく、喜ぶ光の子らでなければならない。どうしてそんなふうにできるのかと尋ねた人に、「清く心を保ち、絶え間なくお祈りしていれば湧き出てきますよ、霊的な喜びは!」と答えている。

1224年の夏、フランシスコの健康状態が思わしくなくなり、リエティの谷からオルランド伯から贈られたラ・ヴェルナ山に移り、そこで忠実な兄弟たちと聖マリアの被昇天を祝い、その上40日間の大斎を守って聖ミカエルの祝いの準備をしようとした。ラ・ヴェルナ山には、今もフランシスコにゆかりのある場所を見ることができる。フランシスコが祈っていた大きな突き出た岩、飛び出た石の棚が、寝床としていた暗い湿っぽい固い岩欠が。

 しかしどこへ居を移そうと、フランシスコの心から離れない不安と憂いがあった。会の将来を思い、すべてはどうなって行くのか?フランシスコから兄弟たちを奪い、どこへ連れて行こうというのか。フランシスコが好まなかった方向へ、彼らは行くのである。そして今やフランシスコには何の力もなくて、見送っていなければならない。フランシスコは、完全な小さな兄弟の、完全な管区長の、完全な修道会会則の理想的な姿を筆にしただけであった。現実は全く異なっているということをよく知っていた。 

 彼らは、フランシスコが望んだように、「一冊の本、一本のペンと、一つの印判」では満足しなかった。彼らは本を集め、教会法を学んだ。

 思いあぐねて、ある日フランシスコは今まで度々用いた方法を使った。兄弟レオーネに聖福音書を三度ひもとかせた。三度ともキリストの受難の所が開かれた。そこでフランシスコは了解した。自分は終わりまで耐え忍ぶ以外にはないということを。そして幸福な時代はもう過ぎ去って帰ってこないのだということを。そしてフランシスコは、すべてを神のみ旨に委ねたのであった。

 聖マリアの被昇天の祝いの後、フランシスコは兄弟たちから離れて、さらに山の奧深くのわびしい所に引き退いた。自分で選んだその場所は、深くて狭い岩山の峡谷の向こう側にあって、人がそこへ行くためには、橋の代わりにかけられた一本の木の上を渡らねばならなかった。兄弟レオーネが一日に二度フランシスコのもとへ通った。一度は昼にパンと水を持って、もう一度は夜明けの朝課のときに。そこでフランシスコは、しばしば長い時間、ものが言えない程の恍惚状態に陥り、神のみに心を奪われていた。

 幾日も幾日も過ぎ去った。やがて「聖十字架称賛の祝日」の9月14日が近づいた。十字架と十字架像とは、常にフランシスコの心の底からの宗教的感情の対象であった。

1207年フランシスコを、サン・ダミアノのわびしい御聖堂で、貧しさのうちにキリストに従って行くようにと、回心させたのは、十字架像の声であったし、若き日に、ポルチウンクラで泣きながらさまよったのは、目の前に十字架につけられた主のおん苦しみがあったからである。

 十字架を崇め奉るということが、以前フランシスコが兄弟たちに次のように祈るように定めた目的であった。「私たちは御身を崇め奉ります。おお主よ、御身をほめ称えます。それは御身が御身の十字架でこの世をお救いになったからです!」

 9月14日の朝、フランシスコはその修房の前で祈りに身を委ねていた。夜はまだ明けていない。しかしもう日の出は間近であった。東に顔を向けて祈っていた、手を挙げ、腕を広げて。

 「おお主イエズス・キリスト、私が死ぬ前に、私に二つの恩寵の賜をお贈り下さいますよう懇願いたします。その一つは、私の霊魂のうちに、私の肉の中に、でき得る限りたくさんに、御身が御身のご受難のうちに耐え忍ばれたそのご苦難が感ぜられますように。そして今一つは、神の御子である御身が、満ち溢れるまでの愛によって燃えさせられ給い、私達罪人のために潔くこれほどまで多く耐え忍ばれた程、それほどまでに御身を促したその愛を、でき得る限り多く私の心のうちに受けられますように」

 こうして祈りに身を委ね、信心の炎に焼かれている間に一つの幻を目にした。天から六つの輝く翼をつけた燭天使(セラフィム)が舞い降りて来るのを見た。その不思議な幻視が消え去ると、聖フランシスコには強烈な神に対する生き生きとした愛が残り、身体的には驚くべきしるしと驚くべき痕とを遺したのである。

その両手と両足とに釘のようなものが現れはじめた。それで手や足は全て真中を刺し貫かれているように見えた。右の脇腹には槍で突かれたしるしが現れて、赤く血塗られていた。そこからは後にしばしば出血し、聖フランシスコの下着や衣を染めたのである。

 しかしフランシスコは、そのことについて兄弟たちに何一つ告げなかった。両手をかくし、足の裏はもはや地に着けることができなかった。兄弟たちは、フランシスコの衣や下着を洗たくのために受け取った時、それが血に染まっているのを見つけるのだった。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より) 
 
アッシジの貧者(11)

 ウゴリーノ枢機卿は、フランシスコが知った時には、70才近い白髪の老人で、人に畏敬の念を起こさせ、人を惹きつける風貌をもっていた。彼はその当時の最高の教養を身につけていた。教会の自由と修道生活の促進に力を尽くし、後にはフランシスコ会やドミニコ会などと終始変わらぬ関係を結ばれた。また後にグレゴリオ九世となられてからでも、これらの修道会の真の友人であり、恩人であられた方であった。 

 1217年5月10日に、フランシスコは例の聖霊降臨祭の集りをポルチウンクラで開催し、そこで大きな計画を発表した。イタリアだけでなく、山の彼方の国々へ、ドイツへ、ハンガリーへ、スペインへ、フランスへ、聖地にさえも布教の旅に出かけようと訴えた。この提案は喝采をもって迎えられた。世界各地へ派遣される兄弟たちに、フランシスコは戒めの説教をした。よく沈黙を守り、心のうちに祈りを捧げて遍歴するようにと。 

 フランシスコ自身は、フランスを布教の地に選んだが、ウゴリーノ枢機卿に止められ、仕方なく兄弟パチフィコを遣った。

 ウゴリーノ枢機卿がとりわけ注目したのは、「小さな兄弟たち」の説教が、女性の間に呼び起こした運動だった。修道生活を送りたいと群れ集まってきているたくさんの女性のために、ウゴリーノは後世クララ会と呼ばれる女子修道会の基礎を定めようと働かれ、修道院を三つ建設することに乗り出した。

 これらの修道院に、差し当たり修道生活の唯一の礎として与えられたものは、何ものも所有しないという、ただそれだけであった。こうした女性たちを、この世から修道院へと惹きつけたのは、フランシスカーニの説教であり、フランシスカーニの生活であったからである。

 フランシスコとウゴリーノとが、共に内部の問題に忙殺されていた間に、世界の各地へ送り出された宣教師たちは、特にこれといった成果をあげた者はいなかった。それどころか言葉がわからなかったために、異端者扱いされたり、船でイタリアに送り返された者もいた。 

 こうした良くない知らせは、フランシスコを不安と悲しみでいっぱいにした。 

 その頃フランシスコは夢を見た。一羽の小さな雌鶏がいて、その回りには小さなヒナがピヨピヨ鳴きながら歩き回っている。あまりにヒナが多いので、このかわいそうな雌鶏は、その翼の下にみんなを匿ってやることができない。「この雌鶏は自分なのだ」と、目が覚めた時ひとり言った。「私には私の子供たちを保護してやることはできない。それは明らかなことだ」と。

 それでこの修道会の保護を教会の手に委ねなくてはならないということが、フランシスコに明らかとなった。ウゴリーノは、フランシスコをローマに行かせて、教皇に謁見を願うように勧めた。 

 これはおそらく1217年から18年にかけてのことであっただろう。ウゴリーノはあらかじめフランシスコに講演を暗記しておくようにと言われたが、教皇の前にでた時、フランシスコはそれを思い出すことができなかった。しかし霊感に満たされ、脱魂状態のようになり話しはじめたので、教皇も大変感動され、ウゴリーノ枢機卿を自分の会の特別の保護者として下さるようにというフランシスコの願いを快く許可された。

 その翌年の総会で、二年前に失敗に終わった布教事業を再び試みることが決まった。今度はウゴリーノが、兄弟たちのために、これから訪れる地方地方へ、依頼状を送って、司教たちに彼らを保証し、また教皇からの推薦状を持たせた。それにはこの書状の持参者は、聖使徒たちの手本に従って神の種子を播く人々であり、その生活は聖座から許されている立派なカトリックであると書かれていた。 

 この書状の写しをそれぞれ各自が身につけ、新しい兄弟たちをこの会に受け入れても良いというフランシスコの許しも受けて、後世管区長と呼ばれるようになった彼らは、それぞれ自分のグループの先頭に立って出かけて行ったのである。

 1219年フランシスコは十字軍遠征の艦隊に乗りこみ聖地巡礼に出ていたが、イタリアからの使者によって、その行動は妨げられた。悪い知らせがもたらされたのである。フランシスコの代理をしていた兄弟たちの勝手な行動であった。

 またもやフランシスコは、このような大きなグループを率いて行くことのいかに困難であるかを知らされた。この会には「完全なものばかりでなく、若いものも、不完全なものも、前もって修道院の規律の試み、または訓練を施すことなしに迎え入れられていたのである。フランシスコは、もはやこの修道会全体が、新たに根底から組織立てられなければならないことを知った。

 そして差し迫った組織化という仕事のためにもっと自由でありたいと考え、1220年の聖ミカエルの総会で、この会の上長たる地位から退き、その代理としてピエトロ・カッターニが指命された。

 フランシスコはこの時から、もうこの会の指揮者でも指導者でもなかったが、しかし立法者であり、ローマに対してはいつもこの会の事実上の上長であった。

 1221年のポルチウンクラの総会で、「小さな兄弟会」に入ろうとする人は誰でも、まず一年の修練期に服さなければならないと規定した。そのため多かれ少なかれ、しまりのない、だらしのない小鳥たちに対して門戸が閉ざされたのである。

 フランシスコは、兄弟ケザリラスの協力によって、新しい会則の作成にとりかかった。リヴォ・トルトで書いた最初の会則は、フランシスコ自身、「わたしはそれを言葉少なに簡潔に書いた。それを教皇様がご裁可になった」と遺言状の中で述べている。一言でいえば「福音を遵奉する」ということであった。そして兄弟たちが増え、会が発展していくにつれて、時に応じ、機会に応じて、必要に迫られる度に示戒がつけ加えられていったのである。

 新しい会則が完成するまで、なお二年の月日が費やされた。

 ちょうどこの時代、1200年から1250年にかけて、イタリアだけでも新しい大学が8つ建てられており、中世後期を特徴づけている学問光隆の時代に入ろうとしていた。この運動は、今や小さな兄弟たちをもその流れにさらわんとしていた。そこではじめて、フランシスコは真剣にその防御に立ち上がったのである。全生涯を通じて、彼は自分を「愚か者」と言い慣わしていたように無学だった。だが全く学問することに反対だったわけではない。ただ偉大な知識を詰め込んだ高価な書籍を買いこみ、それを保存しておくための大きな立派な家を持たねばならないなら、どうして信心深い小さな兄弟でいることができるだろうか? フランシスコが心の底から忌み嫌っていたのは、自我の小さな虚栄心のために、学問を手段として利用する知的な傲慢であり、利己主義であった。人々からよく思われたり見られたりしようとして、知識で身を飾ることを最も嫌った。聖堂の説教台に立って、虚栄心にふくらむ霊魂でいるよりは、山の奥深くわけ入って洞窟に庵を結ぶか、ただ独り、誰にも知られずひざまづき、同胞のために神に祈った方がずっとよい、と思うのだった。

 祈りと生活とは、言葉や理論ではない。フランシスコにとって、それこそ本質的なものであり、フランシスコとその兄弟たちにとって、それが一番大切だった。

 しかしフランシスコが押し止めようとした学問へと、避くべからざる勢いで発展していき、小さな兄弟会は、だんだんとドミニコ会のように学識のある、学問する人々の会になっていった。このような兄弟たちと、古い時代のフランシスコ会士たちとの間に、反発の運動が起こりはじめていた。

 その反対派によって、フランシスコが書いたものが取り消されたり、認め難いまでに変えられてしまう羽目に再三再四あわされた。さらにいっそうフランシスコにとって痛ましい限りであったのは、聖福音の言葉、かつて自分と最初の兄弟に、あんなにも強い印象を与えたあの言葉 ―ポルチウンクラで聖マチアのミサのうちに自分に語りたもうたあのみ言葉― 「旅には何も持っていくな。杖も、袋も、パンも、金も、二枚の上着も持って行くな」(ルカ 9. 3)を、この会則のうちに置くことを許されなかったことであった。それは情け容赦もなく除去された。聖フランシスコのあらゆる謙遜にもかかわらず、ここを超えて去って行くということは、何にもましてつらいことであった。実に生涯賭けたものはみな、それがために生き、その実現のために一生を犠牲にしたそれが、自分のもっとも身近であり、自分の仕事を受け継ぐべき人々から、今やそんなものは幻影であり、とっぴなものだと宣告されたような思いをいだかされたのである。だがフランシスコは何事もなし得なかった。新しい会則は、反対派と争おうとしないフランシスコのやり方で、譲るべきものは譲りながら、ウゴリーノの協力も得て、1223年9月29日オノリーヨ三世によって裁可された。

 そのようにして作成された会則が、だからといって、フランシスコ的な特質に全く欠けているわけではなく、そこには本質的な、フランシスコに特有な原則が見出されている。とりわけ序文のうちには「従順、清貧、貞節を守り、福音に従って生活すべき」義務がある12章のうち、そこかしこで聖フランシスコの12使徒に対する尊敬の念から、会則は12に分けられており、真のフランシスコ的原則に出会うことができる。

 金銭を受け取ったり、何ものかを所有したりしてはならない(第4章)、働けとの戒告(第5章)、施しを求めるに恥じることなく(第6章)、許されている貧しい衣服を、袋を造る麻布か他のぼろきれでつくること(第2章)、柔らかい衣服をまとい、ぜいたくに、心浮かれて喜んで生活している人々を自らの清貧に誇って裁いたりなどしてはならないこと(第2章)、遍歴していく時には、あらゆる人々に温和に、やさしく、平和を好み、控え目に、謙遜に、情け深くなければならない。お互いに争ったり、また誰をもさばいたりしてはいけない。家の中に入る時には「この家に平和がありますように」と挨拶しなさい(第3章)、この世のあらゆる傲慢、虚栄、妬み、誹謗、不平、貪欲、危惧に捕らわれたりすることから免れ、主の霊をもち、神のみ業をなし、いつも清い心に祈りを捧げ、迫害や病気にあっては謙遜と忍耐を守り、私達を憎んだり非難する人々や、また私達を叱責する人々を愛するように心を配らなくてはならない。なぜなら主がこういわれているからである。「あなたたちの敵を愛し、あなたたちを迫害し誹謗する人たちのために祈りなさい。幸いなるかな、義のために迫害を忍ぶ人、天国は彼らのものである。こうして耐え忍ぶ人は救われる!」と。

 フランシスコがこの世に火をともそうとやってきた、あの聖なる炎は、こうした色々のことにもかかわらず、今日でもなお「小さな兄弟」の会則のうちに燃えているし、幾世代もの間を通じて、フランシスコ会士たちのうちでもっとも優れた、もっとも気高い人々が、この炎を純粋に保とうとしてその生涯を賭けて今日にいたっている。

 彼らにとっては、「生命の書であり、救いの希望であり、聖福音の中核であり、十字架の道であり、完徳の立脚地であり、楽園への鍵であり、永遠の生命の前味であり、保証」であったこの会則に、彼らは「解釈を施すことなく、釈明を加えずに」従って生活しようとしたのであった。



(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より)
 
アッシジの貧者(12)

 フランシスコはこの時から亡くなるまで、生きていく二つの使命を持った。それは自らを極めて微細な点にいたるまで、聖福音に従って生活し、そのことによって自らが手本となり、兄弟たちに正しい道を示すこと。今一つは、新たに筆を執って教皇の裁可されたあの会則になお欠けていることがらを補う、ということである。 

 フランシスコが一人で、後には兄弟たちと、福音宣布者や歌い手としてさまよい歩いた時は過ぎ去り、なお残っている年月は、筆と私生活とによって影響を及ぼしてゆくことなのである。

 こうした晩年の大部分を、フランシスコはかつての布教の旅路の一つの舞台であったリエティの谷で過ごした。

 この時からフランシスコは、兄弟たちに語るときには、もはやその人達の上に権威を持つ人のようにはしなかった。フランシスコの意に添わない方向に兄弟たちを導く管区長たちや高位聖職者たちには、いら立つことがあったかもしれない。けれども神を信頼し、小さな兄弟たちがその理想から脱落すれば、人々は彼らを軽蔑し、いやそれどころか彼らを迫害し、正しい道に追い返すであろう。自分自身は兄弟たちのために祈り、自ら手本を示して、彼らの怠慢の言いのがれの隙を少しも与えないように、理想を擁護してゆく以外、もうなすべきことはなかった。
 
 聖フランシスコの健康も良くなかった。若い時には次から次と熱病の発作に襲われているし、後には数多くの、そして長期にわたる大斎が、その健康を害ねていた。そのうえ東方の国に滞在していた時、エジプトの風土病で目を患い、時おりは全く見えなくさえなった。その当時書かれた手紙の一つに、自分を指して「よぼよぼ人間」と称しているが、筆に頼ることで納得するよりほかはないようになっていた。

 書いたものの中に、最後に至るまで人々を天国に導こうとするフランシスコの情熱がはっきりと読みとれる。

 フランシスコはこの最後の時代に、五通の手紙ないし回章を、一通は全キリスト者に、一通は自分ができなかった聖霊降臨祭の総会に、一通は全ての聖職者たちに、一通は全ての副管区長に、そしてもう一通を全ての上長たちに送っている。そして「遺言書」とクララ会の修道会にあてた遺言書と、最後にその修道歌「太陽の賛歌」が結びつけられている。
 
 この聖フランシスコの手紙の中に見られるのは、斬新な驚かされるような思想ではなく、まさに古い昔ながらの教えなのである。

 この五つの信書は、上の空で読んでしまう人々には、思想が貧弱だと思われ、絶えず繰り返される二、三の主題に退屈するかもしれない。しかしながら、これらの言葉の背後にある生き生きとした人を、まったく純真で、愛に満ちているアッシジの「愚かもの」を推測するならば、命のない言葉は肉となり、精神の貧しさは豊かさとなって現れるであろう。なぜならそれこそフランシスコを完全に満たし、完全に所有していたものであったからである。

 フランシスコの修道生活を貫いているものは、何よりもまず行いで説教しようとしたことである。 

「みながまず手本となることによって説き示すがよい」とその会則の中で弟子たちに命じている。 

これをまっ先に実行したのはフランシスコ自身であった。こうした聖人の深い誠実さについて、晩年のリエティの谷での生活が、幾たびとなく新たな証拠を提供してくれる。

 けれども何にもましてフランシスコは、清貧に心を燃え立たせた施しを与えるのは幸いである。けれども受けることも幸いである、と宣言した。施し物として乞い受けたパンは、「天使のパン」であるように!だから施しを受けて家路を辿る兄弟は、歌をうたいながら帰ってこなければならない。絶えずフランシスコは、清貧を賛える詩編や聖福音の章句を口ずさんでいた。
 
 こうした清貧へのあらゆる努力にもかかわらず、それでも決して自分と兄弟たちは、十分に貧しいとは思っていなかった。「私たちは恥じなければなりません」と薄汚いぼろをまとった乞食のそばを通りながら言った。乞食はフランシスコにとって、それこそ聖なるものであった。だから本当に貧しい人には、自分が持っている全ての物を喜んで与えるのであった。外套もズボンも。

 このようだから兄弟たちは、師に着物を着させておくのにしばしば手を焼いた。ある時はフランシスコの外套を、一人のお婆さんから買い戻さなければならなかった。また次々と入会を申しこんでくる兄弟たちを食べさせるために、祭壇の装飾を売ったこともある。反対する兄弟に対して言った。「祭壇を飾って聖福音を破るよりも、祭壇を裸にして聖福音を守った方がはるかに良いのです」と。
 
 こうしてフランシスコは、自分の小径をあらゆる方法で純粋に保ち、見かけばかりではなく、本当に聖福音に従うことに努めたのであった。
 またフランシスコは、その霊的生活をたどって、弟子たちに教えた。「誰一人として多くの誘惑や災いに試みられないものは、自分を神の真実の僕であると思ってはなりません。克服された誘惑というものは、いわば主のくださった婚約の指環です」と。
 リエティの谷の世を離れた平和な生活の中で、忠実な弟子たちに囲まれ、共に語り合ってくらしていたフランシスコは、そこに小さな兄弟たちの理想的な姿を描き出していた。

すべての試みや誘惑に対して、フランシスコは度々、兄弟たちに三つの手段をとるように忠告している。第一は祈り、第二は他人の意志に従い、喜んでその通り行うという従順、第三は一切の邪悪な暗い考えを吹き飛ばしてしまう、主のうちにおける福音的喜びであった。 

これら三つの分野において、フランシスコは、兄弟たちに最上の手本を示した。喜んで一番年下の修練者にでも従った。いつでも自分の置かれている環境に満足していた。完全な従順について教えて下さいと兄弟たちが願った時、「死体をとって好きなようにしてみなさい。それは少しも逆らいませんし、姿勢を変えたり、立ち去って行ってしまうなどとはしません。王座の上に置くならば、上の方を見ないで下の方を向いていますし、緋の衣を着せれば、さらにいっそう青白くなるばかりです。ほんとうの従順とは、実際こうしたことで、どこへやられるのだとも聞きもしなければ、どうしてここへ来たか気にもかけませんし、移しやられることを求めもしません。ほまれを得れば、ただいっそう謙遜深くなるばかりで、ほめられればほめられる程ますます自分は役立たないものと思うだけなのです」と答えている。

 フランシスコにとって、平和に対する第一の大きな手だては、我意をいっさいあますところなく断念するという意味の従順であった。

 「あなたの頬を打つ人にはほかの頬も向け、マントをとる人には上着もこばんではならない。・・・・・・自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない。・・・・・・自分の命を救おうと思う人は、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである」

平和のための今一つの手段は祈りであった。 

不断の辛抱強い祈り、絶え間ない祈りである。

チェラノのトマスが言っているように、フランシスコ自身は、「その全存在が祈りと化していた」のであった。

 フランシスコが兄弟たちに垂示した平和への第三の手段は喜びであった。「悪魔に耳を傾けるものは頭を垂れて歩き回るがよい。私達にふさわしいのは、主のうちに喜ぶことなのです!」といった。もし霊魂が悲しみ、孤独で、愁いに沈んでいるなら、たやすくこの世のうわべだけの慰めや楽しみに向かう。だからフランシスコは再三、再四使徒の言葉を繰り返した。「つねに喜べ!」と。

フランシスコ兄弟たちは、悲しむ偽善者ではなく、喜ぶ光の子らでなければならない。どうしてそんなふうにできるのかと尋ねた人に、「清く心を保ち、絶え間なくお祈りしていれば湧き出てきますよ、霊的な喜びは!」と答えている。

1224年の夏、フランシスコの健康状態が思わしくなくなり、リエティの谷からオルランド伯から贈られたラ・ヴェルナ山に移り、そこで忠実な兄弟たちと聖マリアの被昇天を祝い、その上40日間の大斎を守って聖ミカエルの祝いの準備をしようとした。ラ・ヴェルナ山には、今もフランシスコにゆかりのある場所を見ることができる。フランシスコが祈っていた大きな突き出た岩、飛び出た石の棚が、寝床としていた暗い湿っぽい固い岩欠が。

 しかしどこへ居を移そうと、フランシスコの心から離れない不安と憂いがあった。会の将来を思い、すべてはどうなって行くのか?フランシスコから兄弟たちを奪い、どこへ連れて行こうというのか。フランシスコが好まなかった方向へ、彼らは行くのである。そして今やフランシスコには何の力もなくて、見送っていなければならない。フランシスコは、完全な小さな兄弟の、完全な管区長の、完全な修道会会則の理想的な姿を筆にしただけであった。現実は全く異なっているということをよく知っていた。 

 彼らは、フランシスコが望んだように、「一冊の本、一本のペンと、一つの印判」では満足しなかった。彼らは本を集め、教会法を学んだ。

 思いあぐねて、ある日フランシスコは今まで度々用いた方法を使った。兄弟レオーネに聖福音書を三度ひもとかせた。三度ともキリストの受難の所が開かれた。そこでフランシスコは了解した。自分は終わりまで耐え忍ぶ以外にはないということを。そして幸福な時代はもう過ぎ去って帰ってこないのだということを。そしてフランシスコは、すべてを神のみ旨に委ねたのであった。

 聖マリアの被昇天の祝いの後、フランシスコは兄弟たちから離れて、さらに山の奧深くのわびしい所に引き退いた。自分で選んだその場所は、深くて狭い岩山の峡谷の向こう側にあって、人がそこへ行くためには、橋の代わりにかけられた一本の木の上を渡らねばならなかった。兄弟レオーネが一日に二度フランシスコのもとへ通った。一度は昼にパンと水を持って、もう一度は夜明けの朝課のときに。そこでフランシスコは、しばしば長い時間、ものが言えない程の恍惚状態に陥り、神のみに心を奪われていた。

 幾日も幾日も過ぎ去った。やがて「聖十字架称賛の祝日」の9月14日が近づいた。十字架と十字架像とは、常にフランシスコの心の底からの宗教的感情の対象であった。

1207年フランシスコを、サン・ダミアノのわびしい御聖堂で、貧しさのうちにキリストに従って行くようにと、回心させたのは、十字架像の声であったし、若き日に、ポルチウンクラで泣きながらさまよったのは、目の前に十字架につけられた主のおん苦しみがあったからである。

 十字架を崇め奉るということが、以前フランシスコが兄弟たちに次のように祈るように定めた目的であった。「私たちは御身を崇め奉ります。おお主よ、御身をほめ称えます。それは御身が御身の十字架でこの世をお救いになったからです!」

 9月14日の朝、フランシスコはその修房の前で祈りに身を委ねていた。夜はまだ明けていない。しかしもう日の出は間近であった。東に顔を向けて祈っていた、手を挙げ、腕を広げて。

 「おお主イエズス・キリスト、私が死ぬ前に、私に二つの恩寵の賜をお贈り下さいますよう懇願いたします。その一つは、私の霊魂のうちに、私の肉の中に、でき得る限りたくさんに、御身が御身のご受難のうちに耐え忍ばれたそのご苦難が感ぜられますように。そして今一つは、神の御子である御身が、満ち溢れるまでの愛によって燃えさせられ給い、私達罪人のために潔くこれほどまで多く耐え忍ばれた程、それほどまでに御身を促したその愛を、でき得る限り多く私の心のうちに受けられますように」

 こうして祈りに身を委ね、信心の炎に焼かれている間に一つの幻を目にした。天から六つの輝く翼をつけた燭天使(セラフィム)が舞い降りて来るのを見た。その不思議な幻視が消え去ると、聖フランシスコには強烈な神に対する生き生きとした愛が残り、身体的には驚くべきしるしと驚くべき痕とを遺したのである。

その両手と両足とに釘のようなものが現れはじめた。それで手や足は全て真中を刺し貫かれているように見えた。右の脇腹には槍で突かれたしるしが現れて、赤く血塗られていた。そこからは後にしばしば出血し、聖フランシスコの下着や衣を染めたのである。

 しかしフランシスコは、そのことについて兄弟たちに何一つ告げなかった。両手をかくし、足の裏はもはや地に着けることができなかった。兄弟たちは、フランシスコの衣や下着を洗たくのために受け取った時、それが血に染まっているのを見つけるのだった。

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より) 
 
アッシジの貧者(13)

 フランシスコは、自分の身に起こったことを、長く隠しておくことはできなかった。 

 傷が非常に激しい痛みを与え、人の助けを借りねばならなかったからである。

 この秘密を打ち明けられた最初の人は、おそらくレオーネであったろう。フランシスコが手を、足を、動かすことに耐えられるようにするためには、跳び出たその釘の部分に包帯を巻かなければならなかった。この包帯はレオーネが毎日取り替えたといわれている。しかし木曜日の晩から土曜日の朝までの間は除いた。この間をフランシスコは、キリストと共に耐え忍ぼうとしたのであった。

 聖痕印刻の第一の効果は偉大なる喜びであり、全ての心の痛みと意気消沈からの解脱であった。聖痕を受けた直後に書かれた「神の賛歌」の中に、詩的な調べを生み出したものこそ、この取り返された内的幸福の感情そのものであった。

 9月30日、フランシスコは兄弟レオーネと一緒にラ・ヴェルナを立ち去った。オイルランド伯は、歩いては旅してゆけぬフランシスコに、一匹のロバを贈った。 

 朝早いミサを、フランシスコは兄弟たちと共に小さな御聖堂で受けた後、最後の戒めの言葉を述べて、一人一人に別れを告げた。マッテオに、アンジェロに、シルヴェストロに、イルミナートに。「平和にお暮らしなさい、私の愛する息子たちよ、さようなら! 身体ではあなたたちと別れます。でも心をあなたたちに残していきます。神の子羊、兄弟レオーネと一緒に今、私はポルチウンクラへと出発します。もうここへは帰ってきません。さようなら・・・・ 永遠のおん母、御身に私はこの私の息子たちを委ねます!」兄弟たちが泣いているすきに、自分の身にこんな大きなことの起こった山から去って行ったのであった。 

 途中のモンテ・カゼッラの頂上で、そこを越してしまえばもう、ヴェルナ山はまったく視界から消えてしまう。フランシスコはロバから降り、ひざまずいた。そしてはるか彼方にたゆとうラ・ヴェルナを望み、その方へ向かって十字架を切った。

 この旅のいたる所で、人々は手に手にしゅろの枝をかざして、「聖人が来た」と叫びながら出迎えた。そして産みの苦しみにあえいでいた一人の婦人が、聖フランシスコの手綱を持つ手に触れただけで治ってしまったり、フランシスコがらい病者の身体を洗ってやると、その病いが癒されたという多くの奇蹟も伝えられている。

 ポルチウンクラに着くと、すぐさま布教に出かけ始めた。ロバに乗って、一日四つか五つの町を訪問し、そこで説教した。

 消えようとしている光が、なお最後にぱっと燃え上がったかのようであった。

 しかし心は熱していたとはいえ、ロバに乗っている時などは、死んでいる人のようで、誰の目にもその弱り方は明瞭であった。兄弟たちから医者の助けを求めるようにと迫られたが、フランシスコには気にいらないことだった。かつて「示戒録」の中で、病気の時は、神がお望みになるよりも、もっと良くなりたいなどとは決して欲しないようにと、戒めたことがあった。それは「主は愛するものをこらしめ」(ヘブライ12-6)られるからである。

 フランシスコは、医者を訪ねる代わりに、サン・ダミアノに引きこもった。女子修道院の近くに、聖クララが葦の小屋を造ってくれたからであった。

 1225年の夏であった。目もくらむようなイタリアの太陽の光は、聖フランシスコの目には強すぎた。そのうえ、小屋の野ネズミにも悩まされ、夜も昼も休まる時はなかった。それにもかかわらず、この悲惨な病気の中にあって、盲目の暗闇のさ中に、輝ける傑作「兄弟太陽の賛歌」を作ったのである。


 この「太陽の賛歌」を理解するためには、聖フランシスコの自然への関係を理解しなくてはならない。フランシスコを汎神論者と呼ぶこと程間違ったことはない。決して神をも自分をも自然と混同してはいないし、シェリーが求めたような、宇宙と一つになることを願わなかった。聖フランシスコの自然に対する脚点は、全く完全に、天地の創造主全能の神である父を信じますということ。この同一なる父に対する共通の関係から、フランシスコはあらゆる生き物の内に、いや被造物である一切のもののうちに、ただ兄弟と姉妹だけを見るのである。天の御父のみ国は、多くの住まいがあるが、それはただ一家族なのである。


 全ての被造物が、フランシスコには全く直接の神のみ言葉であった。被造物によって神の本質を悟ったのである。岩石のゆるがし難い固さや力を感じた時には、どんなに力強く堅固に神が在られるかを直接に感じたのである。朝のさわやかな静けさに包まれた花を見たり、巣の中で無邪気に口を開けている鳥の小さなくちばしを見たりすれば、神の純な麗しさや清らかさを、創造主の心の限りない優しさを啓示されているのを感じるのであった。


 この感情は、フランシスコを神に対する絶えざる喜びで、また謝恩の心を述べたいと絶えず迫ってくる衝動でいっぱいにしてしまうのであった。 


 フランシスコはとりわけ太陽に ―――太陽と火に――― 感謝していた。フランシスコはよく言った。「朝に、太陽が昇った後、太陽を人々に役に立つように造られた神を、全ての人は賛えなくてはなりません。太陽によってあらゆるものが見られるのですから。でも晩には、夜に私達の目に光を与えてくれる兄弟なる火のために、感謝しなくてはならない。それは私達は皆、盲同様であるけれども、神が私達の目にこの二人の兄弟によって光を与えられることを許されたからです」と。 

 こうした情緒から太陽の歌は出てきたのである。この歌が作られた時、心は慰めと歓びでいっぱいであった。それですぐさま兄弟パチフィコに、兄弟二、三人を連れて世の中に出てゆくようにと願った。彼らはいたる所でこの新しい賛歌を歌い、神の歌い手として、その聴衆から報酬を要求する。その報酬とは、聴衆が回心して善いキリスト者となるという、そのことのうちにあるのである。


 その「太陽の賛歌」とは次の通りである。

いと高き全能の善き主よ
賛美と栄光と栄誉とすべての祝福は御身のもの
いと高きお方よ、御身だけがこれらのものにふさわしい。
誰も御身のみ名を呼ぶにふさわしくない。
賛美せられよ、わが主よ、すべての被造物によって、
わけても兄弟なる太陽によって、
この兄弟は昼をつくり、この兄弟により御身は我を照らす、
この兄弟こそは美しく、大いなる光輝を放射しつつ
いと高きお方よ、照り返しをなさる。
賛美せられよ、わが主よ、姉妹なる月と星によって、
御身はこの姉妹を明るく、尊く、美しく天に造られた。
賛美せられよ、わが主よ、兄弟なる風のために、
空気と雲と、晴れた空と、すべての天候のために、
これらの兄弟をもって、御身は被造物を支えられる。
賛美せられよ、わが主よ、姉妹なる水のために、
この姉妹はまことに有益で、謙遜で、貴く、清らか。
賛美せられよ、わが主よ、兄弟なる火のために、
この兄弟によって御身は夜を照らされる、
この兄弟は美しく、快活で、たくましく、力強い。
賛美せられよ、わが主よ、姉妹なるわれらの母なる大地のために、
この姉妹はわれらを支え、われらを育み、
あらゆる果実を、色とりどりの花と草と共に生み生かす。
主を賛美し祝福し、感謝せよ。
大いなる謙遜で、主に仕えよ。
1225年の四月の末に、オノリオ三世は居住地をリエティに移された。兄弟エリアは、ウゴリーノ枢機卿に口を添えられて、熱心にフランシスコに、教皇庁の医者の手当を受けるようにと迫った。とうとうその年の夏の終わりに、フランシスコはサン・ダミアノを出発して、クララと修道女たちに別れを告げた。

 教皇庁の医者は、あらゆる治療を試みたが、効き目はなかった。ある夜ひどく血を吐いたので、兄弟たちはもはや亡くなられると思って、一同泣きながらその寝床の回りにひざまずいて、最後の祝福を請うた。

 しかし、それが最後ではなかった。フランシスコが「厳粛に姉妹なる死」を歓び迎えることができるまでに、なお六ヶ月経過しなければならなかった。

 フランシスコは、コルトーナ近くのチェッレに移された。そこでは水腫が起こり、下腹部と足がはれ、胃は殆ど食べものを受けつけなかった。フランシスコは死ぬ前に今一度アッシジを見たいと望んだので、エリアはその願いを実現させた。もうすでに生き身のままで聖遺物となりつつあった師の身体を、担架に乗せて故郷へと連れていった。

 アッシジに帰ったフランシスコが、最初に聞いたのは、都市長官と司教との争いであった。「神の僕である私達にとって、これは大きな恥辱です」とフランシスコは兄弟たちに言い、あの「太陽の賛歌」に新たに二節をつけ加えた。そして長官と司教とを司教館に招いた。招かれた人々は、司教館広場で落ち合った。その場所こそフランシスコが19年前、父親に衣服を返した場所であった。一同が揃った時、二人の兄弟が進み出て、「太陽の賛歌」とつけ加えられた二節を唱った。
賛美せられよ、わが主よ、あなたの愛のために人を許し、
しかも病気と苦難とを耐え忍ぶもののために。
終わりまで平和に耐え忍ぶ人は幸いである。
いと高きお方、
彼らはあなたから、栄冠を授けられるであろうから。
 歌が終わった時、長官は司教の前に身を投げだして許しを請うた。司教も長官をかき抱いて接吻し許しを請うた。二人とも互いに抱き合い、許しあったのである。

 余生幾ばくもないということが、この病人にだんだん明らかとなった。ある日フランシスコは、自分の手当をしてくれている医者に本当のことを言って下さいと頼んだ。医者はフランシスコには真実が必要だということを感じ、明白に答えた。「あなたは9月の終わり頃か、10月の始め頃まで生きられます」と。黙って聞いていたフランシスコは、両手を高く上げて叫んだ。「さらば歓び迎えよ、姉妹なる死よ!」と。そしてこの言葉が、その内奥に新たに詩の泉を聞いたかのように、「太陽の賛歌」にさらに最後の節を付け加えたのである。 
賛美せられよ、わが主よ、
われらの姉妹なる肉体の死のために。
生あるものはだれも、死から逃れられない。
大罪のうちに死ぬ者は、不幸です。
あなたのいとも聖なるみ旨を見い出した者は幸です。
第二の死が、その人々をそこなうことはないからです。
この瞬間からフランシスコは、兄弟アンジェロとレオーネに、いつもそばにいて、自分が望む時にはいつでもこの歌をうたってくれるようにと頼んだ。

 死後に備えて、フランシスコにはまだ整えなくてはならない事があった。この二つのことが絶えずここ何週間かの間、フランシスコの頭にあった。

 ラ・ヴェルナやリエティの谷や、ポルチウンクラやカルチェリなどにいる忠実な兄弟たちのことと、サン・ダミアノのはずれにいるクララとその修道女たちのことであった。

 フランシスコがいるアッシジの司教館からサン・ダミアノへと下っていく道のりはさほど遠くはない。それにもかかわらず、フランシスコは、この道を最後まで踏まなかった。 

 クララは何度も使いをよこして、お別れのご挨拶がしたいと願ったが、もはやせんないことだった。手紙を書いて最後の祝福を送ることで満足しなければならなかった。

 まだ残っていることは、兄弟たちに別れの言葉を遺すということだけだった。

 そしてそのことは「遺言書」の中でなされた。この中でフランシスコは、その死の床から自分の一生涯を回顧して、回心の朝明けの最初の時代に、憂愁と喜悦とで留まりながら、しかもまた来る年月が、いったい何を自分の忠実な弟子たちの上にもたらすのであろうかと気づかっているのである。総会や手紙、あるいはあらゆる示戒から引き出して、今一度短い、感銘を与える文章にしてまとめている。フランシスコは、人の心に迫る愛で、兄弟たちを最後まで愛したのであった。長く病床にあって、自分を世話してくれる兄弟たちの苦労を少なくしようと、フランシスコはポルチウンクラへ下ろうと決心した。兄弟たちに担われてアッシジを出たフランシスコは、途中の思い出多いらい病院を通り、アッシジを眺められる所に着いた時、担架を下ろさせた。そして兄弟たちに助け起こされ、半ば盲目になっている目で、長い間町を、彼方の山々を、末広がりの平原をじっと見ていた。 やがておもむろに手をあげてアッシジの上に十字を切った。

「祝福されよ、御身は主によって」

 ポルチウンクラに入ったフランシスコは、小聖堂の背後にある小屋に入れられた。そこで「兄弟ジャコマ」すなわちジャコマ・デ・セッテソリの訪問を受けるという慰めを得た。かつてローマで出会って以来、よき友人となり、フランシスコの亡き後、アッシジに住み、何くれとなく兄弟たちの世話をしたと伝えられている。

 フランシスコが、この婦人にあてて来てくれるようにと手紙を書かせようとしていた丁度その時に、この婦人は現れたのであった。フランシスコの不治の病の風評は、ローマにも達しており、ジャコマはフランシスコのために、自ら織った衣を携えて来ていたが、この衣は死出の旅衣となるはずであった。

 通例婦人はポルチウンクラに足を踏み入れることは許されていないが、「兄弟ジャコマ」は例外であった。目にいっぱい涙をためながら、愛する師の病床のもとに身を投げた。ちょうどイエズスの足もとのマグダレナのマリアのように。

 ジャコマ婦人が着いてからフランシスコが亡くなるまで、一週間とたたなかった。次の木曜日10月1日に、フランシスコは自分の周囲に兄弟たちを集めて、一人一人祝福した。そしてそこにいあわせなかった兄弟たちの上ばかりでなく、他日この会に入ってくるであろう全ての兄弟たちをも祝福したのであった。

 この時から亡くなるまで、だれひとり兄弟は病床から離れなかった。幾たびとなくアンジェロとレオーネとが太陽の賛歌をうたい、幾たびとなく病人はその最後の諸節をうたった、「賛美せられよ、わが主よ、姉妹なる死のために!」と。フランシスコは最後の瞬間が来た時、着物を脱がしてもらい、裸で地面の上に横たわって死ぬことが許されますようにと院長に願った。そして土曜日(10月3日)、兄弟たちに自分の上に灰を振りかけてくれるように求めた。

 「やがて私は塵と灰以外の何ものでもなくなるでしょう。」

 やがて日の暮れかかる頃、フランシスコは異常な力で歌い始めた。それは詩編142であった。

 10月の夕べは速やかに暮れていき、ポルチウンクラの森の中の小さな小屋の中は薄暗くなり、深いしじまのさ中に、息をこらして聞き耳をたてている弟子たちの中で、フランシスコは唱っていた。

 フランシスコが唱っている間に、小さな部屋は全く暗くなった。そしてフランシスコの声が途絶えた時、死の静けさが忍び寄った ―――――― その声がもう決して破られない静けさが。 

 アッシジの聖フランシスコのくちびるは、とこしえに閉ざされてしまった。歌をうたいながら永遠のさ中に入ってしまったのである。

 けれども、この亡くなった神の歌い手への最後の挨拶として、この瞬間、この小屋の上で、回りで、強い、思いがけないさえずりがいっぱいに広がった ―――― それは最後のお別れを述べに来た、聖フランシスコの善き友、ひばりであった。


(終わり)

(J・ヨルゲンセン 「アッシジの聖フランシスコ」より) 
 
エイメン

 アメリカには、白人と黒人がいて、黒人が差別されていることは、よくご存知だと思います。
 
 この黒人達は、十八世紀から十九世紀にかけて、アメリカの白人達によって、強制的に彼らの母なるアフリカから船に乗せられて連れてこられました。
 彼らの気持ちは、黒人霊歌によく表されています。「私は母のない子のように」という霊歌は、アフリカが自分の母、アメリカは自分の母ではないという悲しい歌です。
 また「深い河」という霊歌は、アメリカとアフリカの間には、渡ることのできない深い海があり、帰りたくても帰れないという慟哭の歌です。
 しかしこの黒人達は、キリスト・イエスを知ることによって、その気持ちが変わってきます。まず「私の主を十字架につけた時、あなたもそこにいたのか」という霊歌になります。イエスは十字架にかけられ、生けにえとなり、復活したように、自分も今十字架にかけられているが、いずれ復活するという気持に変わってきました。
 また「エイメン」という霊歌があります。エイメンは、アーメンのことで、”そうなりますように” ”神のみ心が行われますように”という意味です。
 その気持ちがさらに深まり、悲しみは喜びの歌に変わっていきます。
 「聖者の行進」は、そういう歓喜の歌です。その歓喜がさらに強まり有名な「ジェリコ」という力強い霊歌になっていきます。
 ユダヤ人が母国に帰った時に、神の助けによって、ジェリコの厚い壁をこわすことによって、母なる国に帰ることができたように、黒人も白人との厚い壁をこわして、神の国を築くことができるでしょうという意味の歌です。
 私は日本にくる前に、イギリスのリバプールに居たことがあります。当時のリバプールは、炭坑の町で、貧しい人が多かった。その町からビートルズが生まれました。彼らの歌の中に、「Let it be」という有名な歌があります。聖母に捧げられた歌です。「Let it be」はエイメン、アーメンと同じ”神のみ心のままに”という意味です。毎日家族を養うのに、苦労し、不安ですが、聖母マリアがお祈りしてくれるならば、”Let it be”神のみ心のままに。病気とか、様々な不安があっても、聖母がお祈りしてくれるなら、そのままでいいよ、神はきっと助けてくれる。つまり苦しみの中の希望の歌です。
 イエスも、エルサレムに最後の旅をした時に、自分がこれからどういう運命に逢うかを予感していました。それでも逃げないで、エルサレムに立ち向かいました。
 彼の人間としての気持ちは、最後の晩さんの後、ゲェツェマニの園でお祈りした時です。
 ”父よ、できればこの盃(さかずき)を遠ざけてください。でも私の思うようにではなく、あなたのみ心のままになりますように”
 つまり、この盃、いわゆる逮捕され、ムチ打たれ、十字架にかけられるという、辛い薬の盃を遠ざけてほしい。しかしこの犠牲(いけにえ)が、人の救いのために必要ならば、神のみ心のままに。
 苦しみや叫びの中から、希望がでてきます。私は”アーメン”という言葉を言う時に、不安いっぱいで言います。”アーメン”だけで非常に深い祈りになります。
 人は”アーメン”を言うために、生まれてきたのではないでしょうか。
 

信仰とは

 マルコの福音書の中に、盲目の乞食バルテマイの話があります。

 乞食ですから、人の施しを受けて生きていますが、バルテマイはたった一つだけの宝ものを持っていました。それはマントです。エリコという土地は、昼間は猛烈な暑さになりますが、夜は零下まで下がってしまいます。
 家のない彼は、夜になると、そのマントにくるまって寝ました。ですから彼にとっては、そのマントだけがたった一つの宝ものだったのです。
 ある日、いつものようにバルテマイが道ばたに座っていると、その道を大勢の群衆とともにイエスが通りかかりました。ナザレのイエスだと人々がいうのを聞いて、彼は大声で「イエスさま、私をあわれんでください。」と叫びました。まわりの人々は叱りつけて黙らせようとしたが、バルテマイはますます「主よ、あわれんでください。」と叫び続けました。イエスは立ちどまり、「あの人を呼べ」と言われた。人々が盲人に、「安心しなさい。立ちなさい、あなたを呼んでおられる」と言って、彼を呼ぶと、盲人はマントを脱ぎ捨て、おどりあがってイエスのもとに来た。イエスが、「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。そこでイエスは仰せになった。「よし、あなたの信仰があなたを救った」するとたちまち、盲人の人は見えるようになり、イエスに同行した。
 私はこのイエスさまの言葉について、何回も考えました。
 「あなたの信仰があなたを救った」とは、どんな意味なのでしょうか。私達は度々、人間同士であなたを信じます、あなたを信頼しますと言います。
 子供は学校の先生から、アメリカという国があると言われると、自分の目で確かめなくてもアメリカという国があると信じます。男と女はお互いに愛しあっていると信じて結婚します。病気になれば、医者を信じて薬を飲みます。つまり私達の社会は信頼に基づいてできあがっています。
 でも信じたのに、信頼していたのに裏切られたという体験を誰もがしていると思います。
 「信仰」とは、仰ぐ、つまり上を見て信じるということです。上とは神のこと、神さまは決して裏切らないということを信じること。それがあなたを救うのです。
 盲人のバルテマイは、人間にできないことでも、神はできると信じたのです。その信仰が彼に視力をかえしてくれたのです。聖書には、肉眼の視力か心の視力か、はっきり書いてありませんが、私は両方与えられたと思います。なぜなら彼は、宝もののマントを投げ捨て、なお道を進まれるイエスさまに従ったからです。
 イエスさまは「祈りなさい、そうすれば天の父は必ずあなたの祈りをきいてくれます」とおっしゃっています。神が必ず祈りをきいてくださるというのは、自分の思う通りに全部してくれるということではありません。神さまは、必要な時に必要なものを必ず私達に与えてくださる。神さまは私達の祈りを決して無視はなさいません。
 信仰とは、人間には不可能と思われるところでも、神さまはすばらしい業を成し遂げられると信じることです。 
 

許し

 私達ヨーロッパ人にとって、日本の「武士道」は珍しく思われます。その中でも特に「仇討ち」が一つの美徳とされていることは大変不思議なことです。殺された父の仇討ちをする子供は、勇気と親への愛を示すという解釈は美徳といえるのだろうかと。

 はっきり当時の歴史の法律はわかりませんが、仇討ちをした人を裁いたり、死刑にしたりすることはなかったように聞いています。
 東洋と西洋の大きな違いがここにもあります。
 西洋では神に向かって「私達が人の罪を許すように私の罪も許してください」と祈ります。つまり他人の罪を許す、自分に対して侮辱した人を許すことが、西洋では美徳になるわけです。
 でも本当に人を許せるのか、あなたの子供を殺した人を心から許せるのかと問われると、私も答えるのに苦労すると思います。
 神は愛そのものであり、慈悲そのものですから、人間の罪を許してくださいますが、人間は心が小さくて人を許すことができないのではないかと思うこともあります。私自身は心から人を許さなければならないという機会がなかったので、自分が本当に人を許せるかどうかわかりません。
 あるスペインの神父さまで、上智大学の教授でしたが、彼の子供の頃お父さんがスペインの内乱で殺されたことを話してくれました。
 一九三十年代スペインは右翼と左翼の間で内乱が起き、彼のお父さんはある夜、反対側の人達に妻と子供の目の前で殺害されました。戦争中に起こったことなので、裁判等は一切なかったそうです。
 彼は父を殺した人達の顔をはっきり見てしまったので、決して忘れることができなかったそうです。しかしお母さんは、子供の心の中に憎しみを育てるよりも、許しを育てるために、お父さんを殺した人のためにも祈りましょう、と毎晩の祈りの中に必ず加えていたそうです。子供達は復しゅうするよりも、お父さんを殺した人のために祈るよう育てられました。
 ”昔の人は歯には歯を、目には目を、と教えてきたが、私は云う、あなたがたの敵のために祈りなさい。それで、あなたがたは神の子となる”
 人間として許すことができないから神の子として許すことができると云われました。
 

聖書の翻訳

 外国語を勉強している人は、外国語から日本語に翻訳する時に、原語の本当の意味を伝えることが、非常に難しいことにお気づきだと思います。

 キリスト教の教会は、長い間聖書をラテン語でしか読みませんでした。各国語に翻訳すると、神の言葉がそのまま伝わらないことを恐れたからです。
 聖書がはじめて翻訳されたのは、十六世紀中頃ルテロ神父によるラテン語からドイツ語への翻訳です。その時から、プロテスタントの人達は聖書を様々な国語に翻訳しました。
 それは一般の人にも聖書を理解しやすくするためでした。ラテン語は、当時は教養のある人しか読めなかったのです。
 カトリックでは、一九五〇年代に聖書をはじめ、お祈りの言葉などを翻訳することを許可しました。それまでは教会の典礼もラテン語で行われていました。
 しかし、やはり翻訳では、原語の意味がそのまま伝わらないように思います。
 たとえば、ルカ福音書一章三十九節
 "その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した”
 日本語で挨拶とは、「人と会った時にとり交す儀礼的な動作、言葉」であると、国語辞典に書いてあり、それ以上の意味は含まれていないように思います。
 しかし聖書の言葉を読みつづけると、
”マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。”
 つまり、「とり交す儀礼的な言葉」よりも、もっと深い意味が含まれていることがわかるでしょう。
 神からの挨拶ですから、エリザベトの胎児までにも伝わったのです。
 そのように、「挨拶」という言葉は、聖書の中では最も意味深いものです。
 他の個所でも、挨拶という言葉が文脈から浮き上がって、何ともおさまりの悪い文章になっています。
 天使ガブリエルがマリアさまに、母になると挨拶する時に、
”天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。”
 この挨拶が「人と会った時にとり交す儀礼的な動作、言葉」以上のものを示すことは、マリアさまの言葉からわかります。挨拶に戸惑ったからです。
 聖書の世界の挨拶は、日常生活を円滑にする儀礼に留まらず、それ以上の意味を持っています。
 イエスさまは、弟子を世界中に送り出す時に、
”どこの家に入っても、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるならば、あなた方の平和はその人にとどまる。”
 確かに「平和」、ヘブライ語で「シャローム」は、日常的な挨拶でもあります。しかしこの文脈からもわかるように、弟子達が戸口で述べる「シャローム」は、神の祝福を人々にもたらす力を備えています。
 ”神の平和があなたと共に在るように”という挨拶は、人間に安心感、穏やかさ、満足感を与え、人を生かす挨拶です。
 今もユダヤ人をはじめ、アラブなど中東の人達は、「シャローム」という言葉で、相手に神しか与えられない幸福を願いながら挨拶します。
 聖書の中から、「挨拶」という言葉だけを取り上げましたが、その他にもたくさんの言葉が翻訳によって意味が伝わりにくくなっています。
 でも、イエスさまは、自分の弟子に、「神の霊は私の言いたいことを、あなた方に悟らせるだろう」と約束してくれました。
 聖書は神の言葉ですから、他の本と同じような気持ちで読むことはできません。
 神は読む人の心に、直接話しかけてくれますから、祈りながら聖書を読むべきでしょう。
 そうすれば、辞典を使わなくても、きっと神の言葉は私達の心を満たしてくれるに違いありません 
 

柔和

 どんな国の言語にも、あまり使われていない言葉がありますが、日本語の中にも、すばらしい言葉なのに忘れられている語があります。その一つは「柔和」という語です。

 四十代以上の人は、大体その意味がわかるようですが、十代や二十代の若者は読むことすらできないようです。
 私がこの言葉を発見したのは、イタリア語の「ジェンテーレ」(英語では「ジェントル」)を翻訳しようと思って、辞書をひいていた時です。
 柔道の「柔」と平和の「和」の二つの漢字から成っています。
 辞書によると、おだやかと言う意味であると書いてありますが、それだけではこの二つの漢字の深い意味を伝えてくれないような気がします。
 柔道は相手にケガをさせないで勝つと言うスポーツですが、柔らかく勝つ、また「和」は、勝っても平和を崩さない人間関係を保つと言う意味が含まれていると思います。
 「柔和」という言葉を聞くと、私はお釈迦さまの事を考えます。全ての欲望を捨てた人、そして心の本当の自由を得た人です。
 柔和な人になるのは決して楽なことではありません。毎日の訓練と努力の結果なのです。柔和な人を日本人は「仏みたいな人」、「円満な人」と表現します。しかしそれは外側だけの平和と温和の場合もあります。心からでてくるものでなければ芝居になってしまうし、人をだますことにもなります。
 心の温和を得るのに、仏教もヒンドゥ教も様々な修行をします。坐禅とか、ヨーガによって、欲望を抑えて心の平和と光を得るのだと思います。
 キリスト教でも、心の光、調和、温和を得るために様々な訓練を日常生活の中でさせます。その中でももっとも大切なことは人を許すことです。日本の文化には、仇討ちを美徳とする伝統があるようですが、キリスト教から見ればただの復しゅうで悪を重ねる事にしか見えません。
 ”私の罪を許してください、私達も人を許しますから”という祈りの言葉がありますが、人を許すことは決して簡単なことではありません。でも許すことによって柔和な人間になれるのです。
 顔は心の鏡と言われますが、心の中にあたたかい気持ち、温和な心があれば、自然に顔にもでてきます。
 あるご主人は、夜仕事から疲れて帰ってきて、まず奥さんの顔を窺うそうです。曇り時々雨のち雷。そのような奥さんの顔を見ると、がっくりして食事ものどを通らなくなると私にうちあけてくれました。奥さんは色々な理由で心にたまった毒が、顔にでてきてそれがご主人にも伝わってしまうのでしょう。
 幼稚園の子供は、お母さんの顔を描くようにと一枚の紙を渡されます。子供達はまず画面いっぱいに大きな○を描き、そして小さな手と足をつけます。つまり子供にとってのお母さんの顔は、自分に対して温和な心をもっているということを表しています。ある子供は、いつもお母さんに「お願いだから怒らないで」と言うそうです。子供は柔和で温和なお母さんが一番好きなのです。
 私達は一度自分が柔和であるか、仏みたいな人か、考えてみるべきだと思います。 
 

 

 

神への年賀状

 日本では新年の挨拶として、年賀状を書く習慣があります。ヨーロッパでも、クリスマスカードやイースター(復活祭)のカードを取り交わす習慣がありますが、義理で書くわけではないので、日本の年賀状ほど多く書くことはありません。日本に来てから、私も毎年年賀状を書きますが、だんだん増えて、今では500枚以上書かなければならず、正直言って大変です。

でも年賀状にはとても良い面があって、年に1回知り合いと挨拶を交わす機会であり、つきあいを深めるものだと思います。年賀状の内容は大体決っています。
「昨年はいろいろお世話になりました」
「今年もよろしく」
「良い年でありますように」
多くの日本人は、初詣といって、元旦に寺や神社にお参りに行き、過ぎた年に感謝し、来る年に対して健康・安全・富を願います。
キリスト者も1月1日に教会へ行きます。クリスマスの八日目、神の母聖マリアの祝日、イエスの命名の祝日、これがまず、一日の祭日としての趣旨です。ローマ教会の最も古いマリア祝日に由来するものですが、この祭日に、教会は信徒の方達にすばらしい年賀状を聞かせてくれます。
”今年中、主があなたを祝福し、あなたを守られるように”
”主が御顔を向けて、あなたを照らし、あなたに恵みをあたえられるように”
”主が御顔を向けて、あなたに平安を賜るように”
1月1日に教会へ行って、このような祝福を受けてもらえれば、私はとてもうれしいです。
神が太陽のように、私達を照らしてくれるように願うのですが、太陽は私達地球人にとって、生きるために必要なものです。太陽のおかげで、食物は芽を出し、花を咲かせ、実を結んでくれます。太陽がなければ、この地上で生活できないのです。家庭では、お母さんの顔が太陽にたとえられています。子供は母の顔を見て、安心して穏やかに育っていきます。
私達も、いつも主が御顔を向けてくれるならば、どんな試練でも乗り越えることができるに違いありません。また、現代社会の不安の中で心の平和を保つことができるに違いありません。
人生には、どんな人にも自分に背負えないような試練に出会うことがあります。堪えられない苦しみを味わうこともあります。その時、この祝福に書かれた通り、神の恵みが与えられるならば、どんな試練をも乗り越え、どんな苦しみも堪え忍ぶことができるでしょう。昨年の元旦、私は今年はどんなことがあるだろうかと考えていましたが、実際には想像できないような様々な出来事がありました。うれしいこと、悲しいこと、つらいこと、堪えられないこともありました。その時はいつも心から、そしてくり返しくり返しこう祈ります。
”主よ、御顔を私に向けて、私を照らし、私にお恵みをお与えください。”
おかげで、2000年という年を、無事に有益に過ごすことができたように思います。
二十一世紀に入って、どんな楽しいこと、またどんな素晴らしい人に出会えるでしょうか。どんな試練を堪え忍ばなければならないのでしょうか。どんな場合にしても、主が私達を守ってくれるなら、いつも穏やかで、平和で、柔和な心で、人と接することができるに違いありません。
私はやはり神様にも年賀状を出したいと思います。
「昨年は色々お世話になりました。今年もよろしくお願いします。」
あなたも神様に、忘れずに年賀状を書いてみてはいかがでしょうか。
 

七つの七倍

 毎日曜日、キリスト者は教会でミサを捧げます。

「聖書を読み、司祭の説教を聴き、賛美歌を歌います。司祭としてミサを捧げるたびに、私は心が痛くなる箇所が二箇所あります。

 一つは「主の祈り」を唱える時です。

「主の祈り」は、イエスさまが教えてくれた祈りですが、神に向かって"天におられる私たちの父よ"と呼びかけます。私だけの父ではなく、私達みんなのお父さん、わたしの嫌いな人のお父さんでもあります。また"私達が人を許すように、私達の罪を許してください"という厳しい祈りを唱えます。まだ許せない人がいる時に、その祈りを唱えることは、正直に言って、非常に複雑な心境です。

 もう一つは、平和のあいさつを交わすときです。

 典礼の中で進められているあいさつですが、お互いに向かい合って"主の平和"とあいさつします。本当は会いたくない人、まだ許せない人にこそ神の平和を交わすべきなのですが、なるべく相手と目を合わせないようにしてあいさつすることもあります。



 マタイ福音書(十八-二十一~三十五)で、イエスさまは、許しの大切さを、例え話で語っておられます。

 「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

というペトロの質問に、

「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」

と答えておられます。


 四月二日に亡くなられた前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、10年程前、聖ペトロ寺院の広場で、トルコ人に撃たれて重症を負われましたが、その犯人に会いに刑務所へ行き、一緒にコーヒーを飲みながら、心からの許しを与えられました。

 アメリカのブッシュ大統領は、キリスト者として「主の祈り」を毎日唱えるそうですが、2001年9月11日のテロ以来、彼は許しの道よりも正義の道を選びました。

 3000人を殺した人達を捕らえて罰を下すといって戦争を起こしましたが、その結果はアメリカ人だけで五千人以上、イラク人はその3~4倍の死傷者がでて、未だに平和は実現しておりません。もしブッシュ大統領が、アメリカ国民と共に、その犯人たちを許していたならば、平和に近づいていたに違いありません。

 戦争は世が始まって以来、ずっとありますが、イエスさまは平和の道を教えてくれています。

"神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみを
むねにあたため
花のようになったらば
神のまえにささげたい"
(八木重吉)
 
奇跡

 私はカトリックの司祭で、聖職者です。ですから神を信じ、神の愛の証をする人と見られていると思います。つまり私は、神の存在、神の奇跡を信じるのが当たりまえと思われています。
 しかし高校時代の私は、共産主義に興味があって、共産主義こそ神よりも社会の問題を解決すると信じていました。
 1950~60年代のイタリアの政治は、左翼で、ヨーロッパの中でも共産主義の一番強い所でした。その影響もあって、共産主義の思想家ヘンゲルス、フォーセルバッハ、マルクス、レーニン等の本を読んで、イエスさまの奇跡よりも、この人達の現実的な方法の方が、社会の問題を解決すると考えていました。
 特に聖書に書かれているイエスさまの行った奇跡が、どうしても信じることができませんでした。
 こんな話を聞くと、皆びっくりすると思いますが、私にもこんな若い時期がありました。しかし今は、共産主義が社会問題を解決するとは思っていませんし、やはり神は、奇跡を行うと信じています。
 そのきっかけは、聖書のある一ヶ所を読んだ時のことです。
 ”するとそのとき、12年このかた出血病を患っている女が、うしろからイエスに近寄り、イエスの衣(ころも)のふさに手を触れた。このかたの衣に触れるだけで治ると、心の中で思っていたからである。イエスは振り返って、彼女を見て、「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。」と仰せになった。ちょうどそのときに、彼女はいやされた。” (マタイ9-18)
 聖書の中の奇跡は、これと同じようなパターンですが、人間の協力があって、神の協力があります。つまり奇跡を行うのは、神でもあるし、また人間でもあります。
 イエスさまは、故郷に帰った時、奇跡を行わなかったと書いてあります。なぜかというと、イエスを信じる人がいなかったからです。神と協力する人がいなかったので、イエスさまも協力しなかったということです。
 私も聖職者ですが、中途半端な信仰で生きることも多いのですが、神を100パーセント無条件に信じた時に、私にも奇跡ができるとわかるようになりました。
 25年前、私が園長をしていた幼稚園は、とてもひどい状態でした。260人位の園児は、狭苦しいモルタルの建物の中で、厳しい冬の間、古いストーブに手をかざしながら、寒くて泣いていました。
 その時、私はイエスさまの言葉を思い出しました。
 ”神の国を求めなさい。後のことはただで与えられる”
 私にとって、神を試す時がきたのです。この子供達のために、広くて暖かい建物を建ててあげることが、神の国を求めることではないかと思いました。
 お金がなくても、きっと神は考えてくれるに違いない。そう信じた私は、早速設計を頼み、銀行からは、非常に安い利率でお金を借りることができました。その上、全く期待しなかった様々な人々から献金を受けました。一年間で幼稚園を建て直し、五年間で2億円全部払うことができました。
 私が建てると決めた時、設計士や建設会社の人達から、園長先生は無責任だと言われましたが、支払いが終わってみると、どこからお金ができたのかわからない。とにかく全部支払ったのだから、私にもすばらしい奇跡ができたのです。
 神の国を求めれば、後のことは神がしてくれるに違いないと、その時本気で私が信じたからです。
 あなたは幼稚園を建てる立場にはいないでしょうが、病気で未来が暗いかもしれない。また年金額が少なくて、生活ができないという不安を抱えているかもしれない。このような時はどうすればいいのでしょうか?
 まず「神の国を求めなさい」というのは、自分のできることをすることです。
 病気の人は、治療を受け、希望を持つこと。すると神は、医者のできないことをなさるかもしれない。生活の不安を持つ人は、生きるために必要なものは、神から与えられるとイエスさまがおっしゃっているので、安心して神に自分をまかせていれば、必要なものは神が与えてくださいます。
 理屈では説明できないことですが、実際に体験してみたら、あなたにも納得できるでしょう。
 人間には不可能なことが、神の助けによって可能になります。きっとあなたも、奇跡を行うことができるに違いありません。
 
隣人

 「隣人を己の如く愛しなさい」という言葉は、イエスさまの教えとして、広く知られています。
 この隣人に対する愛は、専門語では「愛徳」といいます。日本語の辞書には、キリスト教の愛と書いてありますが、それだけでは理解しづらいと思います。
 「隣人」とは誰を指すのでしょうか。文字通り隣の人、我が家の隣の人を己の如く大事にして、ありのままに受け入れるべきであるという意味もありますが、キリスト教の「隣人」は、もっと広い隣人を示しています。
 つまり、私と関係ある人は、全て私の隣人です。親、子供、配偶者、友人、先生、職場の同僚等。でももっと深くさぐってみると、イエスさまの言われた言葉を聞かなければならないと思います。
 
 ”わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。” (ルカ6-27)
 この言葉を私は子供の頃から、教会学校とか、家でよく聞かされていましたが、あまりに聞き慣れてしまって、その深い意味が今までわかりませんでした。
 「敵を愛する」とは、私の命を狙っている人をも愛すると言うことです。正直にいって六十二才になって始めて、この言葉の深い意味を知って驚いています。
 「わたしの言葉を聞いているあなたがた」という言葉は、キリスト者であるあなたがという意味です。
 私は確かにキリスト者であり、そのうえ聖職者ですが、自分の命を狙う人を愛することまで出来そうもありません。もしかしたら私は、イエスさまの弟子ではないかもしれません。
 でも私の悪口を言っている人のために、祝福を祈り、私を憎む者に親切にし、私を侮辱する人のために祈る事はできると思います。そうすることによって、和解、癒し、平和の気持ちが、私の心に注がれるような気がします。
 あなたは、ビクトリア・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」という小説をご存知だと思います。刑務所を脱走した犯罪者を迎えた神父さまの話がでてきます。
 自分の家に危険な人物を迎えてると知りながら、その神父さまは最高のもてなしをその人物にしてあげるのです。彼に裏切られたにもかかわらず、警察官の前で彼を救います。その神父さまの行為は、この罪人を別人に変えました。
 私はこの話に感動して、その通りでなければならないと思いますが、この神父さまのまねをすることはなかなかできません。
 私の恥を申しあげると、以前東京から流れてきた浮浪者が、私のいる教会に深夜たずねてきたことがありました。私は自分の身の安全を考えて、彼をユース・ホステルに連れてゆき、宿泊代と食事代を与えて、私は彼から離れました。
 私は「レ・ミゼラブル」の神父さまのように、彼をもてなすことができませんでした。一夜の宿を請う浮浪者の姿に、イエスさまの姿を見ることができなかったのです。
 

主よ

「主よ、お望みならば」

ルカ福音書五章十二節から十六節に、らい病を患っている人が、イエス様の前に登場します。

 "「主よ、お望みならば、あなたは私を清くすることがおできになります」と言ってお願いした。"

 この言葉は、大変印象深い祈りです。まず「主よ、おのぞみならば」というのは、わたくしの望みよりも、神の望みであればという、謙虚な言葉です。次に、「わたくしを清くすることがおできになります」と続きます。これは、神への深い信頼感を示す言葉です。神の望みであれば、わたくしを治すことができる。でも、その判断は、神にお任せしますという祈りです。

 イエス様は聖書の中で、「信頼をもって祈りなさい。必ず神は答えてくれます」と何度もおっしゃっておられます。

 私はこの言葉を、よくこのように説明します。

 「あなたの思うとおりにはならないかもしれないが、わたくし(神)は、あなたにとって最良となるようにしますよ」と。

 長く教会で生活していますと、度々神に対する不平、不満を聞くことがあります。「祈ったのに、答えてくれなかった」とか、「赤ちゃんができるように祈ったのに、できなかった」等など。「神父さまの話される神様はいらっしゃらないから、聞いてくれるわけがない」とも。

 でも私の体験からいえば、神に祈った時、必ず答えがありました。どの場合も、私の思った答えよりも、ずっとすばらしいものでした。先程のらい病者の「神さま、お望みならば」という意味が、よく理解できたと思います。

 神は、父のように、母のように、我が子の望みをきいてくれますが、子供のためにならないものは、決してお与えになりません。子供はその時わからなくても、大人になったら、きっと親の愛情が分かるようになるでしょう。

 神の時間と、私達の時間とは違うと思いますが、聖書の中に、"一日は千年と同じ、千年は一日と同じ"と書いてあります。神の定めた時がくれば、私達の望んだものが与えられるに違いありません。

 教会の歴史の中に、有名な聖アウグチヌスの例があります。彼の母、聖モニカは、息子のために、30年間祈り続けました。30年後、親不孝の息子は、回心して、教会のために多くの活動をし、たくさんの名著を残し、聖人に列せられました。

 お祈りの時に、このようなことを心に留め、神を信頼し、自分を神に任せて見て下さい。

後悔

 私は長年「リーダーズ・ダイジェスト」を愛読していますが、考えさせられる話ばかりで、本当に良い雑誌だと思います。

 その中で、”還暦を迎えて後悔していること”というタイトルで、六十代の男性の書いた手紙が載っていました。

 その男性が、還暦を迎えてから、奥さんが死に、子供は結婚して、今は一人ぽっちになり、これまでのことを振り替えたときの思いです。

 結婚後一年たって、ある朝出かける時、奥さんに「今日は私たちの結婚記念日だから、早く帰ってきてください」と云われたが、仕事が忙しくその夜帰ったのは、十二時過ぎていた。

 長男が産まれそうだから、早く病院にきてほしい、そばにいてほしいと、家内に頼まれたが、忙しくて行くことができなかった。

 四人の子供に恵まれたが、その誕生の時に一度もそばにいてあげることができず、家内はどんなに淋しい思いをしただろうか。また父親として、この世に生まれる自分の子供を迎えることができなくて、とても残念に思っている。子供にわびたくても、過ぎてしまったことですから、無念でいっぱいです。
  子供の入学・卒業の度に、お父さんもきてほしいと頼まれたが、一度も参加できなかったことも、今はつらい思い出です。

 家内の具合が悪い時も、会社を休んでほしいと云われたが、仕事が大事と思い、どんなに家内を悲しませたか、今になってはじめてわかった。六十才で退職してから、朝から晩まで何もすることがなく、散歩しながら秋の葉が木から落ちるのを見ています。という内容でした。
 この男性の手紙を読んだ時、私はまだ六十才になっていませんでしたが、忙しいという理由で、私もたくさんの大事なことを粗末にしてきたと思いました。本音として過去に戻りたい思いですが、山から流れ出た水が戻らないように、過ぎた生涯も戻ってきません。
 日本人が一番多く使う言葉は「忙しい」という言葉です。文字を見ると、心を亡ぼすと書きますが、なるほど心の大事なことを失って、心の中がむなしさでいっぱいになります。
 聖書に有名な話があります。

 イエスは二人の姉妹の家に行きました。姉の方はもてなしで忙しくて、妹の方がイエスと話をしている場面ですが、姉の不満に対して、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み心を乱している。妹さんは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」と云われます。
 私達も多くの事に思い悩んで、そのただ一つの大事な事を失っているのではないでしょうか。
 それは心の平安と喜びです。
 
みことば

 私たちは毎日、新聞、テレビ、本などで、人が書いた言葉、又体験を見たり読んだりしていますが、それはあくまでも、人間の言葉、人間の体験であって、絶対的なものとは云えません。
 世界にある宗教は、それぞれ経典を持っています。人々はそこに書かれた言葉を神の言葉として大事に読んで、日常の糧としてきました。
 キリスト教はユダヤ教に基づいていますが、ユダヤ人に尊敬されているイザヤ預言者は、神から預かった言葉をこのように伝えてくれています。 
“雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。
 それは、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしの元に戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”
 (イザヤ55・10)

 神の言葉には生命があります。キリスト者も他の宗教の方々も、神の言葉をその心に受け容れたなら、神はすばらしい業をその人にさせてくれます。マザー・テレサは神の言葉を受け容れて実行し、素晴らしい光を世界中の人々に見せてくれました。
神の言葉は確かに生命があり、力がありますが、それを受ける人間の心の問題があります。

イエス様はマタイ福音書13章で、さまざまな人の心のあり方を説明しています。


石のように硬い心の人間は、神の言葉を聞いても無関心で 無感動なので、雨が石の上を流れるように その人の心の上を無駄に流れて 良い実を つけさせない。


二番目の心の状態とは、岩地のような心を持っている人です。岩と岩との間に水分が少しある状態です。神の言葉は種のようにその間に落ちて芽を出すが、すぐに枯れてしまう。種が実を結ぶためには、冬の厳しさも、春の雨も、夏の暑さも耐え忍ばなければならないのに、試練に遭うとすぐに負けてしまう人のことです。
三番目は、茨がたくさん茂っている土地に譬えられています。土地(人間)は良いのですが、世間的な誘惑にとらわれ、神の言葉を窒息させてしまいます。
四番目は、良い土地に譬えられています。土地を耕し、肥料を入れたよい土地に蒔かれた種は、春の温度で芽を出し、風に耐えて育ち、良い実を結びます。 


種としての神の言葉を、生かすも殺すも人間の心次第です。


 毎日神の言葉を聞き、観想しながら、御言葉を実行し、自分の周りに春のような緑いっぱいの場所をつくると、心の喜びを味わうことが出来ます。 

御言葉は、経典を通して私たちに語られただけでなく、今でも、自然の素晴らしさを通して私たちの心を動かし、他の人の言葉を通して、私たちに語られ続けています。 
 

結婚

 ギリシャ神話によると、ゼウス(ギリシャ人の神)は、人間をつくった時に、男と女をくっついたままでつくりました。男女が歩く時も、遊ぶ時も、いつでも一緒に行動するためです。しかししばらくすると、いつも一緒にいる二人は、退屈してケンカをするようになりました。

 神は昼寝の最中に、度々彼らのケンカで起こされたので、とうとう堪忍袋の緒を切って、大きな剣で二人を切り離しました。
 二人はやっと自由に自分の好きなことができると喜び、それぞれ遠く離れた自分の好きな所へ行きました。それで、しばらくの間神もゆっくり昼寝をすることができました。

 そのうち切れたところの傷が非常に痛くなって、有名な医者に診てもらっても治療ができない。とうとう男はなんでもわかるヘルメスという神の所へ行って、「どうしたらこの傷を治すことができるでしょうか。」とたずねました。ヘルメスは、「この傷を治すのはむずかしいが不可能ではない。神が切り離した女を捜し出して、切れた部分をもう一度女と合わせると治るよ。」と教えてくれました。どんな女でも良いということではなく、自分の肩から切り離されたその女でないと、あなたの傷をいやすことはできない。だから、世界中をまわって、その女を捜しなさい、と答えられたのです。

 愉快な神話と受け取られますが、その裏には深い意味があります。

 男と女は結婚しますが、自分に会う相手は世界中でただ一人だとギリシャ人も思っていたようです。つまり自分を幸せにするには、神に切り離された自分の後の半分を捜さなければ心が満たされないということです。
 司祭として長年務めているうちに、このギリシャ神話の通りだと思うようになりました。
 結婚して40年、一度もケンカをしていない夫婦を私は知っています。彼らに会う度に、私は「ケンカはまだですか」と聞くのですが、二人は笑って、「神父さま、なぜケンカをする必要があるのですか」と言われてしまいます。彼らは話さなくても、お互いが必要としていることがよくわかっているようです。四人の子供もそれぞれ独立しましたが、四人とも穏やかですばらしい人達です。

 私はこの夫婦をみると、結婚は本当に地上の天国だと思います。しかしこのような夫婦は少ないでしょう。神から切り離された相手ではない人と結ばれてしまうことが多いのではないでしょうか。
 釧路は離婚率が高いと聞いています。結婚が人生の墓場になってしまったから離婚したのでしょう。どんなにつらいことだろうかと思います。

 でもまじめに求めるなら、神はきっとその縁を現してくれるに違いありません。あわてる人は、神のつくった縁だと誤解してしまうのです。
 結婚しようとしている人は、まじめに縁を求めなさい。必ず神はあなたに見せてくれます。そうすればあなたは、この地上で天国を味わうでしょう。 
 
クリスマス

 毎年12月になると、世界中がクリスマスの雰囲気に入ります。
 クリスマスケーキ、クリスマスの歌、クリスマスプレゼント、サンタクロース、トナカイ等々。日本でもこれにあやかって、商売したりしますが、クリスマスの本当の意味を理解しているのでしょうか。
 そうです。クリスマスはイエス様の誕生日です。

二千年前に生まれ、キリスト教の創立者です。今はキリスト教以外の人でも、クリスマスを祝いますが、私にはそれがとても不思議です。
 例えば、お釈迦さまの誕生日を世界中で祝うでしょうか。
 キリスト者は、イエスさまは人間になった神だと信じているので、この日を盛大に祝います。それはキリスト者として、あたり前と思いますが、仏教徒が、たとえイエスさまを偉大な人として尊敬していても、なぜこんなに大騒ぎするのだろうか。私にはなかなか理解できないことです。
 インドのマハトマ・ガンジーは、イエスさまの「山上の垂訓」について、「人間の口からこれほどすばらしい言葉が出たことはなかった」と言ったそうですが、彼はキリスト教徒にはならなかった。キリストを人間の中で一番尊敬していても、神として認めていなかったのかもしれません。
 実は、クリスマスは、イエスさまの誕生日を祝うだけではありません。

12月25日は、メシアの第一の来臨を祝うと共に、第二の来臨の準備を始める日なのです。メシアの第二の来臨の時には、全ての民、全ての国が様々な違いを乗り越え、宗教を乗り越えて、平和で結ばれ、一つの神の民となると聖書に書かれています。
 ですからクリスマスは、このすばらしいことの完成を目指す始まりなのです。
 だからといって、全ての国がキリスト教になるという意味ではありません。宗教の違いは、今の時代では殺し合いや戦争の原因にもなっています。
 人間が皆神の子供であり、宗教によって差別する必要はなく、クリスマスは、その壁を乗り越える始まりで、すばらしい調和した世界が、メシアの第二の来臨の時代です。
 今年もデパートや商店街では、ツリーが飾られ、クリスマスのメロディーが聞こえてきます。
人間が皆平和で調和した世界を願っている しるし のように思えます。
 今日は山から帰る途中で、ポツンと建っている家の前にツリーが飾ってあって、赤や緑の豆電球が光っていました。戦争やケンカなどがなくなり、神の望んでいる世界が創られるようにとの願いをこめて飾ってくれたのかなと思いながら、私の教会に帰ってきました。 
 
毒麦のたとえ

 私たちは皆、理想的な家族、理想的な社会を目ざして努力しています。
 しかし、残念ながら現実は、離婚、家出、虐待、戦争等々、理想から離れたものとなっています。
 社会の中には、善人、悪人、無関心の人が混じりあって生活していますし、またひとりの人間の中にも、この三つが存在します。

 イエスさまは、「毒麦のたとえ」の中で、このことを私たちに指摘されています。
“ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

僕たちが主人のところに来て言った。

「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょうか。」

主人は「敵の仕業だ」と言った。

そこで僕たちが、
「では行って抜き集めておきましょうか」と言うと、

主人は言った。

「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」”
 

 子どもの頃、私も麦を蒔いて生活をしていたことがあります。毒麦は麦に似ていますが、石炭のように真っ黒で、毒麦を混ぜたパンはおいしくありません。
 はじめて聖書のこの個所を読んだ時、自分は良い麦だと思っていました。でも年を重ねるにつれ、時には自分も毒麦になってしまうということを実感しました。
 しかし、毒麦でも、すぐには神から抜かれないということ、収穫の時まで、良い麦になる時間が与えられているということは、ありがたいことです。死の瞬間まで、回心する時間が与えられていることは、神の恵みだと思います。
 毒麦でも、良い麦になるチャンスが、神から与えられていると思えば、他人を厳しく裁くことはできないでしょう。

 最近、ヨーロッパの人たちは、自分たちの社会の中に、テロリストが隠れているかもしれないという不安を抱いて生活しています。
 ロンドンでのテロは、西欧の人々に、さまざまな考えを起こさせました。アラブ人は皆悪いという人もいれば、そうではないと思う人もいるし、ヨーロッパ人も、アラブ人に、かつて同じくらい悪いことをしたと反省する人もいます。


 神さまは、ヨーロッパ人にも、アラブ人にも、同じく太陽を昇らせ、雨を降らせます。神の恵みは、どの人にも平等に与えられているのです。良い人も、悪い人も、話し合いによって理解しあい、死を迎えるまでに、皆、良い麦になるように生活を送りたいものです。
 

 

 

ヨハネ・パウロ2世の死

 四月二日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が死去され、世界中のメディアが、その死を大きく報道しました。

 葬儀には、200カ国以上の指導者が参列し、その中には、イランやシリアの大統領も、また宗教の違う人達も大勢いました。そのうえ、ヨーロッパ中から500万人の人々が、法王を慕ってローマにやってきました。

 日本人はこのニュースを聞いて、きっとローマ法王とはどんな人物なのかと、不思議に思ったことでしょう。それで簡単に法王の歴史を述べてみたいと思います。

 イエスさまの十二人の弟子の中で、最年長のペテロが、イエスさまの死後ローマ教会の指導者となりました。彼が初代の法王です。しかしペテロは、当時のローマ皇帝ネロによって迫害され殉教しました。

 紀元350年頃、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、熱心なクリスチャンだった母、聖エレナの影響でキリスト教に改宗し、この時ローマ帝国の殆どの人々がキリスト教徒になりました。ペテロの跡継者は、教会の指導者となり、イエスさまの代理者として認められたのです。当時は宗教的な活動しかしませんでしたが、しだいにローマ皇帝にも影響を与えるようになり、紀元500年頃には、皇帝よりも法王の方の政治的力が目立つようになりました。

 ローマ帝国の力は、東はインド、西はポルトガル、北はスコットランド、南は北アフリカにまで及んでいました。

 法王が宗教的権威だけでなく、世俗的な方面でも権威を持ち始めると、やがて教会の分裂が始まりました。ローマ皇帝は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に居住することになり、コンスタンティノープルの司教は、ローマの司教と対立し、第一のキリスト教の分裂が起こりました。東方教会と西方教会に分かれたのです。今で言えばハリスト教会とカトリック教会です。

 「教え」は殆ど変わらないにもかかわらず、最高指導者が二人になったのです。一人はローマ法王、もう一人はビザンティウスのメトロポリタです。

 1500年頃、ドイツ人の神父ルターは、神父の独身制度と免償符(Indulgentia )に反対し、ドイツ、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの政治家達に支えられ、教会の第二の分裂を起こしました。プロテスタント運動です。聖書を初めてドイツ語に翻訳し、自由に解釈するようになりました。その解釈によって数えきれない程の教会がうまれました。

 同じ頃、ローマ法王から「信仰を守る人」として指名されていたイギリスのヘンリー八世が、離婚の許しを求めましたが、法王はこれを拒否、そのためヘンリー八世は、イギリスの教会をローマから分離させました。これが第三の分裂です。

 ヨハネ・パウロ二世は、ペテロの跡継ぎとして、264番目の法王です。

 宗教を超えて、人種を超えて、人々に愛された法王でもありました。それは一言でいえば、彼が人々を愛していたからです。イスラムの指導者たちが、カトリックの葬儀に出席するなど異例なことです。

 26年間、120以上の国々を訪問し、病を抱えながらも、言葉よりも態度で愛を示し続けてきた姿が、人々に感動を与えたのでしょう。

 ヨハネ・パウロ二世は、"No more War"と訴え続けました。キリスト教の歴史の中には、戦争もありますが、彼はきっぱりと戦争に反対し、またイスラエル人は私達の兄です、と宣言しました。この二つが彼の行った革命です。

 私自身は、ヨハネ・パウロ二世は、神が私達に送ってくれた「平和の使者」、「愛の証し人」だったと思います。

 彼の心の清らかさ、目の美しさ、微笑に憧れて、彼を慕い愛しました。少しでも彼に近づきたいと思っています。
 

信仰

 ”神についての明確な考えをもつことによって、あなたと神との関係が形成されます。そしてその考えが、実際の体験に変わるまで瞑想し、祈りなさい。そうすれば、神を知ることができます。忍耐強く続ければ、神は必ずあなたの前に現れてくださいます。神は絶えず人々の心の中を探しながら純粋な真の愛だけを求めておられます。神は幼な子のように、我々がいくら財産を差し出しても呼んでも見向きもしませんが、ご自分に対する愛の呼び声にはすぐに駆け寄って来られます。

 神を求めるときは下心があってはなりません。ただ無条件の一途な不屈の信仰をもって祈るべきです。神に対する愛が自分の体に対する愛着と同じくらい強まれば神はあなたに来られるでしょう。
 

行動

あなたが積極的に善行を行うとき、もし、たえず神のことを第一に考えて行うならば、それによって神を知ることができるようになります。しかし、善いことをしているつもりでも、心の持ち方によっては、同時に悪を行っている場合があります。教会活動に熱心な司祭が、いくら大勢の信者を集めても。もし彼の心の中で、神に対する思いよりも、その活動に対する自己満足が優先していたら、神を喜ばせることになりません。
 あなたが自我の欲望を完全に捨てて、何事も神に対する愛をもってただひたすら神のために行えるようになったとき、神はあなたに来られます。
 何をするにも、それを始める前も、している最中も、終わった後も、神のことを考えているようになれば、神はあなたに来られます。この世に生きているかぎり、あなたは働かなければなりませんが、あなたを通して神に働いてもらいなさい。これが信仰における最も大切な姿勢です。歩いているときは、神が自分の足を通して歩いていると思いなさい。働いているときは、神が自分の手を通して働いていると思いなさい。何かを成し遂げようとしているときは、神が自分の意志を通して成し遂げようとしているのだと思いなさい。
 働くのも、食べるのも、歩くのも、泣くのも、笑うのも、瞑想するのも、ただ神のためにしなさい。これが最善の生き方です。こうして神を愛し、神に仕え、神と交わりながら生きるとき、あなたは真の幸福を感じるでしょう。
 ひとたび神を知れば、神はあなたの中で英知となって働き、至福となってときめき、あなたは今までになかったほど生き生きとし、成功するでしょう。
 私もかつてはあなたがたと同様、真理と幸福を地上に求めてさまよいました。しかし、そこで喜びを約束してくれたものは、どれも結局、失望をもたらしただけでした。そこで私は、それを神に求めることにしたのです。あなたがたも自分の内なる神性を発見して、自分で神の国を勝ち取りなさい。
 ヒンズー教徒のあいだにこんな言葉があります。
「子供は遊びに忙しく、若者は恋に忙しく、大人は心配事で忙しい、神に忙しい人のなんと少ないことか」
 

二つの道

 神に近づくには要約すると、二つの重要な道があります。
 一つは外面的な道であり、もう一つは内面的な道、すなわち霊的行為による道です。外面的な道とは、正しい行為による道、すなわち、絶えず神を意識しながらすべての人々を愛し、それに奉仕する道です。霊的行為とは、深層の意識を開発する深い瞑想です。
 目を閉じて、暗闇の背後に何があるかを探しなさい。そこが探検すべき場所です。
「光は闇の中で輝いている。闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1・5)
 霊的成功を得るために最も大切なことは、不撓不屈の意欲です。
イエスはこう言っています。”実りは多いが、働く者(努力して収穫する者)は少ない”(マタイ9・37)
 世間の人たちは神の贈り物を求めますが、賢い人は贈り主である神そのものを求めます。
 自分の魂のなかに、生ける神の聖所を建てること、これが人生の業績の中で最も重要なことです。ひとたびそこに到達した人は”もう決して外へ出ることはない”(黙示録3・12)
 神を見つけるためには、自分のすべての持ち物を喜んで捨てる(神に捧げる)人でなければ、神を知ることはできません。神を知ろうと志す人は皆、神のためにすべてを投げ出す心構えが必要です。イエスはゲツセマネで弟子たちにこの真理をわからせようとして、目を覚まして自分と一緒に祈るようにと言いましたが、弟子たちは疲れに負けて眠ってしまいました。そこで悲しそうに”まことに、心はその気になっても肉体は弱い”(マタイ26・41)と言ったのです。人間は操り人形のようなものです。習慣、感情、情欲、感覚などの糸によってそれらの操るままに踊らされています。それらが魂を縛りつけているのです。それらの糸を切り払って、自分を束縛から解放しようとしない人や、解放できない人は、神を見つけることができません。”ただ神の国を求めよ。そうすれば、これらすべてのものは添えて与えられる”(ルカ12・31)
 私は神を知るためにあらゆる誘惑を退けてきましたが、神は結局、私がこの世で欲しいと思ったもの、必要と思ったものをすべて与えてくださいました。しかし私はそれらもみなお返ししました。なぜなら、神はもっと大きな無限の贈り物をくださったからです。それらは昼夜を分かたぬ聖なる喜びです。その喜びのなかで、私の心に浮かぶ願望はすべて満たされてしまうのです。
 ”真の自己”の自覚とは、本から学び取られるものではなく、個人の体験によってのみ得られるものです。真理を悟るとは単に神学を理解することではなく、神を実際に体験することであり、これこそ、すべての宗教が信者たちに与えなければならないものです。イエス・キリストが経験した真理は、われわれもまたそれを経験しなければなりません。イエスは、決して一個の人間としてのイエスを礼拝せよとは言いませんでした。神との合一によって彼が経験したことを、人々もまた経験すべきであると教えたのです。その経験は、瞑想と、神の掟に従うことによってのみ得られるものです。イエスを神の子として礼拝するだけでは不十分です。我々は、彼の説いた普遍的原理を自分の生き方の中に取り入れて、少しでも彼に近づくよう努力しなければなりません。あなたがたは生まれながらに神の子なのです。ですから神の子らしく生きるべきです。
 人は自分の好きなことに時間を使います。しかし、神があなたに、遊んだり、読書したり、働いたりする力を与えられなかったら、あなたは何もすることができません。ですから、毎日の生活の中で、あなたの心の中をすべてご存知です。神をあなたの心の第一の座に着けて、何事もその指示に従って行いなさい。
 神を捕まえる唯一の方法は愛です。瞑想して、そのあと深くこう祈りなさい。「主よ、わたしはあなた無しで生きることはできません。あなたは、私の意識を働かせている陰の力です。わたしはあなたを愛しています。どうかあなたご自身を現わしてください』と。
 あなたが神を黙想するために睡眠をも犠牲にするとき、また、あなたの兄弟たちの中で苦しんでおられる神を見て、あなたが自分の利害を忘れて、それらの苦しみを自分自身の苦しみとして悲しむとき、神はあなたの中に来られます。
 神を知れば、悲しみも悩みも無くなります。あなたがかつて愛して死別した人たちとも、永遠の生涯の中で再び一緒になります。つまり、誰もがあなたの親族であり友人であることがわかります。
 神の美しさは広大です。花の美しさを楽しむのは良いことですが、その清らかな美しさの背後に、神の御顔を見ることはもっと素晴らしいことです。音楽を聴いても、だたそれに感動することと、その背後から聞こえてくる創造の御声を聴くこととでは比べ物になりません。神は万物に現れた美の中にも内在しておられますが、それらの形や有限性を超えた神(内なる永遠の自己)は、英知によって理解されます。
 ある偉大な聖者はこう言いました。「おお主よ、わたしどんな境遇に置かれてもかまいませんが、あなたを忘れるという罰だけは与えないでください」
 神を忘れさせられることほど大きな罰はありません。イエスも”片手を失っても、命に入るほうがよい”(マルコ9・43)と言っています。神と接すれば、すべての苦悩が取り除かれます。
 神の喜びのなかで生きる人々は死というものを知りません。この境地に達するには、ただ機械的に祈るだけでは不十分です。「神は自分の祈りを聞いてくださる」という信念を持って、その祈りの中に完全に没頭しなさい。このように愛と熱情のすべてを奉げて神に祈れば、神はいつでもあなたのうちに来てくださるでしょう。
 

祈り

 我々の努力は、経済的安定や健康の獲得といった外面的な問題だけではなく、もっと根本的な生命の意義を採り出すことにも向けられなければなりません。例えば我々は何か問題にぶつかると、まず状況から判断して有効と思われるいくつかの具体的な手段を講じて対応します。しかし、それらの手段がすべて失敗に終わると、そこで初めて問題の本質について真剣に考え始めます。そして、その思案が十分な深さに達したとき、答えが内から湧いてきます。これは一種の”かなえられた祈り”です。
 祈りは魂の要求です。神は人間を乞食にではなくご自身の似姿にお造りになりました。このことは、キリスト教の聖書も、ヒンズー教の聖典もはっきり述べています。金持ちの家に行って施しを求める乞食は、乞食の分け前しかもらうことが出来ませんが、そこの息子は、父から何でももらうことができます。ですから、我々は乞食のように振舞うべきではありません。
 神の力は誰の内にもありますが、どうやってそれを掘り起こすかが問題なのです。あなたがたは、今まで何度も祈りが叶えられなかったことに失望しているかも知れませんが、信仰を失ってはなりません。祈りが叶えられるために最も大切なことは、まず祈りの力に確信を持つことです。
 あなたの祈りが叶えられなかった理由は、あなたが乞食のような態度で祈ったためかもしれません。またあなたは、天の父に子としての正当な要求として祈りうることは何か、ということも知らなければなりません。物質的な願い事に関する祈りにはすべて限界があります。神は、気まぐれな欲望を満たしてやるためにご自分の掟を曲げるようなことはなさいません。祈りは正しい祈り方というものがあります。
 祈りを効果あらしめるための秘訣は、あなたの立場を乞食から神の子に変えることです。この神の子の意識で父に祈るとき、あなたの祈りには神の全能の力と英知が流れ込んでくるのです。
 イエスの祈りの中で、「私の願いどおりにではなく、み心のままになさってください」(マタイ26-29)と言ったのは、自分の意志を全く使わないと言っているのではなく、人は自分の意志を欲望の支配から引き離して神の御意志に従わせるべきだ、ということを身をもって示したのです。ですから、正し祈りを根気よく続けるのも意志を働かせているのです。
 あなたは、自分の祈りが叶えられることに確信をもたなければなりません。少しの疑いも持たず確信を持って続ければ、目的は必ず実現します。あなたの考えと行動の中にたえずそのような意志を働かせていれば、何らかの形で望みは叶えられます。そのような意志のなかに神の応えはあるのです。なぜならば、意志は神から来るものであり、絶え間なく働いている意志は神の意志だからです。
 神を知るには、自分で努力することが必要です。説教を聞いたり礼拝に参加すればあなたのうわべの心は満足するかもしれませんが、そうした形式的信仰をいくら続けても、あなたが自分の祈りに対して神から直接の応えが得られるようになるまでは、あなたの本心は決して満足せず、真の救いは得られません。神が応えてくれないような祈りは何の役にも立ちません。
 私は子供の頃、神に祈るときはいつも、「これは必ず叶えられる祈りだ」と決めて祈りました。このような決意が神の応えを引き出す秘訣です。途中であなたの決意を挫くような色々な試練がやってきますが、神があなたの祈りに応えてくださる方法は無限です。あなたの意志が強固でいつまでも挫けなければ、神は必ず応えてくださいます。
 あなたの意志の背後には偉大な神のご意志があることを忘れてはなりません。しかしその偉大な力は、あなたに受け入れ態勢ができていないと、あなたを助けることができないのです。
 あなたの意志が強まると、神はすぐに応えはじめられます。そして、神が沈黙の掟を破って優しくあなたの耳元にささやかれるのを聞いたとき、あなたは喜びを抑えることができないでしょう。
 神は、あなたが誠実で、純粋に神を愛しているときにのみ来られます。
 神は愛そのものです。あなたは神に嘆願する必要はありません。神の子として要求すればよいのです。ただ問題は、あなたがそれに必要な時間をかけるかどうかです。
 あなたにとって何よりも必要なものは神です。あなたが神と一つになれば、神はあなたのすべての欲望を満たしてくれます。とてつもない夢でさえも叶えてくださいます。
 祈るときの第一の法則は、正当な願い事だけをもって神に近づかなければならないということです。第二は、乞食のような態度ではなく、神の子として、「私はあなたの子です。あなたは私の父です。あなたは私と一つです」と言って願い事の成就を求めることです。深く祈り続けると、心の底から大きな喜びが湧いてくるのを感じます。この喜びが湧いてこないうちに、途中でやめてはなりません。あなたの心を完全に満足させるこの喜びが感じられたら、それがあなたの祈りが神に届いたしるしです。そうしたらこう祈りなさい。「主よ、これは私に必要な事です。私は、そのためにはなんでも喜んでします。そうかこの願いが成就するために、私が正しく考え、正しく行動するようお導きください。私はあなたから頂いた理性と意志の力を使って行動します。どうか私の理性と、意志と、行動とが、正しい方向に働くようお導きください」
 神は、決して遠く近づきがたい存在ではありません。神について語り合い、聖典に記された神の言葉に聞き入り、神を思索し、瞑想の中で神を実際に感じるようになると、それまで実在しないと思っていたものが実在するとわかり、逆に、それまで実在すると思っていたこの世界が実在しないことがわかってきます。このような悟りにまさる喜びはありません。
 神はあなたがたをご自分の家に連れ戻そうと一生懸命です。それは、神のほうにも、あなたがたに求めているものがあるからです。つまり、神は、あなたがたが自発的に神を求め、神にすがることを求めておられるのです。そうでなければ神は宇宙も人間もおつくりにはならなかったでしょう。
 神は、我々が神を愛し、最後には神のもとへと帰るように我々をおつくりになったのです。そして、神は、そのときを待ち望んでおられます。ですから、神の満足は我々の愛の中にあるのです。
 心をしずめ、祈って、祈って、祈りなさい。そうすれば天の扉が開かれます。
 神のもとへ急ぎなさい。常に神を意識して生きることほどすばらしい生きがいはありません。
 「私は毎日曜日、教会へ行っている」と言う人たちも、ほとんど何のために行っているのかわかっていません。説教が終わって「アーメン」と唱えると、もう次の日曜日まで教会のことは忘れてしまいます。愚かなこととは思いませんか?神と交わろうとしないで、何のために教会へ行くのでしょう。
 神は十分な熱心さをもって口説けば、必ず会うことが出来る。と聖者たちは言っています。しかし、その努力はすべて自分でしなければなりません。日曜日に教会へ行くだけでは不十分です。
 真の礼拝とは、静かに座って瞑想し、神に語りかけることです。
 神を求めるには、情熱と、孤独と、信仰と、根気が必要です。死はいつ来るかわかりません。片時も神から心を離してはなりません。神が一緒にいてくださると、どんなに必要と思っていたものも要らなくなってしまいます。この意識に入るとき、あなたは普通の人よりも健康になり、何をやっても楽しく、おおらかな気持ちですることができるようになります。つまらないものを求めるのはやめなさい。それらは、あなたを神から引き離すだけです。生活を簡素化して、王者となるための実験を、今始めなさい!
 

人生最大の冒険

 人間にとって最大の敵は自分自身です。個人的な敵や、国同士の敵や、バイ菌や、爆弾や、その他どんな脅威よりも、人は、間違いを犯す自分を恐れるべきです。自己の神性を忘れることや、悪習に押し流されることは、自分という敵を作ることです。人生の冒険に成功する最良の方法は、自分を”真の自己”の友とすることです。クリシュナはこう言っています。
「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」(バガヴァッド・ギーター6-6)
 人生の冒険でいちばん大切なことは、自分の心をしっかりと制御して、たえず神を受け入れられるように神と同調させておくことです。これが幸福と成功の秘訣です。
 神はあなたがたに、そんな悲しみや苦しみをも征服できる無数の武器を差し出しておられます。それは、神との霊交から手に入れることのできる英知という武器です。ですから、心をたえず神に同調させておくことは、色々な病気や悩みや災難を克服する最も簡便な方法です。
 われわれは、人生という森の中で、病気や悪習の落とし穴に何度も落ちながら、経験と困難を通して学ばせられている赤ん坊のようなものです。何度も助けを呼び求めては泣き叫びます。しかし、最高の救いは、神と同調することによって得られるのです。
 物質的手段だけに頼ろうとせず、むしろその背後に働いている神の力に頼ることが肝要です。
 常識に従って行動しながら、心では神だけを信じていなさい。何が起きても、「主よ、私を助けることができるのはあなただけです」という真理を自分に言い聞かせて確信しなさい。ですから何があっても恐れてはなりません。生も死も、自分の意識の居場所が移るだけです。
 神がつくられたものはすべて、われわれに、内に埋もれている魂の不滅性を掘り起こさせるための試練としてあるのです。それを克服することが人生の冒険であり、人生の唯一の目的です。そして、その冒険は人によってそれぞれ異なり、また、独特です。どんな健康的、精神的、霊的問題にぶつかっても、魂は生死を通じて不滅であることを思い出して、常に常識的手段と神に対する信仰をもって対処するように心がけなさい。
人は、人生の庭で子供のように遊びながら、病気や困難との戦いを通して、心を強く成長させていきます。あなたの心を弱くするものは、あなたにとって最大の敵であり、あなたの心を強くするものは、すべてあなたの味方です。どんな困難も笑い飛ばしなさい。神は私に、この人生が文字通りただの夢にすぎないことを見せてくださいました。あなたもその夢から覚めたとき、この人生を、喜びと悲しみの織りなす過去の夢として思いだし、同時に、自分永遠に神の中にいることを知るでしょう。
 

幸福の条件

 あなたの目標を、簡素な生活と高邁な思想に置きなさい。瞑想によって、あなたの意識を”常に存在し、常に意識し、常に新たな喜び”なる神に同調させて、あなたの内にある”普遍的な幸福の条件”をたえず保持しなさい。周りの条件によって自分の幸福を左右されてはなりません。どんな環境にあっても、自分の心の平和を保持しなさい。自己を分析して、こうあるべきと思う姿、こうありたいと思う姿に自分を変えてゆきなさい。ほとんどの人が本当の自己制御を知らず、自分では幸福を求めているつもりで、実は逆に、真の幸福の妨げになるようなことばかりしています。
 心の注意力をたえず神の至福の方に向けていなさい。そうすれば、何ものもあなたの心の平安を乱すことはできません。
 この世界には、すでに悪が満ちあふれています。これ以上悪を語り、悪を思い、悪を行なってはなりません。ばらの花のように、あなたの魂の甘い善意の香りを周囲いっぱいに漂わせなさい。だれもがあなたのことを、良き友であり、協力者であり、味方であると感じるようになりなさい。良くなろうと思ったら、自己分析をして、自分の徳性を伸ばしなさい。「自分の性質の中に、悪の忍び込む余地はない」と思いなさい。そうすれば、それはなくなります。あなたのする事を見て、あなたを神のような人だと感じるようになりなさい。光をあてれば、闇は自然に消えます。真理を学び、瞑想し、人のために奉仕しなさい。
 

微笑みの力

 常に活力を蓄え、バランスのとれた食事を摂り、ほほ笑みを絶やさず、幸福でいなさい。内なる喜びを見出した人は、自分のからだに、食べ物によってではなく、神によって生命エネルギーが補給されているのがわかります。内なる喜びを知った人は、神の無限の力に助けを求めることができます。ただし、この内なる喜びとは、心の底から自然に湧いてくる喜びのことで自分でむりに想像したり、うわべだけまねた喜びではありません。あなたの内なる喜びが本物であれば、あなたはほほ笑みの百万長者です。本物のほほ笑みは、体内のすべての細胞に宇宙エネルギー(プラーナ)を浸透させます。
 この心からのほほ笑みは、瞑想によって得られる内なる喜びから湧いてきます。あなたはそこに神の無限の力を見ます。そのような神の至福の中にあるとき、あなたは意識的に神の癒しの力を自分の体内に導入しているのです。

 永遠の癒しは神からきます。神の力を呼び起こすには、不断の信仰心と、祈り続けることが必要です。
 多くの人たちは、神に癒しを求めても、少しばかり試みてその効果が現れないとすぐに信仰心を失い、あくまでも神の助けを求めよう、という決意に欠けています。神の力にすがって離れない人は必ず癒されます。このような信仰者には、神は応えずにはいられないからです。これに対して、すぐにあきらめてしまう人にはこうおっしゃいます。「よろしい、お前がわたしを必要としないなら必要とするときまで待とう」と。

 人は、たえず不安に付きまとわれています。不安から解放されるには神と接触する以外に方法はありません。
 あなたの不安が何であれ、心をそれから引き離して、それを神にゆだねなさい。そして神を信じなさい。悪い状態がまだ現実に起きていないのに、今から苦しむのはばかげたことです。心配を捨てれば、あなたはすぐ自由になれます。癒しは一瞬のうちにも行われます。毎晩、眠る前にこう断言しなさい。「天の父がいつもわたしと一緒にいてくださる。わたしは守られている」と。不安や恐怖を捨てることが、健康への唯一の道です。そして、あなたが神との霊交に達したとき、神そのものがあなたの中に流れ込んできて、自分が不滅の魂であることを自覚するでしょう。
 神に意識を合わせていれば、すべての物事があなたと調和して働きます。
 我々は、とかく自分のことを第一に考えがちです。しかし、他人も含めた幸福を常に考えるべきです。一人一人が心からの善意をもってそうするとき、相互の思いやりの精神が広がります。もし1000人の集団で皆がそのように振舞えば、誰もが999人の友をもつことになります。反対に、もし皆が互いに自分の利益だけを主張し合って争えば、各人が999人の敵をもつことになります。
 愛の力によって人の心を征服することが、人生における最高の勝利です。いつも他人のことを先に考えるよう心がけなさい。イエスの偉大さもそこにあります。イエスは、世のすべての人々のために生き、そのために死にました。自分だけのために生きる人は、そんなに権力や栄華を誇っても、死ねばすぐに忘れられてしまいます。しかし、人のためだけに生きた人は、人々の心の中に永遠に生き続けます。”王の中の王”イエスは、短い地上の生涯では黄金の王座にすわることはありませんでしたが、その死後二千年もの間、何億という人々の心の、愛の王座に君臨してきました。これこそ最高の王座です。
 あなたがこの世に生まれたとき、あなたは泣き、周りの人たちは喜びました。
 しかし、今度あなたがこの世を去るときは、世の中の人々が泣いてあなたがほほ笑んでいられるように、この一生を人々のために働き、奉仕しなさい。このことをいつも心に留めて、自分のことよりも他人のことを先に考えるよう心がけなさい。
 この広い世界は、あなたがたが、神から授かった知性を使って神を知り、真の自己を知るためにつくられたのです。あなたが人生の目標をこの一事に絞ってそれを貫けば、その目標は必ず達せられます。
 もし神が、人の心にご自分の愛を植えつけられなかったら、あなたがたは愛というものを知らなかったでしょう。神ほど優しく愛に満ちた方はいません。だからこそ、われわれは神を求めるべきなのです。神はあなたがたに、ご自分を求めるように強制はなさいません。しかし、われわれが神から与えられた命や、知性や、からだの神秘さを考えてみれば、神を求める動機としては十分でしょう。だれでも、それを求める気を起しさえすれば、与えられ、救われるのです。ですから、その気を起しなさい。
 わたしがこの道を歩みはじめた最初のころは、わたしの人生はまだ混沌としていました。しかし、努力しているうちに、いろいろなことが驚きべき姿や形ではっきりと見えてきました。すべての出来事が神の存在を私に語りかけ、この世についても神を知ることができることを教えてくれました。そして、神を見つけたときに与えられた安心と保証のなんとすばらしく、また、大きかったことでしょう。神を知ったとき、ほかのものはもう何も問題ではなく、怖いものもなくなります。だから恐怖心を捨てて、人生の戦いに挑み、霊的勝利者になりましょう。

 心がいつも静かに安定しているということは、すばらしい性格です。われわれの人生は、次の三つの要素を三辺とする三角形で象徴されるようなものであるべきです。すなわち、心の安定と優しさを上の二辺とし、幸福を底辺とする三角形です。毎日、自分にこう言い聞かせなさい。「わたしは内なる平安の王座に座って、行動の王国を支配している平和の王である」と。
 忙しく働いているときも、ゆっくりしているときも、独りでいるときも、大勢の人の中にいるときも、心はたえず静かで平和でなければなりません。イエスは、われわれにその手本を示してくれました。彼はどこにいても、身をもって平和を表しました。そして、最後までそれを失わず、あらゆる試練を克服して見せてくれました。
 神は、あらゆる所に偏在して、すべての星や銀河を支配しておられますが、何ものにも妨げられません。神は、この世界のいたるところにおられ、しかも、この世界を超越しています。われわれは、神の似姿を反映しなければなりません。そのためには、瞑想に励み、それによってもたらされる平安をいつも保持するよう努めなければなりません。直覚の灯火を祭壇にともした瞑想の聖所には、不安をかき立てられる事もなければ、神経をすり減らして努力したり捜したりすることもありません。人は、最後には、神の平安によって建てられた内なる聖所に真の故郷を見つけて安住するのです。
 

平常心
 大きく分けて二種類の人がいます。世の中の暗い面ばかり見て悲観している人と、人生の苦労を笑ってやり過ごし、いつも積極的な考え方をする人です。何事も、あまり深刻に受け取りすぎるのは禁物です。誰もがもっと物事の積極的な面を見て互いに調和し合えば、世の中はどんなに素晴らしくなることでしょう。
 文明のジャングルの中で、近代生活のストレスの中であなたがたは試練を受けているのです。あなたが他人にする事は、すべてあなたに返ってきます。人を憎めば人から憎まれます。あなたが自分の不調和な想念や感情で満たすことは自分を破壊することになります。
 憎しみや怒りを捨てて、自分を迫害する者にも愛で報いなさい。怒りの火は自分を苦しめるだけです。腹が立ったら、すぐに鎮めなさい。歩きながら10か15数えるのも良いでしょう。また、何か楽しい事を考えて気分を転換するのも良いでしょう。穏便にしたい気持ちが湧いてきたらやり過ごしなさい。あなたが怒っている時、あなたの脳は加熱し、心臓の弁は重圧を受け、全身の活力は減退します。あなたの周りに平和と善意をまき散らしなさい。それがあなたの内にある神の似姿であり、あなたの本性です。あなたがそれを現わす時、誰もあなたを邪魔することはできません。
 究極的な意味で、すべてのものは心から発します。罪も心の中でつくられます。幼い子供達は裸で歩き回っても罪の意識は感じません。心の純粋な人には全てが純粋です。心の汚れた人には全てが悪いです。訓練されていない心は人生を台無しにしてしまいます。感覚の奴隷になった心は、あらゆる戦争や残虐や不正の元凶です。
 神があなたがたを、この感覚を持つ肉体に入れて、この世に送られた意図は、あなたがたに内面的な眼をそなえた魂として肉体と自分自身とを混同することなく、客観的にこの世の人生劇を楽しませるためです。神はあなたがたがそのように生きることを望んでおられるのです。そのためには順調な時だけではなく、困難の真っただ中でも心の統御ができなければなりません。
 あなたがこの普遍不動の平常心の境地を達成した時、あなたは魂の王となります。あなたの内奥が普遍不動ならば、たとえ肉体と心が活動していても、あなたは永遠不変なるお方と一つになります。
 

独創力
 多くの人が自分にそなわっている独創力のほんの一部しか利用していません。あなたの背後には神の無限の想像力が働いていることをたえず自覚して、断固たる決意で自分の道を進みなさい。
 たとえ百回敗れても、あくまで勝利に向かって突き進もうと決心しなさい。敗北はいつまでも続くものではありません。それは単なる一時的な試練にすぎません。神は、もともとあなたが内なる全能の力を発揮して、いかなる試練にも挫けず、この人生の舞台における崇高な役割を達成することを望んでおられるのです。
 どんな役を演じることになっても嫌がらずに聖なる監督の指示に従って、その役を立派に演じるよう努めなさい。そうすればたとえ小さな役でも人々に光を与えます。神の無限の力があなたを通して、この地上劇の一役を演じていることを自覚しなさい。
 

 

 

神は父か母か
 母親は皆“神の無条件の愛”の現れです。その完全な現れは聖母様ですが、人間の母親たちはまだ不完全です。私は世のすべての母親たちが全ての者を平等に愛する“神の愛”を身につけて、小さな人間的愛を聖母様のような純粋な“全てを飲みこむ愛”に高めることを祈ります。
私の母は私にとって全てでした。私の日々の喜びは全て母の存在という大空の中にありました。母が息を引き取った時、私は悲嘆のどん底に突き落とされてしまいました。私は母を最後の友として愛していたからです。母の慰めに満ちた黒い瞳は私にとって何物にも替えがたい慰難所でした。
 しかし、私がどこにいても、あらゆる所から――宇宙の隅々から――たえず私を見つめてくれている、あの黒い瞳に突然気がついた時の感動は、とても言葉で言い表す事ができません。あなたがたにも経験させてあげることができたらと思います。私のそれまでの悲しみは、その瞬間いっぺんに喜びに変わってしまいました。
 神があなたがたにいろいろな人間関係を与えられたのは、単に相手の表面的な姿だけを見ず、その意味するものを見ることによって、それを理想化させるためです。もし、あなたがたが、いつも自分の母を“聖母様の無条件の愛が人間の形をとってあらわれたもの”として見るならば、いつか母の死に遭遇しても慰めを与えられるでしょう。あなたの母は肉眼の視野からは消えても、いなくなったのではありません。今まで聖母様の代理として、しばらくの間あなたの世話をした後、連れ去られただけです。そして今は偏在の聖母様の愛の陰に隠れているのです。母を失ったと思っている人たちは、大空の彼方に隠れている聖母様を見つけるべきです。あなたの祈りは、まだ十分な深さに達していません。聖母様の応えが得られるまでは決してあきらめまい、という不屈の決意を求め続けなさい。もしあなたも私がしたように真剣に祈るならば聖母様は必ず応えてくださいます。そして、そこにあなたは失った母を見るでしょう。
 今、私は全ての女性を母として見ています。たとえわずかでも善良さを持っているならば私は彼女の中に聖母様を見ます。男性は皆、女性を母と見るべきです。女性を単なる情欲の対象として見る時、男性は最も大切なものを見失って、自分の中の悪だけを見ます。母としての女性の中には純粋さがあります。女性には男性を悪の落とし穴から救う母性本能が与えられています。それが女性の第一の役割で、女性は愛欲の対象としてつくられたのではありません。男性に対する女性の無条件の愛情ほど神聖なものはありません。いかめしい裁判官も家庭では妻にとって子供にすぎません。女性は聖母様の愛を現わそうと思ったら、世界中の人々に愛を感じなければなりません。他人を母性愛で元気づけることは女性が人に与えることのできる最高の恩恵です。
 神はこの宇宙を創造するにあたって、二つの相を現わされました。すなわち、男性的、女性的な相と、女性的、母性的な相です。
 あなたは目を閉じて広大な無限の空間を一心に思い浮かべていると、それに圧倒され、魅了されるようになります。そして、そこに純粋な知性だけを感じます。その星々も星座も何もない隠れた無限の領域、純粋な知性だけの領域が父です。そして、きらめく星々や銀河や花や鳥や雲や山や空など無数の美しい被造物を抱合する大自然が聖なる母です。大自然の中にあなたは美しさ、優しさ、柔和さ、思いやりなどに満ちた神の母性を見ます。大自然の美しさは神の創造的母性本能を現わしており、我々は大自然の中にある様々な善きものを眺めていると、自分の内に安らぎを覚えます。つまり、我々は自然を眺める時、そこに母としての神を見たり感じたりすることができます。
 ですから、神は父でもあり、母でもあります。キリスト教の聖書もヒンズー教の聖書も神の三位一体を説いています。すなわち、キリスト教では「父と子と聖霊」、ヒンズー教では「サット、タット、オーム」と言います。父とは神の知性としての相です。聖書は母としての相です。そして子は宇宙の被造物で、神の父性と母性の聖なる愛を表現する象徴、または原理です。我々は、その愛によって生まれた子供です。地上の家族の中に我々は聖なる三位一体の縮図を見ることが出来ます。すなわち、父なる神は父親の中に、聖霊、又は大自然は母親の中に、そして子なる神は父母の愛の結晶である子供の中にそれぞれ現れています。
 イエスは神を父として語りました。しかし、神を母として語る聖者たちもいます。神をその超越的相において父でも母でもありません。しかし、神を人間関係に当てはめて考える時、我々にとって神は父であり母でもあります。そしてまた無限の知性であり、無限の愛でもあります。
 神は創造活動の中で御自身を現わされる時、父親の性質の中にその知性を現わし、母親の性質の中にその愛を現わそうとされました。したがって、父親も母親も、神の性質の半分ずつが強調されているため、片方だけでは不完全なのです。
 母親は「子供を育てるには愛情で」と言います。多大な愛情表現も時には良い事ですが、甘やかしは子供をだめにしてしまいます。反対に厳しさもある程度は必要ですが、過ちを厳しく厳しく罰してばかりいると子供を間違った方向へ追い込むことになります。ですから、子供を育てるには神の二つの面が両親によってバランスよく表現されなければなりません。子供のためには両方とも必要なのです。また、父親は自分の理性を愛情で調節し、母親は自分の愛情を理性で調節するよう努めることが必要です。
 すべての父親も母親も潜在的には、みな神の父性的知性と母性的優しさの両方が与えられています。ですから、誰もが両方の特性を完成させるべきです。親はとかく自分の子供の欠点には盲目的になりがちです。子供の欠点を正しく見ることができない人の愛情には、どこかに欠陥があります。親たちは子供を無条件に愛すると同時に、子供の間違った考え方や行動に盲目にならないよう気をつけなければなりません。子供がどんな間違いを犯しても愛を忘れてはなりませんが、その間違いをかばって助長させてはなりません。間違いは間違いとして正し、子供が悪の落とし穴から脱出するよう助けてやるべきです。子供は親の間違った甘やかしの愛に対しては何の愛も返しません。 
 聖者と言われるような人たちは、自分の中に父性と母性の両方を発達させます。彼等は母親が子供に対して抱く愛情と同じ愛情を全ての人に感じることが出来ます。イエスが十字架の上で「神よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているか知らないのです。」と言った時の気持ちがそれです。自分をはりつけにした人達に、どうしてこのような愛を感じることができるのでしょうか。それはイエスが神の父性と母性の両方をそなえていたからです。イエスにとって自分を十字架に釘づけにした人達は槍をもった敵ではなく、自分のことを理解できない自分の子供だったからです。母親以外に誰がこのような気持ちを持つことが出来るでしょうか。母親は自分の子供に虐待されても、その子供の将来だけを心配します。イエスの中にそのような母性があったからこそ、「父よ、彼らをお赦しください。」と言う事が出来たのです。
 あなたも、自分の内に神の母性を育てれば、世界中の人々に愛を感じるようになります。また、もしあなたが聖母様としての神に懇願すれば聖母様はすぐにあなたの願いを聞いてくださるでしょう。それはあなたが聖母様の優しさと無条件の愛に訴えるからです。神は誰をも決して見捨てません。あなたが仮に罪を犯し、自分でもそれが救いようもない程の大罪であると認めた時、あるいはまた世間の人々から何の値打ちもない虫けらのような人間だと烙印を押された時でも、ちょっと立ち止まって聖母様のことを思い出しなさい。そしてこう言いなさい。そしてこう言いなさい。「聖母様、私はあなたの子供です。悪い子供でした。どうかお赦しください。」と。あなたが神の母性に訴える時、拒絶されることはありません。あなたはいとも簡単に神の心を溶かしてしまいます。しかし、もしあなたが同じ罪を重ねるならば神はもう助けてくれません。神に赦しを祈る時は自分の悪い行為を捨てなければなりません。
 母親の皆さん、あなたがたが自分の子供に与える無条件の愛を小さな親子関係の中だけに閉じ込めずに、それを聖母様の愛と理解にまで拡げて全ての人々に与えなさい。そうすれば、あなたの母性愛は地上の母親の限界を超えて、あなた自身も聖母様になるでしょう。あなたが世界中のすべての人々に対して真の母親の実感を持つようになれば、あなたにとって、もう他人はいません。そして、世界中の子供達を我が子と感じ、愛するようになるでしょう。人間同士のどんな愛も、その完全な姿は神の愛の中にあるのです。
 

「神の子」

 神は、我々子供たちの多くの願いをききどけてくださいます。
 
主は、全ての母の母であり、全ての父の父であり、全ての友の背後にいます。
もし、あなたがたが、主を誰よりも身近なおかたとして、片時も忘れなければ、自分の人生の上に多くの不思議を目の当たりに見るでしょう。

「主は、わたしと共に歩み、わたしと共に語り、わたしが主のものであると、言っておられる。」

もし、あなたが、瞑想によって少しづつ心を鎮めながら、どこまでも深く聖なる領域に入り込んでいけば、主はあなたと語り合ってくださるでしょう。

 人生に打ちのめされてはなりません。むしろ、人生を打ちのめしなさい!
 強い意志さえ持っていれば、どんな困難でも克服することができます。
 試練の真っただ中にあっても、こう断言しなさい----
 「危険と、”自分”とは一緒に生まれた。そして、この”自分”こそ、どんな危険よりも危険なのだ!」と
 こうして、この真理をいつも思い出しなさい。そうすれば、その効果がわかるでしょう。
 卑屈な姿勢で人生を歩んで はなりません。

あなたは神の子なのです!
 

「神を求めよ」

 神を知るためには、神を求める者の不屈の努力と、神の恩寵とが必要不可欠です。
神の恩寵を得るには、まず信仰者自身の神を求める熱意を、神に認めてもらわなければなりません。
神を喜ばせることは、大そう易しいことであり、また、難しいことでもあります。
神は信仰者を試練の中に置いて、常に彼らを試しながら、彼らと戯れています。

どんなに失望しかけても、「神は必ず来て下さる」と信じなさい。
たとえ、神が何も応えてくださらないように見えても、決して疑わず、あくまでも辛抱強くこの聖なる探究を続けなさい。
忍耐は、霊的成功を得るための魔法の鍵です。

この世界は、ただの夢です。神だけが真実の存在です。

我々は、どんな試練や誘惑に出会っても、神を忘れられずにいられるよう、常に祈るべきなのです。
我々は、神をよそから手に入れたり、戦って勝ちとる必要はありません。すでに自分の内におられる神に気付けばよいのです。
しかし、それには、心の中から神に反する要求を完全に追い出さなければなりません。
 

「神こそ喜び」


 瞑想中の魂は、心の深い次元で互いに出合い、神の中で喜び合います。

我々は、他人のためにも自分のことのように尽くすべきです。

心の中から全ての雑念を追い出して静寂に入ったとき、聖なるキリスト意識があなたを訪れるでしょう。
我々は、イエスの精神に完全に従えるようになったとき、内なるキリストの存在を毎日経験するようになります。
イエスに現れたキリスト意識は、彼が世にあったわずかな一時期を照らす光ではなく、あらゆる世紀を照らす永遠の光です。

神は、あなたが何を考えているか、よくご存知です。あなたの神に対する愛が真剣ならば、神は必ずあなたにみ姿を現わしてくださいます。

神を喜ばせることだけを考えなさい。神に認めていただくことです。

信仰は、神の注意をひくための一つの献げものです。神はどんな高価な贈り物にも、また約束にも動かされませんが、甘い信仰の香りのする生命の花園には引き寄せられます。あなたの信仰の香りが、あなたの心のバラから絶え間なく匂いでるとき、さしもの神も来ずにはいられなくなるのです。

どんなに心が乱れて神から離れても、また、神から見放されたように見えても、着実な足取りで信仰の道を歩み続けるならば、あなたは必ず神の安らぎの住みかへと導かれます。
どんなに遠くにさまよい出ても、信仰さえ失わなければ、神のもとにたどり着くことが出来ます。取り返しのつかない人生などというものはありません。

神さえ手に入れれば、他の者はすべて添えて与えられるでしょう。
あなたを救うものは、あなたが耳で学んだことではなく、その中からあなたが実行して身に付けた事です。
決意と熱意を込めて、大空が揺れ動くまで神に祈りなさい。

そして、祈ったあとは、神にすべてを委ね、決して神の助けを疑ってはなりません。
 

「光と喜びの神」

 あなたが、すべての中に遍在している神を知り、自分自身を神の霊として自覚するとき
陸も 海も 空も なくなって、全てが神の霊として感じられるようになります。

神への目覚めは、謙虚さと 愛と 祈りの 喜びの中で始まります。

神は、真剣に求めさえすれば、誰でも必ず見つけることが出来ます。
神を 愛したい 神の国に入りたい 神を知りたい  と心から願う人は、必ず神を見つけることができます。

それには

昼も夜も神を思い、その願いをもっともっと育ててください。

そうすれば

神はあなたの愛を受け入れ、あなたとの約束を果たし、いつでもあなたと共にいて
永遠の喜びと幸福を楽しませてくださるでしょう。

すべては光です
すべて喜びです
すべては平安です
すべては愛です

そして

神こそ すべてです!
 

「心の中の教会」

 神が最も愛しておられる教会は、ご自分の信者たちの心の内に建てられた

「静寂と平安」という教会です。

あなたがたも、この美しい礼拝堂に入るときは、いっさいの不安や心配事持つ必要はない。

「神は忍耐強くて憐れみ深い方なので、私たちをありのままで受け入れてくださる。」

母親が泣いている我が子を暖かい胸に受け入れて慰めるように
神は私たちを、その御胸に抱いて慰めてくれるのです。

まず、あなたの内に、美しい平和な 「心の教会」 を建てなさい。
そうすれば、あなたはその魂の祭壇の上に、神がおいでになるのを見るでしょう。

あなたが生れる前から、ずっとあなたと一緒にいて、あなたを見守ってくれていたのは? 誰だと思いますか?
それは神です。
また、あなたがやがてこの地上を去るとき、あなたと一緒にいてくれるのは? それも神です。

しかし、その時、神が一緒におられることを自覚するには、今のうちから神と親交を結んでおかなければなりません。

神は、あなたが真剣に求めさえすれば、必ず見つかります。

この世界にあるものは、すべてあなたを神から引き離そうとして誘惑するものばかりです。
しかし、神は地上のどんな誘惑よりも魅惑的です。
神は、深い祈りと、強い決意で求めれば 必ず見つけることができます。
あなたの心が、神以外のものを求めて彷徨っている間は、神はおいでになりません。
神は来たくても、あなたがそれを妨げているからです。
あなたが、この世的な楽しみを求めたり、テレビやおしゃべりに夢中になっている間
神は

「子供よ、では遊んでいなさい。」

と言うでしょう。

ほとんどの人は、宗教を家の伝統行事か、社会慈善行為か、道徳的慣習 くらいにしか思っていません。
彼らは、宗教の重要性について少しも考えたことがありません。

求道者も信仰者も、その目的は、まずなによりも神を見つけることでなければなりません。
お金や健康を第一の目的とすることは、宗教の本道ではありません。
人はどんなものでも、実は神を通して、それを手に入れています。
しかし、神以外のものを先に求めようとすると、限界に突き当たります。

神との霊交を忘れた宗教は、宗教としての生命を失ったものです。
教会はダンスや映画、にぎやかな宴会のための場所ではありません。

教会は、神との霊交の場です。

それが、宗教の真偽を決める基準です。

宗教的講話や説教は、あなたがたの内に、神に対するやむにやまれぬ憧れを呼び起こすことが目的なのです。

教会は、神との霊交という密で満たされた、信仰深い蜜蜂たちの巣箱であるべきです。
 

「すべての幸福は神の中にある」

 誰の人生も、みな新しく独特なもので、人はみな創造的に生きなければなりません。
しかし、どの人生にも、その背後には神の沈黙の声があります。
それは花々や、聖典や、私たちの良心を通して、また、あらゆる美や、私たちの人生を有意義にするすべてのものを通して、私たちに呼びかけています。

しかし、ほとんどの人が、世俗的な事柄や、悪い習慣に押し流され、魂の自由を奪われ、幸福を破壊しています。
今、与えられているもので幸福になることを学んでください。
神が与えてくれた以上のものを望んではなりません。
神は、あなたが必要とするものを、あなたよりもよくご存知です。

人生の目的は、神を見つけることだというと、多くの人は納得できないかもしれませんが、人生の目的は幸福を見つけることだという考えには、誰も異論はないでしょう。
実は、神こそ幸福なのです。
神は至福であり、愛であり、あなたの魂から決して離れることのない喜びなのです。

神だけを求める心構えが確立すれば、神は必ず来られます。
しかし、ほとんどの人がその価値を知らずに、彷徨い苦しんでいます。
ですからイエス様は
「実り(神との霊交から得られる収穫)は多いが、働くもの(そのために努力する者)は少ない」(マタイ9-37)
と言ったのです。

神と共に歩む道は、最も楽な道です。
まず神の所へ行って、自分は、どうすることが一番良いかを尋ねることが最善の道です。
神は現実におられ、あなたがたを待っておられるのに、どうしてつまらない事に無駄な時間をつかうのですか?

いくら良い説教を聞いたり、聖典を読んだりしても、それだけで神を実際に体験することはできません。
読んだり、聞いたりした知識を実行しなければなりません。
教会へ来たら、自分の内に神を感じなければなりません。
イエス様は、「人のいない所で神に祈れ」と教えました。
外界の刺激を隔離した内的静寂の中に入るとき、あなたは聖霊を経験することができます。

神と一つになるために努力し、深く神を愛し、隣人を自分と同じように愛することを学んでください。
健康、経済、結婚、道徳、霊的、それらあらゆる問題は、神と交わり、神を知ることによって解決されます。

真の幸福は、あなたが神との一体感を感じたとき、自分が神の子であることを自覚したときに訪れます。
何が起きても、心が神から離れないようになれば、あなたは計り知れない喜びを平安を見つけるでしょう。
 

「人生の目的」

 私たちは、神の御意志によってこの地上に生れてきました。
そして、神は私たちに、自分の意志によって生きる自由を与えて下さいました。
私たちは、全能の主のご意志にそって生きることを学ぶべきです。
私は毎朝、神に、神が私に望んでおられることを示して下さるようお願いします。
そうすると、神が私の手や脳を通して働かれるのが解ります。

これこそ、あなたが頼りにすべき力です。
その力を通して、あなたは導きや、幸福や、力や、自由を得ることができます。

神に対する義務を忘れさせるような義務は、すべて取るに足りない義務です。
それらはあなたを惑わせるものです。
神こそが何よりも大切なものであることを悟り、自分の人生を、ただ神を喜ばせるために使うようになるまでは、あなたは決して霊的に進歩したとは言えません。

人生の唯一の目的は、神を見つけることです。
今すぐキリストの「まず神の国を求めよ」という教えに従いましょう。
神を見つければ、神があなたのとるべき道を教えてくださいます。

無知(霊的な無知)は、身体の奥にまで浸透した毒素のようなものです。
無知のために、私たちは、神の似姿に創られた自分の本性を見失っています。
まず、絶えず神に語りかける「不断の祈り」によって、主があなたになにを望んでおられるのか尋ねなさい。
主のみ心に従うことほど大切なことはありません。

あなたを奴隷のように操って、「あれが欲しい、これが欲しい」と思わせるのは、あなたのエゴが命じる欲望です。
あなたの宿敵であるエゴの指図に従ってはなりません。
それよりも、あなたの唯一の友である天の父のご意志に従いなさい。

「勝利を得る者をわたしの神の宮の柱にしよう。彼はもう決して外へ去ることはない」(ヨハネ黙示録)

毎日神にこう言いなさい。
「私はあなたのために働いています。あなたがいつ私をお召しになろうとも、用意はできております。私はあなたの子供です。」と。

最高の恋(ロマンス)は、無限なるお方とのロマンスです。
それによって、人生がどんなにか素晴らしくなることでしょう。
あなたが、ある日突然、至る所に神をみつけたとき、そして、神があなたに話しかけ、導いてくださったとき、あなたと神との 聖なるロマンス が始まるのです。
 

「二つの戒律」

 「心をつくし、魂をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10-17)

この二つの戒律は、宗教の目的のすべてを要約しています。
もし、あなたが真に神を愛するならば、あなたは真理に基づいた行為のみを行うようになるでしょう。
あなたの神への愛が、神の言いつけに背くことを許さないからです。


「心をつくして神を愛する」 とは
あなたに、あなたの家族や友人を愛する力を与えられたのは神です。
愛する力を、地上の親しい人たちを愛するために使いながら、神を愛するために使わない、という法はありません。
あなたは、こう言えるようになるべきです

「主よ、私は、父が子を愛するように、恋人が恋人を愛するように、友が友を愛するように、主人が使用人を愛するように、あなたを愛します。なぜなら、あなたは私の父であり、母であり、友であり、主人であり、恋人だからです。」と

あなたが心をつくして真に神を愛するとき、昼も夜も、神に対してこのような愛を感じるようになります。
あなたが神に無条件の愛を捧げるとき、神はあなたの心をご自分の愛で満たしてくださいます。
それは、すべてのものに対する無条件の愛で、とても言葉では言い表せないほどの愛です。

「魂をつくして神を愛する」 とは
あなたがたは、自分の魂を自覚するまでは、この戒律を実行できません。
自分を魂として意識するとき、あなたは自分の中に神の存在を発見します。
池の水面は、波立っているとき、はっきりした月を映しません。
水面が静まり平穏になると、完全な月の姿を映します。
それと同様に、あなたの心の動揺が収まって平静になると、魂の姿がはっきりと見えてきます。
魂としての私たちは、神の反映です。
瞑想によって、心の水面から雑念の波を取り除いたとき、神の完全な似姿である魂が現れ、魂と神とが、一つである、と自覚できるのです。

「力をつくして神を愛する」 とは
これは、あなたのすべての力、すなわち意識のすべてを、その源泉である神の中に引き上げよ、 という意味です。

「思いをつくして神を愛する」 とは
神に祈るときは、あなたの注意力を完全に神に向けなければなりません。
晩のご馳走や、仕事のこと、欲しい物、心配ごとなどを考えてはなりません。
神は、いつもあなたの心の中を見ておられます。
神に祈るときは、自分の思いを神に釘付けにしなさい。
このような完全に鎮静した集中状態に達すれば、何をしていても神の思いの中に浸っているようになり、昼も夜も、そうして過すようになります。

「隣人を自分のように愛する」 とは
普通の人は、このように他人を愛することができません。
「わたしが・・・」、「わたしに・・・」、「わたしの・・・」といった、自己中心的な自我意識のために、自分や他人の中に、あまねく内在したもう神を見ることができないからです。
宗教の本来の目的である、「神との霊交」を体験すれば、神こそ真のあなた自身であり、神がすべてのものの中に平等に内在していることがわかるでしょう。
そうすれば、すべての人が、唯一の存在である神の一部として見えてきます。
そのとき、あなたは本当に、他人を自分自身として愛することができるようになるのです。
 

主よ、私の手を使ってみ業を

 誰もが心の中で、たえず次のように祈るべきです。

主よ、私の手を使ってみ業を行ってください。
この手はあなたのために働き、あなたの聖所を飾る花を摘むためにつくられたものです。

私の目は、きらめく星々の中に、また、敬虔な信者たちのまなざしの中にいます。あなたを見るためにつくられたものです。

私の足は、至る所にあるあなたの教会へ私を運んで、信者たちに語られる、あなたの説教の甘露を飲むためにつくられたものです。

私の声は、あなたのことだけを語るために作られました。

私の舌は、健全な食物を味わって、万物を育てておられるあなたの慈愛を思い出させてくれます。

私の鼻は、花の香りを吸い込んで、そこにおられるあなたの芳香を味あわせてくれます。

私は、私の思いも、感情も、愛も、すべてあなたに献げます。
私のすべての感覚器官は、永遠の宇宙交響曲のリフレインを奏でているあなたの喜びと、美と、香りの聖なるオーケストラに聴き入っています。

私を闇から光へ導いて下さい。
憎しみから愛へ導いて下さい。
限りある力から、あなたの無尽蔵の力へ導いて下さい。
無知から英知へ導いて下さい。
死と苦しみから、あなたの中にある永遠の生命の喜びへ導いて下さい。

そして何よりも、人間的執着の迷いの中いる私を引き上げて、
あらゆる人間という形の中に隠れている私を見つめておられるあなたの永遠の愛を悟るように導いて下さい。

私がいつもあなたの意識に目覚めていますように。
そして、この放蕩息子の私を受け入れて、永遠の喜びという、ご馳走で、私をもてなして下さい。
 

 

 

神と皇帝
ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりを捉えて、罠にかけようかと相談した・・・。そして、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えてください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22・15-21)
収入に対して国は私たちに税金を納めさせるのです。イエスもその弟子も税金を支払っていました。教会は、信徒に良心的に税金を支払うように指導しています。
どんなところに税金が使われているの?わたしたちが暮らす社会の中には、税金が使われているものがたくさんあります。道路や下水道、私たちの生活に水を引くこと、お巡りさんの交番、子供の為の教育関係の建物、医療関係の設備等々ですね。
給料に対して沢山の税金が課されると、国に対してあまり良い気分がしません。
ユダヤ人が自分の国を侵略しているローマ人に税金を支払うのは、特に抵抗を感じていました。敏感な課題についてイエスを訪ねるのは、彼を罠に掛けるためです。「支払わなくても良い」と言ったら、ローマ人に彼を訴える。「支払うべきです」と言ったら、ユダヤ人に嫌われる。どっちにしても、逃げる道がないということです。
神の子イエスは見事、また意味深い答えをします。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」つまり国に税金を支払うべきです。しかし、神様にも税金を支払うべきだとイエスは主張します。私たちは持っているものを全部ただで神から頂いたのです。命を始め、様々な才能、健康、子供、その上、生きていく為に私たちに必要な、空気、太陽、雨などですが、私たちはそれらのものは当たり前の恵みと思って、感謝する事を忘れてしまいます。
旧約聖書の中にヨブ記が載っています。ヨブは正しい人で、富や素晴らしい家族、沢山の家畜や、健康、優しい奥さんに恵まれ、幸せでした。神に試されて、一度に全てを失いました。最後に重い皮膚病を患って奥さんから離別されました。
名誉も富も失って、”ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。”(ヨブ記1・20-22)
何もかも神から授かったので、それを神から奪われても神に感謝する事こそ真実の礼拝です。
 

神の国
フランシスコ.サビエルは1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。「カトリック教会」は、「天主公教会」とギリシャ語の「カトリケ」の文字から由来しています。「カトリック」よりも、もっと解かりやすい意味があります。つまり「神様の家は皆の為の家」ということです。どんな町にも気軽に入れる公園があり、入る為に何の条件も付いていません。子供や大人、健康な人病気な人、善い人悪い人、世界の五つの大陸の人間は安らぎを求めて平等に入れるのです。今日のマタイ福音書22,1-14は、神様の家には、披露宴が準備されていて、世界の人々は皆そこに招かれているのです。披露宴と言ったら、楽しい一時を想像します。人々は皆綺麗な服を着て、御馳走を食べたり、歌を歌ったり、酒を飲んだり、また久しぶりに再会する人など、毎日の苦労や苦しみ、心配などを忘れることができます。イザヤ預言者は、こういう楽しい一時を紀元前740年に今日の第一の朗読で見事に描いています。「万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。」(イザヤ25,6-10)イスラエルを始め、多くの人が神様は皆の神ではなく、自分だけの神だと出張しています。それで他宗教の人を差別したり、憎んだり、殺したりします。イエスは、「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは徴税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5、43-48)と言っています。残念ながらカトリック教会も時代と国によって、この神の家の門の敷居を高くして、それを跨る為に、いろいろな条件を付けて神の家に入る人を差別しました。イエスは無条件に誰でも、たとえどんなに罪深い人間であっても、ご自分の家の披露宴に招くのです。それは有難いことであって、感謝しなければならないことなのです。
 

披露宴に招かれた
「一人がイエスに言った,神の王国で祝宴にあずかる人は幸いです!
するとイエスは彼に言った,ある人が盛大な晩さんを設けて,大勢の人々を招いた。晩さんの時刻に自分の召使いたちを遣わして,招いておいた者たちに言った,『おいでください。もうすっかり整いましたから』。彼らは皆,いっせいに言い訳をし始めた。
最初の者は彼に言った,『畑を買いましたので,見に行かなければなりません。どうぞお許しください』。
別の者は言った,『五くびきの牛を買いましたので,試しに行かなければなりません。どうぞお許しください』。
別の者は言った,『妻をめとりましたので,そのために参ることができません』。」(ルカ14,15-24)
イエスは『神の国』について例えで何回か語った。
今日の例え話で神の国は披露宴に ただで 招かれた人々にたとえられていると。恩返しやお金もいらないので、皆さんは楽しいパーテイにくるようにと。「ただの物の程 高い物はない」と恐れて、言い訳をつけて招待を断る。「盛大な晩さん」にただで参加する事は恐れていたでしょう。
ある人が息子は結婚するので、盛大な披露宴を開いて知人や友人を招いて一度しかない出来事に招きます。招待されるのに嬉しいはずなのに、3人とも事情があって気軽に断ってしまいます。一人は畑を買ったので虚栄心強くて、みんなさんと並べて楽しむよりも畑をを見て自慢する。
も一人は五くびきの牛を買いましたので商売で忙しいので祭りの為に時間を無駄にしたくない。
3人目は妻をめとりましたので,妻を祭りに連れて行きたくない。この方は利己主義で、。結婚した慶びをほかの人と分かち合いたくない。3人とも自分を優先にして、祭りに参加する人と主人に対して傲慢と不遜の態度をとっています。
もしイエスは「外国から商売の話を持ってくる人が来るので良いチャンスだ」と言ったらきっとその3人は断らなかったでしょう。無理ありにでも時間を作ったでしょう。
ただで参加して、名前もない人とテブルを囲むのが自分のプライドは許さなかった。自分を中心にして生活している人は、利益がなければ手を出さない。
私たちのつらい体験から「現実的な」態度が出る。諺にもあるように:「人を見れば、泥棒だと思え」とか「贈り物は大きすぎると聖人でさえ疑う」。だから神様の無条件の愛までも疑う。神様の祭りに招待された時。私たちも自分の狭い自我から出るよりも心の扉を閉じて、神と他人とも関わりたくないのです。楽しいパ-チィよりも狭くて暗い、また不安でいっぱい自分の家に閉じ籠(とじこも)るのです。
 
僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14,22-25)
イエスは私たち同じ事をします。辛い経験、試練や失望等を通して無理ありにでもパ‐チに入るようにしてくれます。披露宴を既にイエズは全部支払ってくれました。私たちは自分の救いを買うことができません。それは神様の大きな贈り物です。
十字架を眺めながら「主よ、私はいろいろな事情があります。でもあなたの招きを優先にします。あなたは高い値段で披露宴を支払ってくれました。安心して披露宴に入ります」と感謝のお祈りをします。
 

主の変容
信徒の信仰を深める為に、教会の中で色々な運動や活動が生じました。その中で「夫婦の錬成会」があります。80年代~90年代に、特に全世界で盛んに行われていました。4日-3夜家庭から離れて、子供の世話を友人に任せて、人里離れた集会場で、3組の夫婦の指導の下で、多くても7組の夫婦で自分たちだけの時間を設けます。食べる事も時間も気にしないように、時計を会場の玄関で預かって、帰る時に戻されます。一人一人に一冊のノ-トが渡され、3組の夫婦の話を聞いてから、それぞれ、自分が感じたことをノ-トに書いて、配偶者と交換をします。長い間夫婦の生活を送ってきたのに、全然解からない相手の面が出て来て、驚き、悲しみ、喜び、愛が生じるのです。あるいは婚約をしてから、相手の事を少しずつ知るようになるのです。忍耐があれば、相手の心の扉も開きます。
イエスの弟子達が、最初はイエスの外面的な面に引かれて、何もかも捨てて、彼について行きました。イエスが、重い皮膚病の人を癒したり、一人の女の死んだ子供に、命を取り戻して上げたり、海の嵐を静めたりすると「この方はいったい誰だろう」と、毎日新しいイエスの姿を眺めるようになり、「きっとこの方はイスラエルを救う方だ」と思うようになったのです。しかし、「一番偉い者は皆に仕えなさい」「私の弟子になりたい人は、自分の毎日の十字架を背負って私についてきなさい」「人の子は死刑の宣告を受けて、十字架に貼り付けられて、死んで、葬られ、復活する」と聞いた話は受け入れ難いことでもあり、理解できませんでした。
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。』ペトロはどう言えばよいか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。』と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ9:2,10)
多くの人はカトリック教会の信徒に引かれて教会に通うようになり、聖書を通してイエスに出会って、洗礼を受ける事になります。純粋な信仰と理想高く、教会の中で色々な活動をしますが、そのうちに躓いたり、信徒に傷つけられたり、孤独に陥ったり、がっかりする事も少なくないでしょう。しかし、「忍耐があれば扉が開く」のです。私たちは、イエスの弟子達のように『この言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。』ことを、思い巡らすようになるのです。死んだはずだったイエスが復活なさったように、試練を経て私たちも喜びを味わうでしょう。夫婦の姿やイエスの姿、教会の姿のように、私たちの姿も変わっていきます。それぞれの良い面、受け入れ難い面、全ての姿を受け入れることが大切なのです。
 

生と死
「吟味されない人生は生きるに値しない」と有名な哲学者ソクラテスは言いました。彼は紀元前470年から399年ギリシヤのアテネで生きた人です。哲学者の中で最も優れた人と言えるでしょう。
 当時のアテネの政治家を始め、宗教家や一般の人までの偽善的な行為、無学、うぬぼれ奇抜な比喩、気まぐれなど、心に隠れた臭いものをむき出して、公にさらしていました。
同時に敬虔、正義、正しい振る舞い、善徳等を身に着けるように、若い人を始め、平凡な人にまで薦めました。大勢の人、主に若い人は彼に憬れて彼の弟子になっていました。
権力者や宗教家は、ソクラテスが青年を堕落させ、国の宗教の教えと外れた事を教えたとして、国家にとって危険人物だとして訴えました。彼らは、ソクラテスを逮捕し、死刑の宣告を下しました。ソクラテスの家族と友人は彼を救う為に有名な弁護士を雇ったり、お金を集めたりするなどしたにもかかわらず、彼は全て断ってしまいました。
ソクラテスは人気者であったので、権力者は彼に逃げ道として他の町への追放も提案しましたが彼はそれも断りました。「私がアテネの法律で死ぬのは正しい。しかし、自分の訴えた事や教えた事も正しい」と言ってHemlock(ドクニンジン:猛毒性のヨ-ロッパ産の植物)を飲んで死にました。
アテネはその後、ソクラテスを真理の殉教者として認めるようになり、信仰の違い等で二度と人を裁かないと決めて、もっとも優れた共和国となり、他国の模範的な街になりました。
 


ギリシャ語では、「愛」を三つの言葉、意味によって表すことができます。
1.エロス(自然の愛)             
家族のメンバ―を繋ぐ愛:夫婦や親子、親戚、祖先、墓参り、仏壇等。
国家と国民を繋ぐ愛。国の文化や伝統、習慣を守る種民。  
同じ種族の人との繋がり:白人や黒人、アジア人等。
2.フィリア(ギリシャ哲学者プラトノ説の愛)
気心が合う事、好悪の感情に左右される事、引かれる気持ち、好意をかち取る、親和性、親近感等。ここから友達同士または敵同士の繋がりが生まれる。好みによって数えきれない程の趣味も生じる:生け花、茶道、剣道、音楽、様々な技術と美術。
3.アガペ―カリタス(イエスが愛に新しい意味を加えた)
愛餐、初期キリスト教徒の間の友愛の会食、餐親会。パウロは見事にキリスト教の愛を賛歌しました。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」。(1コリント13,4-8)
つまり、キリスト教の愛は人を差別しません。人間は皆神に愛されているので、私たちも皆を神の子供、私たちの兄弟として扱います。聖ペトロは「神は人を分け隔てしないと」解かったので狭い国境を乗り越えて世界を神の国として見るようになったのです。
しかしながら、現代世界では種族や宗教や国、国境線等を大切にするという理由から戦争を起こしたり、他国を侵略したりして人を殺してしまいます。
5月10日、フランシスコ ローマ法王は7000人の子供の前で「平和を望まない権力者は、戦争を起こす事によって黒い金を貯める」と言っています。結局のところ、平和を望んでいると言いながら、ある国は他国に武器などを売るのです。「悪魔は人の財布から通る」ともフランシスコ法王は加えました。
 
仇討は日本のひとつの美徳として見られていたようですがイエスから見れば悪に悪を重ねる事にしかならないのです。「赦す」のは新しい愛の意味であって、この地上で平和を築くことになります。
愛する為には相手を知る事が大切です。多くの難民はどこでも増えています。いろいろな理由で故郷を離れ、知らない国で困難な生活を送る人。知らない言語、慣れない食事、異なる気候や習慣。このような人々を理解して、手を差し出すことは愛することです。
病気で死に直面している人の感じている事を知ってあげる事も愛することです。年をとり、物覚えの悪くなった老人の、何度も繰り返す質問に優しく答えてあげる事もそうです。
マダ-テレサは「愛の反対の言葉は無視する事です。」今の世の問題や困難は「人を無視している」からだと思います。
 

同性愛結婚の子供
エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John,  - )は、などがある。
彼は50年の間3億ものレコ-ドを売り上げた実績もあり、世界で歴史的な音楽家と言えるでしょう。
彼は同性愛者で男性と結婚していて、子供二人を【IVF】(試験管内受精、体外受精)で、第三者の女性から生ませたのです。今年の初めごろ怒りのメッセージをブログに出しました。
きっかけは3月11日、有名なファッションデサイナードルチェ-ガッバナが、イタリアの雑誌「パノラマ」のインタビューで発言した事です。「家族と名のるのは男と女から生まれた子供だけです。体外受精で子供を産ませ、二人の男または二人の女が子供を育てるのは自然に反することです。」
Stefano Dolce & Domenico Gabbana自身も同性愛で結ばれていますが、彼はこう言っています。「私たちには子供は出来ません。生きている間に、あれもこれも手に入れる事は出来ません。人生には自然の流れがあって、その流れには逆らえないのです。」これに対してエルトンは、これからはドルチェ-ガッバナの製品は買わないと言いました。
しかしながら、どのように生まれてくる子供もお父さんやお母さんを持つ権利があります。神は父であり母でもある。『神は人間を自分の似姿としてお作りになった。男と女に創った』と。
フェイスブックで同性愛者の娘さんからの両親宛ての手紙を読みました。この娘さんは自分と同じような子供を代表して、この手紙をフェイスブックに載せたようです。「小さい時からお母さん二人に恵まれて、彼女らに対して育ててくれたことに感謝しています。しかし、お父さんがいないという寂しさをずっと味わって生きてきました。」
その手紙を読んで、私は“汚れなき悪戯“のマルセリーノを思い出しました。彼が初めて友達のお母さんに会った時の場面は感動しました。「あなたはお母さんですか?エマヌエルのお母さんですか?僕には12人のお父さんがいるけれど、あなたみたいな優しいお母さんがいない」と言って下を向いて、石をけっていました。
マルセリーノは、その時初めてお母さんの必要性を感じて、死んでもいいから自分を生んでくれたお母さんに会いたくなったのです。 
お父さんやお母さんの代わりになる人はいません。これは自然の流れです。この流れに背くことはできません。大黒柱になっている静かなお父さんの存在が居ないと、子供にとって家は崩れてくるような気持ちになってしまいます。 
私は、ゲイではありませんので、同性愛者の子供に対する気持ちはわかりません。しかし、ドルチェ-ガッバナが言っているように、「人生で望むもの全てを手に入れることはできないのです。」自然の法則を尊敬しないと、自分の不幸を子供にも与えてしまうことになるのではないでしょうか。
エルトンの怒りのメッセージを読んで、こう思ってしまいました。
 

「信徒発見150周年の年に寄せて」
1865年(元治2年)3月17日、大浦天主堂のフランス人宣教師ベルナール・プチジャン神父のもとに、隠れキリシタンが訪れ、自らの信仰を表してから今年で150年になります。
十数名の男女を代表して、祭壇の前で祈っているプチジャン神父のそばに、一人の中年の女性がやってきてささやきました。「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と伝えました。さらに、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。プチジャン神父は、彼らを聖堂内のマリア像の前に導きました。これが長く厳しい弾圧に耐えながら、信仰を固く守り抜いてきた日本の信者たちが再び名乗り出た瞬間でありました。
教皇フランシスコはこの機会に日本の教会宛てに手紙を書きました。この記念を祝うよう信者を招くと共に、信仰のために自らの命を捧げた多くの殉教者たちに思いをはせています。
豊臣秀吉が全ての宣教師を日本から追放するように命令を出したのは、1587年7月24日の夜明け頃でした。禁教令は300年程続きます。1873年(明治6年)のキリスト教禁制撤廃まで、教会の法的な存在を奪いました。現在、キリスト者は公に自分の信仰を表して宣べ伝える事が出来ます。
私は来日してから50年になり、この50年、日本の歴史を知り、自分自身も体験し、日本の教会の発展の為に色々な活動をしました。戦前から西洋や南北アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの沢山の国から大勢の修道会は宣教師を日本に送りました。
医療施設を始め、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学などの施設を通して、イエスを日本の文化、または日本人に紹介して来ました。そのお陰で日本の社会はキリスト教を受け入れるようになりました。また、上智大学を始め、南山大学、聖心、白百合、藤、ラ・サールなどの教育施設を通しても、イエスや聖母マリアが知られるようになり、多くの人が洗礼を受けました。
私は幼稚園の園長をしたり、様々な人に英語、イタリア語、ピアノなどを教えながらできるだけ多くの人にイエスから教わった「愛の道」を知らせるように努力しました。その労苦の実りは少なく、自己満足できる結果ではありませんでした。しかし聖パウロはコリントの手紙に書いた言葉によって、私に慰めと希望を与えてくれます。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の労働者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(1コリント3,6)
 

カナでの婚礼
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
イタリアの諺には:「葡萄酒のない食事は、太陽が照らしていない一日と同じだ」とあります。詩編104:15に:「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」
披露宴にお酒がなくなると、笑い声、喜び、愛でたい(めでたい)気持ち、踊りなどもなくなるのです。ヨハネは「ぶどう酒がなくなりました」と。一生涯一度の披露宴が暗い雰囲気で終わるのはあんまりの事です。
ヨハネが婚礼の出来事を描いた時は、きっと深い教えを伝えたかったからです。婦夫関係が悪くなった時に最初の純粋な愛を取り戻すのはイエズスだけです。またいつも恋人のような婦夫で死ぬまで振る舞うのは、いつも共にイエスもいるからです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
世間ではだんだん「劣ったものを出すので」、我々の心の願望が満たされません。神は「良いぶどう酒を取って置かれますので、飽きる事はありません。」
ぶどう酒を買う時に値段ではなくて、美味しいのを選んでください。
 

日本に貢献した宣教師アルフレド・ウット神父

(旭川カトリック教会の創設者)
小野 忠亮
 アルフレド・ヨゼフ・ウット神父は、明治7年(1874年)フランスに生まれた。明治31年(1898年)司祭に叙階され、パリ外国宣教会の宣教師として同年の秋、来日した。
 函館元町教会で日本語を学び、明治34年(1901年)から37年(1904年)まで、室蘭教会ではたらいた後、ベルリオーズ司教(本誌四月号参照)より、旭川(北海道)に教会を開設する使命が与えられ、同年、つまり明治37年11月、旭川へ赴任して教会を開設した。
 しかし、この時は日露戦争のときでもあって、最初の4年間は1人も信者ができなかった。
 巡回の範囲としては、東は帯広から釧路、西は留萌、北は稚内から網走、南は岩見沢までの広大な地域にわたっていた。
 大正4年(1915年)まで旭川にあって、同教会の基礎を築いた後、同年札幌代牧区が開設され、旭川もフランシスコ会の受持ちとなったので、同地を去り、函館宮前町教会へ移った。
 その後、大正10年(1921年)から昭和5年(1930年)までの11年間、函館教区司教座聖堂のある元町教会の主任司祭をつとめた。
 昭和2年(1927年)ベルリオーズ司教が、老齢と病気のため教区長の職を辞してから、昭和6年(1931年)函館教区が、カナダのドミニコ会に移管になるまでの4年間、函館教区の臨時教区長をつとめた。
 昭和6年、函館を去って京都へ行き、京都教区で宣教に従事した 昭和31年(1956年)12月19日、東京都清瀬市にある慈生会聖家族ホームで、82年の生涯を閉じた。
 
《叩きつぶされた聖母像》
 
 宣教の最後の目的は、「異教や無神論のきづなで、がんじがらめにされている霊魂を、キリストのために奪いとることだ」と、ある人が言ったが、そこに反対や迫害が起きるのは当然のことである。
 この一例として、滝川屯田(北海道滝川市)のできごとを述べてみよう。それは日露戦争が終って間もない頃、ウット神父は、ある年若い父親に洗礼をさずけた。この人は、滝川屯田に両親と一緒に住んでいたが、カトリックに改宗したことについて、いたくその人の父親を激昴させた。
 その理由は、自分が仏教に確信を持っていたためではなかったが、ただ息子が先祖伝来の仏教を捨てて、キリスト教に改宗したことが気にくわなかったのである。
 彼は、さんざんに息子を罵倒したのち、刀を抜いて「お前が、ヤソをやめなければ殺してやる!」と脅迫したのだった。幸いにして息子を殺すようなことはしなかったが、息子とその家族を、自分の家から追い出してしまったのである。
 それから数年後、この頑固な老人は一軒の家と農機具一式を買ったが、老齢のため、最早一人で耕作できなくなっていたので、追い出した息子と家族を呼び寄せることにした。息子は、その機会をつかまえて「カトリックの信仰を許すなら受けてもよい」という条件を出し、その条件を認めさせた上で家に帰った。
 ところがその後、弟家族と老母までが、カトリックの勉強をはじめたのである。このことで、老いた父親は再び激昂し、すっかり精神錯乱に陥り、十字架をはじめ、聖像・聖画等、カトリックに関係のあるものは、みな片っぱしから打ち壊し、破り捨てた。その上、息子夫婦と子供たちを再び家から追い出してしまった。
 ウット神父がこの家に贈った聖母像(注:お恵みの聖母)も、手斧で叩き壊そうとした。しかしこのご像は鉄製なので、壊すことができなかった。
 そこで、このご像を火にくべ、真っ赤にやけたところを金槌で、めちゃくちゃに叩きつぶし、戸外に積った雪の中にほうり投げてしまった。
 家を出る数日前、息子の妻が何気なく窓から外を見ると、雪の中に聖母像の一端があらわれていた。彼女は喜びに心をはずませながら、祖父に見つからないよう、そっと掘り出して行李の底にかくしておいた。
 それから5・6年たってからのこと、このヤソ嫌いのがんこ爺は、「わしも年をとり、さびしくなった。お前たちの宗教に反対しないから、孫を一人か二人寄こして欲しい」と手紙をよせてきた。
 これがキッカケとなって、追い出されていた息子夫婦と子供たちは、再び祖父の家へ帰ってきたのである。
 その後、この頑固な爺さんも教理を学び、老妻と共に洗礼を受けた。それから1年もたたないうちに、この爺さんは永眠したが、病床で寝たきりになったとき、口ぐせのように、「ああ、わしのような者をキリスト信者にしていただいて、もったいない」と、言っていたという。
 ロザリオを唱えるときには起こしてもらい、無理にでも正座して祈った。こうして、カトリック信者として立派な死を遂げたのである。
 なお、この一族からは、今は故人となった児玉三男神父をはじめ、修道士一人、シスター二人が出ており、”叩きつぶされた聖母像”は、滝川教会の宝物として、大切に保存されている。
 

 

 

 
福音宣教100年記念 
 9月4日札幌で北海道の司教区100年記念を全国の司教様方とたくさんの信徒で祝います。この100年間神様しか知らない大勢の人が、この北海道で神の国を広げるために汗を流し、試練を受け、命を掛けたか。神は一人も残らずご存じなのです。この方々のお陰で私達は洗礼を始め、罪の許しの秘跡とその後の5つの秘跡に与かる事が出来ます。せめて彼らの働きと犠牲が無駄にならないように私たちは信仰を守り出来るだけ広げるように努めたいと思います。
 
 また、10月2日光明社の100年記念になります。カトリック聖歌集を始め、祈りの手引き、カトリックとキリスト教の関係の本を私たちの玄関の前まで届け、またカトリック幼稚園に通っている子供の為に解りやすい絵本、家庭祭壇に飾る十字架、聖母のご像、ロザリオなど信仰を支える様々なものを準備してくれました。これから先100年200年も続くようにと祈りを込めて光明社の100年記念をお祝いします。

 

「五本指の祈り」 
 
教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くの
に用いたものです。
 
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。

1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たち
のために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのため
です。

2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人
たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の
教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支え
と知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出
してお祈りしてください。

3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指
を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、
会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってく
ださい。こうした人たちは
わたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要
です。

4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いか
もしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、ある
いは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを
忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。こ
の方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたち
を招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神
さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教え
ます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、
自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のため
に祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができ
のです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
2013年11月25日月曜日

「五本指の祈り」
 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。
 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。
 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。  また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。
 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。
書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
神様、どこにいるの?
 

子供はささやいた:「神さま、私に話して
下さいい」。直ぐ、木の枝からヒバリは綺麗な声
で鳴いたが子供はその鳴き声
を聞いていても神の声だと知らなかった。 子供が怒るように「神様、話して下さい、僕に!」 雷鳴が空の雲から大きな音を出して、鳴った、
しかし、子供はそれも神の
声だと思わなかった。 子供は周りを見て、言った: 「神様、私に御顔を見せて下さい!」
そして
すぐに星が夕空に明るく輝いた。しかし、 子供にはその星は神の顔だと気づきま せんでした。
子供はまた叫んだ: 「神さま、一つの奇跡を見せて下さい!」 その時木の芽が出て生命が生まれたが、子供は その生命を奇跡として認めなかった。
そこで子供は絶望して
叫んだ:「神さま、あなたはこ こいると解る為に僕の  顔に触れて下さい!」 神様は蝶となり天から下ってすぐ子供に 触れた。
しかし子供は蝶を追い払って、神様が触れてくれたと解らずに歩いていた。
 
Ravindra Kumar Karnani
 

 
パズル
 

旗日なので、ある家族のお父さんは長椅子に寝転んで、好きな雑誌を読んでいました。三歳の可愛い娘さんはチョロチョロ長椅子に上ったり下りたり、お父さんにとって汚れなき悪戯っ子は邪魔になっていました。

 
お父さんが自分の方に向いてくれるように:「ねぇねぇパパ、アメリカという国はどんな形なの?」と言って、お父さんのお腹の上に乗ったのです。 お父さんが読んでいた雑誌の一枚のぺージにはアメリカの地図があったので、それを雑誌から破って、散り紙にして、愛らしい自分の娘にそれを渡して「隣の部屋へ行って、この散り紙を正しく合わせたら、アメリカの形が表れてくる」と言いました。そのパズルが出来上がるのに大分時間が掛かるだろうと安心して雑誌を読み続けた。しかし3分立たないうちに子供は嬉しそうな顔をして、セロテープできちんと繋がったアメリカの地図を持って来ました。見事に出来上がっていました。お父さんは不思議に思って「早くできたね、信じられない!」と言いました。 無邪気な悪戯っ子は、アメリカの地図の裏を見せながら「ほら、パパからもらった紙の裏に大きなイエズス様の顔のご絵が載っていたから、それを見ながら簡単に散り紙を合わせる事ができたの!」
 
私達は毎日、家族、親子、職場、国、世界で困難、不満、失望、いらいらしたりして「これで良いのだろうか」と物足りなさを感じることがないでしょうか。
アブラハムをはじめ、モ―ぜ、イザヤとエレミア預言者、イエズスの弟子と数え切れない程の聖人たちも同じ不満を感じた。皆に神は同じ答えをしました「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる」。
 
 
 

From AsiaNews.it
26/09/2018, 11.15GIAPPONE
Fra’ Narciso Cavazzola, 53 anni di missione nell’Hokkaido
È direttore di un asilo, responsabile di due parrocchie, ha fondato un centro per gli alcolisti e sostiene i ragazzi che soffrono di depressione. Arriva in Giappone a 25 anni ed è costretto a “rinascere a un nuovo mondo”. Battezza molti giapponesi, e tre di questi entrano in seminario. “Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede, anche se non si sente con le parole”. Una sola parola per definire i suoi 53 anni in Giappone: “Grazie, affido il futuro a Dio”.





Sunagawa (AsiaNews) – Direttore d’asilo, responsabile di due parrocchie a Sunagawa, sostegno per giovani in difficoltà e una porta aperta per le persone che soffrono d’alcolismo. Sono solo alcune delle numerose esperienze vissute da fra’ Narciso Cavazzola, francescano, in Giappone da 53 anni.
Nel luglio del 1965, il giovane fra’ Cavazzola ha 25 anni. “Quando sono arrivato in Giappone avevo 25 anni e una mentalità occidentale. I giapponesi capiscono con il sentimento, il cuore. Ho dovuto dimenticare tutto quello che avevo imparato fino all’età di 25 anni e ‘rinascere’ a un nuovo mondo.” Senza dimenticare il problema della lingua giapponese. “A lungo mi sono chiesto se avrei mai davvero imparato come parlare con questa gente”.
Il missionario svolge le sue attività soprattutto nell’isola settentrionale di Hokkaido, nel nord-est. Qui insegna italiano, inglese e pianoforte – e si appassiona alla danza giapponese. Battezza molte persone, tre delle quali hanno scelto la via del seminario. “Tengo ciascuno di loro nelle mie preghiere”.
“Come direttore dell’asilo – afferma il francescano – ho avuto occasione di conoscere tante famiglie. Tante esperienze, su cui ho scritto cinque libri. Una che mi ha colpito molto è stata quella con gli alcolisti anonimi. Noi forniamo i locali, si radunano due volte a settimana, dalle sette di sera alle otto e mezza. Tempo fa, fra questi c’era un Ainu [minoranza etnica giapponese, in passato perseguitata, ndr]. L’alcool gli faceva vedere cose che non esistono, spaventose. Vedeva il nazista Rommel, immaginava i lampioni della luce che lo inseguivano. Con questa agonia, è andato all’ospedale, dove gli hanno consigliato di venire alle riunioni in Chiesa”. Grazie al sostegno del gruppo degli alcolisti anonimi, riesce a liberarsi dalla dipendenza, che gli lascia un vuoto e una domanda di senso della vita. Una richiesta a cui trova risposta nella Bibbia, regalatagli dal missionario.
 
“I bambini guardano fisso negli occhi – continua il missionario –  Una volta, un bambino mi ha domandato: ‘Le piace la sua faccia?’. Mi ha colto di sorpresa! Così, con un po’ di furbizia, gli ho detto: ‘E a te, piace la tua faccia?’. Lui, tutto sorridente, risponde, ‘Sì, questa faccia perché me l'ha fatta la mia mamma e il Buon Dio’. Dai bambini si possono imparare tante cose”.
 
Nei 53 anni di servizio, fra Cavazzola viene a contatto con alcuni giovani in difficoltà, fra cui tre ragazze che soffrono di agorafobia. “Una di loro aveva tentato 16 volte di suicidarsi. Io le seguivo, tenendomi in contatto con il loro medico, che mi diceva di incoraggiarle. Dopo tre anni, sono tornate a scuola. Tutte e tre si sono sposate ed hanno figli”. Seppure non battezzate, le giovani rispettano la Chiesa per la gratuità del sostegno ricevuto dal missionario.
 
“Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede anche se non si sente con le parole”. Fra Cavazzola ricorda un missionario anziano che non sapeva parlare giapponese. Ogni settimana, egli faceva catechismo a un giapponese che voleva battezzarsi. “Alla festa per il suo battesimo, l’uomo gli ha detto: ’Padre, la ringrazio dell’anno che ha speso per me, però devo confidarle: lei parlava come poteva, ma io non ho mai capito niente di quello che diceva. Sia tranquillo, ho visto che parlava con tanta sicurezza che quello che diceva doveva essere vero’. Io forse parlo giapponese meglio di quel sacerdote, ma è la stessa cosa: la fede si trasmette se si vede. Il mio passo preferito del Vangelo è ‘Beati i poveri di spirito’, perché non pretendono di fare con le proprie forze, ma chiedono a Dio di far uso di loro. La forza di propagare la fede non è in me, ma è Dio che lavora attraverso me”.
 
“Il mio venire in Giappone – conclude il francescano – è stata una chiamata da parte del Signore. Di questi 50 anni, dovrei solo dire una parola: grazie. Grazie di tutto, del passato, delle esperienze, delle sofferenze, di tutte le persone che mi hanno voluto bene e di quelle che mi hanno fatto patire. Per quanto riguarda il presente, cerco di fare del mio meglio. Il futuro è nelle mani di Dio, e lo lasciamo a Lui”.
 
 

 “Euntes ibant et flebant, mittentes semina sua. Venientes autem venient cum exsultatione, portantes manipulos suos”(Ps.126).
Nel 1953 il Segretario delle Missioni dell’Ordine,P.Alfonso Snusemberg,mandava 9 frati, reduci dalla Cina ed appartenenti alla Provincia di S.Antonio, nel Nord est dell’Hokkaido a continuare la Missione iniziata dai frati della Provincia di Fulda.
Le risorse dell’’Hokkaido, la cui superfice e’ di 83,453,57 kilomtri quadrati ,sono la pesca.l’agricoltura e l’allevamento del bestiame.
L’isola e’ relativamente poco popolata con solo 5,377,435 di abitanti (30 Sett.2016 )(64.5 km.quadrati).per la rigidita’ del clima (In alcuni posti va‘ anche a 40 sotto zero) e per il lungo inverno (Novembre Marzo) con abbondanti nevicate.
Il P.Alfonso Snusemberg da buon Tedesco:,”Est frigidus, sed sunt carbones”.In altre parole “Fa’ freddo ma riscaldatevi con il carbone” che al tempo si estraeva abbondantemente dalle miniere che andavano anche 10 kilometri sotto l’Oceano Pacifico.
Il Giappone non si era ancora ripreso dalla sconfitta nella seconda guerra mondiale.L’educazione nelle scuole era basata sulla divinita’ dell’’Imperatore e quindi il Giappone,si pensava,che fosse imbattibile.Fu un momento propizio per i nostri missionari.
Costruzioni di Chiese ed asili cattolici,furono seguiti da battesimi che si contavano a centinaia in un solo anno.
Con il Generale ofm Fr.Herman,le 24 fondazioni francescane missionarie furono riunite in Custodia e piu’ tardi nella Provincia dei “Santi Martiri del Giappone”.
Sono 53 anni che sono venuto in Giappone; per l’esattezza nel Luglio del 1965.La lingua e’ certamente una barriera:per poter comunicare mi ci sono voluti piu’ di dieci anni.Mi sono convinto che per parlare la lingua non e’ sufficiente la grammatica,ma e’ necessario conoscere la cultura i costumi e il modo di vivere delle persone .Ci sono stati anche momenti che ho pensato che non avrei mai imparato a comunicare con i Giapponesi.
Io ho svolto la mia attivita’ principalmente nel Nord est dell’Hookaido,il territtorio che fu affidato ai frati Veneti dal P.Alfonso Snusemberg.Per avvicinare la gente ho insegnato Italiano, Inglese e pianoforte.Mi sono impegnato anche nella danza Giapponese.
Questi incontri si sono mostrati fruttuosi e ho avuto l’occasione di portare al Battesimo molti adulti.Tra questi ho indirizzato in seminario tre persone:l’ultimo sara’ ordinato sacerdote il prossimo anno.Sono tutte vocazioni adulte.Uno di loro era sposato con figli:dopo la morte della moglie di 40 anni, e’ entrato in Seminario e ordinate sacerdote..Ora occupa una posizione importante nella Diocesi di Sapporo.
Da quattro anni sono nel Sud Ovest del Giappone dove principamente hanno svolto la loro attivita’ I Francescani di Fulda.Sono parroco di due chiese e Direttore di un Asilo.Sunagawa, Takikawa e Bibai erano citta’ minerarie e molto popolate,ma con la chiusura delle miniere la popolazione si e’ spostata altrove per cercare lavoro..
Ho avuto l’occasione di fondare vari gruppi AA(Alcolizzati Anonimi).Ho cooperato anche con un medico (non cattolico) che piu’ che con le medicine, cerca di riabilitare i depressi specialmente tra giovani con dialogo.Il medico era convinto che un italiano con suo buon umore e la sua religione di speranza fosse piu’ efficente delle medicine.
“Messis quidem multa, operarii autem pauci” (Mat.9,37)
Qui voglio ricordare Il P.Carissimo Londero,deceduto l’anno scorso.Prima di morire aveva lasciato il suo testament nel PC. “Sul passato non ho che da ringraziare il Buon Dio!Su quello che dora’ accadere nel prossimo futuro,sono sempre pronto”.

 

 

 

 
 

 

 
福音宣教100年記念 
 9月4日札幌で北海道の司教区100年記念を全国の司教様方とたくさんの信徒で祝います。この100年間神様しか知らない大勢の人が、この北海道で神の国を広げるために汗を流し、試練を受け、命を掛けたか。神は一人も残らずご存じなのです。この方々のお陰で私達は洗礼を始め、罪の許しの秘跡とその後の5つの秘跡に与かる事が出来ます。せめて彼らの働きと犠牲が無駄にならないように私たちは信仰を守り出来るだけ広げるように努めたいと思います。
 
 また、10月2日光明社の100年記念になります。カトリック聖歌集を始め、祈りの手引き、カトリックとキリスト教の関係の本を私たちの玄関の前まで届け、またカトリック幼稚園に通っている子供の為に解りやすい絵本、家庭祭壇に飾る十字架、聖母のご像、ロザリオなど信仰を支える様々なものを準備してくれました。これから先100年200年も続くようにと祈りを込めて光明社の100年記念をお祝いします。

 

「五本指の祈り」 
 
教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くの
に用いたものです。
 
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。

1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たち
のために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのため
です。

2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人
たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の
教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支え
と知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出
してお祈りしてください。

3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指
を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、
会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってく
ださい。こうした人たちは
わたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要
です。

4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いか
もしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、ある
いは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを
忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。こ
の方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたち
を招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神
さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教え
ます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、
自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のため
に祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができ
のです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
2013年11月25日月曜日

「五本指の祈り」
 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。
 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。
 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。  また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。
 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。
書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
神様、どこにいるの?
 

子供はささやいた:「神さま、私に話して
下さいい」。直ぐ、木の枝からヒバリは綺麗な声
で鳴いたが子供はその鳴き声
を聞いていても神の声だと知らなかった。 子供が怒るように「神様、話して下さい、僕に!」 雷鳴が空の雲から大きな音を出して、鳴った、
しかし、子供はそれも神の
声だと思わなかった。 子供は周りを見て、言った: 「神様、私に御顔を見せて下さい!」
そして
すぐに星が夕空に明るく輝いた。しかし、 子供にはその星は神の顔だと気づきま せんでした。
子供はまた叫んだ: 「神さま、一つの奇跡を見せて下さい!」 その時木の芽が出て生命が生まれたが、子供は その生命を奇跡として認めなかった。
そこで子供は絶望して
叫んだ:「神さま、あなたはこ こいると解る為に僕の  顔に触れて下さい!」 神様は蝶となり天から下ってすぐ子供に 触れた。
しかし子供は蝶を追い払って、神様が触れてくれたと解らずに歩いていた。
 
Ravindra Kumar Karnani
 

 
パズル
 

旗日なので、ある家族のお父さんは長椅子に寝転んで、好きな雑誌を読んでいました。三歳の可愛い娘さんはチョロチョロ長椅子に上ったり下りたり、お父さんにとって汚れなき悪戯っ子は邪魔になっていました。

 
お父さんが自分の方に向いてくれるように:「ねぇねぇパパ、アメリカという国はどんな形なの?」と言って、お父さんのお腹の上に乗ったのです。 お父さんが読んでいた雑誌の一枚のぺージにはアメリカの地図があったので、それを雑誌から破って、散り紙にして、愛らしい自分の娘にそれを渡して「隣の部屋へ行って、この散り紙を正しく合わせたら、アメリカの形が表れてくる」と言いました。そのパズルが出来上がるのに大分時間が掛かるだろうと安心して雑誌を読み続けた。しかし3分立たないうちに子供は嬉しそうな顔をして、セロテープできちんと繋がったアメリカの地図を持って来ました。見事に出来上がっていました。お父さんは不思議に思って「早くできたね、信じられない!」と言いました。 無邪気な悪戯っ子は、アメリカの地図の裏を見せながら「ほら、パパからもらった紙の裏に大きなイエズス様の顔のご絵が載っていたから、それを見ながら簡単に散り紙を合わせる事ができたの!」
 
私達は毎日、家族、親子、職場、国、世界で困難、不満、失望、いらいらしたりして「これで良いのだろうか」と物足りなさを感じることがないでしょうか。
アブラハムをはじめ、モ―ぜ、イザヤとエレミア預言者、イエズスの弟子と数え切れない程の聖人たちも同じ不満を感じた。皆に神は同じ答えをしました「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる」。
 
 
 

From AsiaNews.it
26/09/2018, 11.15GIAPPONE
Fra’ Narciso Cavazzola, 53 anni di missione nell’Hokkaido
È direttore di un asilo, responsabile di due parrocchie, ha fondato un centro per gli alcolisti e sostiene i ragazzi che soffrono di depressione. Arriva in Giappone a 25 anni ed è costretto a “rinascere a un nuovo mondo”. Battezza molti giapponesi, e tre di questi entrano in seminario. “Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede, anche se non si sente con le parole”. Una sola parola per definire i suoi 53 anni in Giappone: “Grazie, affido il futuro a Dio”.





Sunagawa (AsiaNews) – Direttore d’asilo, responsabile di due parrocchie a Sunagawa, sostegno per giovani in difficoltà e una porta aperta per le persone che soffrono d’alcolismo. Sono solo alcune delle numerose esperienze vissute da fra’ Narciso Cavazzola, francescano, in Giappone da 53 anni.
Nel luglio del 1965, il giovane fra’ Cavazzola ha 25 anni. “Quando sono arrivato in Giappone avevo 25 anni e una mentalità occidentale. I giapponesi capiscono con il sentimento, il cuore. Ho dovuto dimenticare tutto quello che avevo imparato fino all’età di 25 anni e ‘rinascere’ a un nuovo mondo.” Senza dimenticare il problema della lingua giapponese. “A lungo mi sono chiesto se avrei mai davvero imparato come parlare con questa gente”.
Il missionario svolge le sue attività soprattutto nell’isola settentrionale di Hokkaido, nel nord-est. Qui insegna italiano, inglese e pianoforte – e si appassiona alla danza giapponese. Battezza molte persone, tre delle quali hanno scelto la via del seminario. “Tengo ciascuno di loro nelle mie preghiere”.
“Come direttore dell’asilo – afferma il francescano – ho avuto occasione di conoscere tante famiglie. Tante esperienze, su cui ho scritto cinque libri. Una che mi ha colpito molto è stata quella con gli alcolisti anonimi. Noi forniamo i locali, si radunano due volte a settimana, dalle sette di sera alle otto e mezza. Tempo fa, fra questi c’era un Ainu [minoranza etnica giapponese, in passato perseguitata, ndr]. L’alcool gli faceva vedere cose che non esistono, spaventose. Vedeva il nazista Rommel, immaginava i lampioni della luce che lo inseguivano. Con questa agonia, è andato all’ospedale, dove gli hanno consigliato di venire alle riunioni in Chiesa”. Grazie al sostegno del gruppo degli alcolisti anonimi, riesce a liberarsi dalla dipendenza, che gli lascia un vuoto e una domanda di senso della vita. Una richiesta a cui trova risposta nella Bibbia, regalatagli dal missionario.
 
“I bambini guardano fisso negli occhi – continua il missionario –  Una volta, un bambino mi ha domandato: ‘Le piace la sua faccia?’. Mi ha colto di sorpresa! Così, con un po’ di furbizia, gli ho detto: ‘E a te, piace la tua faccia?’. Lui, tutto sorridente, risponde, ‘Sì, questa faccia perché me l'ha fatta la mia mamma e il Buon Dio’. Dai bambini si possono imparare tante cose”.
 
Nei 53 anni di servizio, fra Cavazzola viene a contatto con alcuni giovani in difficoltà, fra cui tre ragazze che soffrono di agorafobia. “Una di loro aveva tentato 16 volte di suicidarsi. Io le seguivo, tenendomi in contatto con il loro medico, che mi diceva di incoraggiarle. Dopo tre anni, sono tornate a scuola. Tutte e tre si sono sposate ed hanno figli”. Seppure non battezzate, le giovani rispettano la Chiesa per la gratuità del sostegno ricevuto dal missionario.
 
“Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede anche se non si sente con le parole”. Fra Cavazzola ricorda un missionario anziano che non sapeva parlare giapponese. Ogni settimana, egli faceva catechismo a un giapponese che voleva battezzarsi. “Alla festa per il suo battesimo, l’uomo gli ha detto: ’Padre, la ringrazio dell’anno che ha speso per me, però devo confidarle: lei parlava come poteva, ma io non ho mai capito niente di quello che diceva. Sia tranquillo, ho visto che parlava con tanta sicurezza che quello che diceva doveva essere vero’. Io forse parlo giapponese meglio di quel sacerdote, ma è la stessa cosa: la fede si trasmette se si vede. Il mio passo preferito del Vangelo è ‘Beati i poveri di spirito’, perché non pretendono di fare con le proprie forze, ma chiedono a Dio di far uso di loro. La forza di propagare la fede non è in me, ma è Dio che lavora attraverso me”.
 
“Il mio venire in Giappone – conclude il francescano – è stata una chiamata da parte del Signore. Di questi 50 anni, dovrei solo dire una parola: grazie. Grazie di tutto, del passato, delle esperienze, delle sofferenze, di tutte le persone che mi hanno voluto bene e di quelle che mi hanno fatto patire. Per quanto riguarda il presente, cerco di fare del mio meglio. Il futuro è nelle mani di Dio, e lo lasciamo a Lui”.
 
 

 “Euntes ibant et flebant, mittentes semina sua. Venientes autem venient cum exsultatione, portantes manipulos suos”(Ps.126).
Nel 1953 il Segretario delle Missioni dell’Ordine,P.Alfonso Snusemberg,mandava 9 frati, reduci dalla Cina ed appartenenti alla Provincia di S.Antonio, nel Nord est dell’Hokkaido a continuare la Missione iniziata dai frati della Provincia di Fulda.
Le risorse dell’’Hokkaido, la cui superfice e’ di 83,453,57 kilomtri quadrati ,sono la pesca.l’agricoltura e l’allevamento del bestiame.
L’isola e’ relativamente poco popolata con solo 5,377,435 di abitanti (30 Sett.2016 )(64.5 km.quadrati).per la rigidita’ del clima (In alcuni posti va‘ anche a 40 sotto zero) e per il lungo inverno (Novembre Marzo) con abbondanti nevicate.
Il P.Alfonso Snusemberg da buon Tedesco:,”Est frigidus, sed sunt carbones”.In altre parole “Fa’ freddo ma riscaldatevi con il carbone” che al tempo si estraeva abbondantemente dalle miniere che andavano anche 10 kilometri sotto l’Oceano Pacifico.
Il Giappone non si era ancora ripreso dalla sconfitta nella seconda guerra mondiale.L’educazione nelle scuole era basata sulla divinita’ dell’’Imperatore e quindi il Giappone,si pensava,che fosse imbattibile.Fu un momento propizio per i nostri missionari.
Costruzioni di Chiese ed asili cattolici,furono seguiti da battesimi che si contavano a centinaia in un solo anno.
Con il Generale ofm Fr.Herman,le 24 fondazioni francescane missionarie furono riunite in Custodia e piu’ tardi nella Provincia dei “Santi Martiri del Giappone”.
Sono 53 anni che sono venuto in Giappone; per l’esattezza nel Luglio del 1965.La lingua e’ certamente una barriera:per poter comunicare mi ci sono voluti piu’ di dieci anni.Mi sono convinto che per parlare la lingua non e’ sufficiente la grammatica,ma e’ necessario conoscere la cultura i costumi e il modo di vivere delle persone .Ci sono stati anche momenti che ho pensato che non avrei mai imparato a comunicare con i Giapponesi.
Io ho svolto la mia attivita’ principalmente nel Nord est dell’Hookaido,il territtorio che fu affidato ai frati Veneti dal P.Alfonso Snusemberg.Per avvicinare la gente ho insegnato Italiano, Inglese e pianoforte.Mi sono impegnato anche nella danza Giapponese.
Questi incontri si sono mostrati fruttuosi e ho avuto l’occasione di portare al Battesimo molti adulti.Tra questi ho indirizzato in seminario tre persone:l’ultimo sara’ ordinato sacerdote il prossimo anno.Sono tutte vocazioni adulte.Uno di loro era sposato con figli:dopo la morte della moglie di 40 anni, e’ entrato in Seminario e ordinate sacerdote..Ora occupa una posizione importante nella Diocesi di Sapporo.
Da quattro anni sono nel Sud Ovest del Giappone dove principamente hanno svolto la loro attivita’ I Francescani di Fulda.Sono parroco di due chiese e Direttore di un Asilo.Sunagawa, Takikawa e Bibai erano citta’ minerarie e molto popolate,ma con la chiusura delle miniere la popolazione si e’ spostata altrove per cercare lavoro..
Ho avuto l’occasione di fondare vari gruppi AA(Alcolizzati Anonimi).Ho cooperato anche con un medico (non cattolico) che piu’ che con le medicine, cerca di riabilitare i depressi specialmente tra giovani con dialogo.Il medico era convinto che un italiano con suo buon umore e la sua religione di speranza fosse piu’ efficente delle medicine.
“Messis quidem multa, operarii autem pauci” (Mat.9,37)
Qui voglio ricordare Il P.Carissimo Londero,deceduto l’anno scorso.Prima di morire aveva lasciato il suo testament nel PC. “Sul passato non ho che da ringraziare il Buon Dio!Su quello che dora’ accadere nel prossimo futuro,sono sempre pronto”.

 

 

 

 
 

 

 
福音宣教100年記念 
 9月4日札幌で北海道の司教区100年記念を全国の司教様方とたくさんの信徒で祝います。この100年間神様しか知らない大勢の人が、この北海道で神の国を広げるために汗を流し、試練を受け、命を掛けたか。神は一人も残らずご存じなのです。この方々のお陰で私達は洗礼を始め、罪の許しの秘跡とその後の5つの秘跡に与かる事が出来ます。せめて彼らの働きと犠牲が無駄にならないように私たちは信仰を守り出来るだけ広げるように努めたいと思います。
 
 また、10月2日光明社の100年記念になります。カトリック聖歌集を始め、祈りの手引き、カトリックとキリスト教の関係の本を私たちの玄関の前まで届け、またカトリック幼稚園に通っている子供の為に解りやすい絵本、家庭祭壇に飾る十字架、聖母のご像、ロザリオなど信仰を支える様々なものを準備してくれました。これから先100年200年も続くようにと祈りを込めて光明社の100年記念をお祝いします。

 

「五本指の祈り」 
 
教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くの
に用いたものです。
 
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。

1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たち
のために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのため
です。

2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人
たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の
教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支え
と知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出
してお祈りしてください。

3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指
を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、
会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってく
ださい。こうした人たちは
わたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要
です。

4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いか
もしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、ある
いは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを
忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。こ
の方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたち
を招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神
さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教え
ます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、
自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のため
に祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができ
のです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
2013年11月25日月曜日

「五本指の祈り」
 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。
 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。
 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。  また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。
 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。
書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
神様、どこにいるの?
 

子供はささやいた:「神さま、私に話して
下さいい」。直ぐ、木の枝からヒバリは綺麗な声
で鳴いたが子供はその鳴き声
を聞いていても神の声だと知らなかった。 子供が怒るように「神様、話して下さい、僕に!」 雷鳴が空の雲から大きな音を出して、鳴った、
しかし、子供はそれも神の
声だと思わなかった。 子供は周りを見て、言った: 「神様、私に御顔を見せて下さい!」
そして
すぐに星が夕空に明るく輝いた。しかし、 子供にはその星は神の顔だと気づきま せんでした。
子供はまた叫んだ: 「神さま、一つの奇跡を見せて下さい!」 その時木の芽が出て生命が生まれたが、子供は その生命を奇跡として認めなかった。
そこで子供は絶望して
叫んだ:「神さま、あなたはこ こいると解る為に僕の  顔に触れて下さい!」 神様は蝶となり天から下ってすぐ子供に 触れた。
しかし子供は蝶を追い払って、神様が触れてくれたと解らずに歩いていた。
 
Ravindra Kumar Karnani
 

 
パズル
 

旗日なので、ある家族のお父さんは長椅子に寝転んで、好きな雑誌を読んでいました。三歳の可愛い娘さんはチョロチョロ長椅子に上ったり下りたり、お父さんにとって汚れなき悪戯っ子は邪魔になっていました。

 
お父さんが自分の方に向いてくれるように:「ねぇねぇパパ、アメリカという国はどんな形なの?」と言って、お父さんのお腹の上に乗ったのです。 お父さんが読んでいた雑誌の一枚のぺージにはアメリカの地図があったので、それを雑誌から破って、散り紙にして、愛らしい自分の娘にそれを渡して「隣の部屋へ行って、この散り紙を正しく合わせたら、アメリカの形が表れてくる」と言いました。そのパズルが出来上がるのに大分時間が掛かるだろうと安心して雑誌を読み続けた。しかし3分立たないうちに子供は嬉しそうな顔をして、セロテープできちんと繋がったアメリカの地図を持って来ました。見事に出来上がっていました。お父さんは不思議に思って「早くできたね、信じられない!」と言いました。 無邪気な悪戯っ子は、アメリカの地図の裏を見せながら「ほら、パパからもらった紙の裏に大きなイエズス様の顔のご絵が載っていたから、それを見ながら簡単に散り紙を合わせる事ができたの!」
 
私達は毎日、家族、親子、職場、国、世界で困難、不満、失望、いらいらしたりして「これで良いのだろうか」と物足りなさを感じることがないでしょうか。
アブラハムをはじめ、モ―ぜ、イザヤとエレミア預言者、イエズスの弟子と数え切れない程の聖人たちも同じ不満を感じた。皆に神は同じ答えをしました「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる」。
 
 
 

From AsiaNews.it
26/09/2018, 11.15GIAPPONE
Fra’ Narciso Cavazzola, 53 anni di missione nell’Hokkaido
È direttore di un asilo, responsabile di due parrocchie, ha fondato un centro per gli alcolisti e sostiene i ragazzi che soffrono di depressione. Arriva in Giappone a 25 anni ed è costretto a “rinascere a un nuovo mondo”. Battezza molti giapponesi, e tre di questi entrano in seminario. “Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede, anche se non si sente con le parole”. Una sola parola per definire i suoi 53 anni in Giappone: “Grazie, affido il futuro a Dio”.





Sunagawa (AsiaNews) – Direttore d’asilo, responsabile di due parrocchie a Sunagawa, sostegno per giovani in difficoltà e una porta aperta per le persone che soffrono d’alcolismo. Sono solo alcune delle numerose esperienze vissute da fra’ Narciso Cavazzola, francescano, in Giappone da 53 anni.
Nel luglio del 1965, il giovane fra’ Cavazzola ha 25 anni. “Quando sono arrivato in Giappone avevo 25 anni e una mentalità occidentale. I giapponesi capiscono con il sentimento, il cuore. Ho dovuto dimenticare tutto quello che avevo imparato fino all’età di 25 anni e ‘rinascere’ a un nuovo mondo.” Senza dimenticare il problema della lingua giapponese. “A lungo mi sono chiesto se avrei mai davvero imparato come parlare con questa gente”.
Il missionario svolge le sue attività soprattutto nell’isola settentrionale di Hokkaido, nel nord-est. Qui insegna italiano, inglese e pianoforte – e si appassiona alla danza giapponese. Battezza molte persone, tre delle quali hanno scelto la via del seminario. “Tengo ciascuno di loro nelle mie preghiere”.
“Come direttore dell’asilo – afferma il francescano – ho avuto occasione di conoscere tante famiglie. Tante esperienze, su cui ho scritto cinque libri. Una che mi ha colpito molto è stata quella con gli alcolisti anonimi. Noi forniamo i locali, si radunano due volte a settimana, dalle sette di sera alle otto e mezza. Tempo fa, fra questi c’era un Ainu [minoranza etnica giapponese, in passato perseguitata, ndr]. L’alcool gli faceva vedere cose che non esistono, spaventose. Vedeva il nazista Rommel, immaginava i lampioni della luce che lo inseguivano. Con questa agonia, è andato all’ospedale, dove gli hanno consigliato di venire alle riunioni in Chiesa”. Grazie al sostegno del gruppo degli alcolisti anonimi, riesce a liberarsi dalla dipendenza, che gli lascia un vuoto e una domanda di senso della vita. Una richiesta a cui trova risposta nella Bibbia, regalatagli dal missionario.
 
“I bambini guardano fisso negli occhi – continua il missionario –  Una volta, un bambino mi ha domandato: ‘Le piace la sua faccia?’. Mi ha colto di sorpresa! Così, con un po’ di furbizia, gli ho detto: ‘E a te, piace la tua faccia?’. Lui, tutto sorridente, risponde, ‘Sì, questa faccia perché me l'ha fatta la mia mamma e il Buon Dio’. Dai bambini si possono imparare tante cose”.
 
Nei 53 anni di servizio, fra Cavazzola viene a contatto con alcuni giovani in difficoltà, fra cui tre ragazze che soffrono di agorafobia. “Una di loro aveva tentato 16 volte di suicidarsi. Io le seguivo, tenendomi in contatto con il loro medico, che mi diceva di incoraggiarle. Dopo tre anni, sono tornate a scuola. Tutte e tre si sono sposate ed hanno figli”. Seppure non battezzate, le giovani rispettano la Chiesa per la gratuità del sostegno ricevuto dal missionario.
 
“Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede anche se non si sente con le parole”. Fra Cavazzola ricorda un missionario anziano che non sapeva parlare giapponese. Ogni settimana, egli faceva catechismo a un giapponese che voleva battezzarsi. “Alla festa per il suo battesimo, l’uomo gli ha detto: ’Padre, la ringrazio dell’anno che ha speso per me, però devo confidarle: lei parlava come poteva, ma io non ho mai capito niente di quello che diceva. Sia tranquillo, ho visto che parlava con tanta sicurezza che quello che diceva doveva essere vero’. Io forse parlo giapponese meglio di quel sacerdote, ma è la stessa cosa: la fede si trasmette se si vede. Il mio passo preferito del Vangelo è ‘Beati i poveri di spirito’, perché non pretendono di fare con le proprie forze, ma chiedono a Dio di far uso di loro. La forza di propagare la fede non è in me, ma è Dio che lavora attraverso me”.
 
“Il mio venire in Giappone – conclude il francescano – è stata una chiamata da parte del Signore. Di questi 50 anni, dovrei solo dire una parola: grazie. Grazie di tutto, del passato, delle esperienze, delle sofferenze, di tutte le persone che mi hanno voluto bene e di quelle che mi hanno fatto patire. Per quanto riguarda il presente, cerco di fare del mio meglio. Il futuro è nelle mani di Dio, e lo lasciamo a Lui”.
 
 

 

 

 

 

 
 

 

 
福音宣教100年記念 
 9月4日札幌で北海道の司教区100年記念を全国の司教様方とたくさんの信徒で祝います。この100年間神様しか知らない大勢の人が、この北海道で神の国を広げるために汗を流し、試練を受け、命を掛けたか。神は一人も残らずご存じなのです。この方々のお陰で私達は洗礼を始め、罪の許しの秘跡とその後の5つの秘跡に与かる事が出来ます。せめて彼らの働きと犠牲が無駄にならないように私たちは信仰を守り出来るだけ広げるように努めたいと思います。
 
 また、10月2日光明社の100年記念になります。カトリック聖歌集を始め、祈りの手引き、カトリックとキリスト教の関係の本を私たちの玄関の前まで届け、またカトリック幼稚園に通っている子供の為に解りやすい絵本、家庭祭壇に飾る十字架、聖母のご像、ロザリオなど信仰を支える様々なものを準備してくれました。これから先100年200年も続くようにと祈りを込めて光明社の100年記念をお祝いします。

 

「五本指の祈り」 
 
教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くの
に用いたものです。
 
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。

1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たち
のために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのため
です。

2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人
たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の
教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支え
と知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出
してお祈りしてください。

3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指
を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、
会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってく
ださい。こうした人たちは
わたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要
です。

4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いか
もしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、ある
いは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを
忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。こ
の方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたち
を招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神
さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教え
ます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、
自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のため
に祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができ
のです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
2013年11月25日月曜日

「五本指の祈り」
 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。
 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。
 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。  また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。
 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。
書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
神様、どこにいるの?
 

子供はささやいた:「神さま、私に話して
下さいい」。直ぐ、木の枝からヒバリは綺麗な声
で鳴いたが子供はその鳴き声
を聞いていても神の声だと知らなかった。 子供が怒るように「神様、話して下さい、僕に!」 雷鳴が空の雲から大きな音を出して、鳴った、
しかし、子供はそれも神の
声だと思わなかった。 子供は周りを見て、言った: 「神様、私に御顔を見せて下さい!」
そして
すぐに星が夕空に明るく輝いた。しかし、 子供にはその星は神の顔だと気づきま せんでした。
子供はまた叫んだ: 「神さま、一つの奇跡を見せて下さい!」 その時木の芽が出て生命が生まれたが、子供は その生命を奇跡として認めなかった。
そこで子供は絶望して
叫んだ:「神さま、あなたはこ こいると解る為に僕の  顔に触れて下さい!」 神様は蝶となり天から下ってすぐ子供に 触れた。
しかし子供は蝶を追い払って、神様が触れてくれたと解らずに歩いていた。
 
Ravindra Kumar Karnani
 

 
パズル
 

旗日なので、ある家族のお父さんは長椅子に寝転んで、好きな雑誌を読んでいました。三歳の可愛い娘さんはチョロチョロ長椅子に上ったり下りたり、お父さんにとって汚れなき悪戯っ子は邪魔になっていました。

 
お父さんが自分の方に向いてくれるように:「ねぇねぇパパ、アメリカという国はどんな形なの?」と言って、お父さんのお腹の上に乗ったのです。 お父さんが読んでいた雑誌の一枚のぺージにはアメリカの地図があったので、それを雑誌から破って、散り紙にして、愛らしい自分の娘にそれを渡して「隣の部屋へ行って、この散り紙を正しく合わせたら、アメリカの形が表れてくる」と言いました。そのパズルが出来上がるのに大分時間が掛かるだろうと安心して雑誌を読み続けた。しかし3分立たないうちに子供は嬉しそうな顔をして、セロテープできちんと繋がったアメリカの地図を持って来ました。見事に出来上がっていました。お父さんは不思議に思って「早くできたね、信じられない!」と言いました。 無邪気な悪戯っ子は、アメリカの地図の裏を見せながら「ほら、パパからもらった紙の裏に大きなイエズス様の顔のご絵が載っていたから、それを見ながら簡単に散り紙を合わせる事ができたの!」
 
私達は毎日、家族、親子、職場、国、世界で困難、不満、失望、いらいらしたりして「これで良いのだろうか」と物足りなさを感じることがないでしょうか。
アブラハムをはじめ、モ―ぜ、イザヤとエレミア預言者、イエズスの弟子と数え切れない程の聖人たちも同じ不満を感じた。皆に神は同じ答えをしました「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる」。
 
 
 

From AsiaNews.it
26/09/2018, 11.15GIAPPONE
Fra’ Narciso Cavazzola, 53 anni di missione nell’Hokkaido
È direttore di un asilo, responsabile di due parrocchie, ha fondato un centro per gli alcolisti e sostiene i ragazzi che soffrono di depressione. Arriva in Giappone a 25 anni ed è costretto a “rinascere a un nuovo mondo”. Battezza molti giapponesi, e tre di questi entrano in seminario. “Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede, anche se non si sente con le parole”. Una sola parola per definire i suoi 53 anni in Giappone: “Grazie, affido il futuro a Dio”.





Sunagawa (AsiaNews) – Direttore d’asilo, responsabile di due parrocchie a Sunagawa, sostegno per giovani in difficoltà e una porta aperta per le persone che soffrono d’alcolismo. Sono solo alcune delle numerose esperienze vissute da fra’ Narciso Cavazzola, francescano, in Giappone da 53 anni.
Nel luglio del 1965, il giovane fra’ Cavazzola ha 25 anni. “Quando sono arrivato in Giappone avevo 25 anni e una mentalità occidentale. I giapponesi capiscono con il sentimento, il cuore. Ho dovuto dimenticare tutto quello che avevo imparato fino all’età di 25 anni e ‘rinascere’ a un nuovo mondo.” Senza dimenticare il problema della lingua giapponese. “A lungo mi sono chiesto se avrei mai davvero imparato come parlare con questa gente”.
Il missionario svolge le sue attività soprattutto nell’isola settentrionale di Hokkaido, nel nord-est. Qui insegna italiano, inglese e pianoforte – e si appassiona alla danza giapponese. Battezza molte persone, tre delle quali hanno scelto la via del seminario. “Tengo ciascuno di loro nelle mie preghiere”.
“Come direttore dell’asilo – afferma il francescano – ho avuto occasione di conoscere tante famiglie. Tante esperienze, su cui ho scritto cinque libri. Una che mi ha colpito molto è stata quella con gli alcolisti anonimi. Noi forniamo i locali, si radunano due volte a settimana, dalle sette di sera alle otto e mezza. Tempo fa, fra questi c’era un Ainu [minoranza etnica giapponese, in passato perseguitata, ndr]. L’alcool gli faceva vedere cose che non esistono, spaventose. Vedeva il nazista Rommel, immaginava i lampioni della luce che lo inseguivano. Con questa agonia, è andato all’ospedale, dove gli hanno consigliato di venire alle riunioni in Chiesa”. Grazie al sostegno del gruppo degli alcolisti anonimi, riesce a liberarsi dalla dipendenza, che gli lascia un vuoto e una domanda di senso della vita. Una richiesta a cui trova risposta nella Bibbia, regalatagli dal missionario.
 
“I bambini guardano fisso negli occhi – continua il missionario –  Una volta, un bambino mi ha domandato: ‘Le piace la sua faccia?’. Mi ha colto di sorpresa! Così, con un po’ di furbizia, gli ho detto: ‘E a te, piace la tua faccia?’. Lui, tutto sorridente, risponde, ‘Sì, questa faccia perché me l'ha fatta la mia mamma e il Buon Dio’. Dai bambini si possono imparare tante cose”.
 
Nei 53 anni di servizio, fra Cavazzola viene a contatto con alcuni giovani in difficoltà, fra cui tre ragazze che soffrono di agorafobia. “Una di loro aveva tentato 16 volte di suicidarsi. Io le seguivo, tenendomi in contatto con il loro medico, che mi diceva di incoraggiarle. Dopo tre anni, sono tornate a scuola. Tutte e tre si sono sposate ed hanno figli”. Seppure non battezzate, le giovani rispettano la Chiesa per la gratuità del sostegno ricevuto dal missionario.
 
“Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede anche se non si sente con le parole”. Fra Cavazzola ricorda un missionario anziano che non sapeva parlare giapponese. Ogni settimana, egli faceva catechismo a un giapponese che voleva battezzarsi. “Alla festa per il suo battesimo, l’uomo gli ha detto: ’Padre, la ringrazio dell’anno che ha speso per me, però devo confidarle: lei parlava come poteva, ma io non ho mai capito niente di quello che diceva. Sia tranquillo, ho visto che parlava con tanta sicurezza che quello che diceva doveva essere vero’. Io forse parlo giapponese meglio di quel sacerdote, ma è la stessa cosa: la fede si trasmette se si vede. Il mio passo preferito del Vangelo è ‘Beati i poveri di spirito’, perché non pretendono di fare con le proprie forze, ma chiedono a Dio di far uso di loro. La forza di propagare la fede non è in me, ma è Dio che lavora attraverso me”.
 
“Il mio venire in Giappone – conclude il francescano – è stata una chiamata da parte del Signore. Di questi 50 anni, dovrei solo dire una parola: grazie. Grazie di tutto, del passato, delle esperienze, delle sofferenze, di tutte le persone che mi hanno voluto bene e di quelle che mi hanno fatto patire. Per quanto riguarda il presente, cerco di fare del mio meglio. Il futuro è nelle mani di Dio, e lo lasciamo a Lui”.
 
 

 

 

 

 

 
 

 

 
福音宣教100年記念 
 9月4日札幌で北海道の司教区100年記念を全国の司教様方とたくさんの信徒で祝います。この100年間神様しか知らない大勢の人が、この北海道で神の国を広げるために汗を流し、試練を受け、命を掛けたか。神は一人も残らずご存じなのです。この方々のお陰で私達は洗礼を始め、罪の許しの秘跡とその後の5つの秘跡に与かる事が出来ます。せめて彼らの働きと犠牲が無駄にならないように私たちは信仰を守り出来るだけ広げるように努めたいと思います。
 
 また、10月2日光明社の100年記念になります。カトリック聖歌集を始め、祈りの手引き、カトリックとキリスト教の関係の本を私たちの玄関の前まで届け、またカトリック幼稚園に通っている子供の為に解りやすい絵本、家庭祭壇に飾る十字架、聖母のご像、ロザリオなど信仰を支える様々なものを準備してくれました。これから先100年200年も続くようにと祈りを込めて光明社の100年記念をお祝いします。

 

「五本指の祈り」 
 
教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くの
に用いたものです。
 
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。

1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たち
のために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのため
です。

2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人
たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の
教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支え
と知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出
してお祈りしてください。

3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指
を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、
会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってく
ださい。こうした人たちは
わたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要
です。

4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いか
もしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、ある
いは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを
忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。こ
の方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたち
を招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神
さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教え
ます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、
自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のため
に祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができ
のです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
2013年11月25日月曜日

「五本指の祈り」
 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。
それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。
 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。
 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。  また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。
 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。
書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。
 

 
神様、どこにいるの?
 

子供はささやいた:「神さま、私に話して
下さいい」。直ぐ、木の枝からヒバリは綺麗な声
で鳴いたが子供はその鳴き声
を聞いていても神の声だと知らなかった。 子供が怒るように「神様、話して下さい、僕に!」 雷鳴が空の雲から大きな音を出して、鳴った、
しかし、子供はそれも神の
声だと思わなかった。 子供は周りを見て、言った: 「神様、私に御顔を見せて下さい!」
そして
すぐに星が夕空に明るく輝いた。しかし、 子供にはその星は神の顔だと気づきま せんでした。
子供はまた叫んだ: 「神さま、一つの奇跡を見せて下さい!」 その時木の芽が出て生命が生まれたが、子供は その生命を奇跡として認めなかった。
そこで子供は絶望して
叫んだ:「神さま、あなたはこ こいると解る為に僕の  顔に触れて下さい!」 神様は蝶となり天から下ってすぐ子供に 触れた。
しかし子供は蝶を追い払って、神様が触れてくれたと解らずに歩いていた。
 
Ravindra Kumar Karnani
 

 
パズル
 

旗日なので、ある家族のお父さんは長椅子に寝転んで、好きな雑誌を読んでいました。三歳の可愛い娘さんはチョロチョロ長椅子に上ったり下りたり、お父さんにとって汚れなき悪戯っ子は邪魔になっていました。

 
お父さんが自分の方に向いてくれるように:「ねぇねぇパパ、アメリカという国はどんな形なの?」と言って、お父さんのお腹の上に乗ったのです。 お父さんが読んでいた雑誌の一枚のぺージにはアメリカの地図があったので、それを雑誌から破って、散り紙にして、愛らしい自分の娘にそれを渡して「隣の部屋へ行って、この散り紙を正しく合わせたら、アメリカの形が表れてくる」と言いました。そのパズルが出来上がるのに大分時間が掛かるだろうと安心して雑誌を読み続けた。しかし3分立たないうちに子供は嬉しそうな顔をして、セロテープできちんと繋がったアメリカの地図を持って来ました。見事に出来上がっていました。お父さんは不思議に思って「早くできたね、信じられない!」と言いました。 無邪気な悪戯っ子は、アメリカの地図の裏を見せながら「ほら、パパからもらった紙の裏に大きなイエズス様の顔のご絵が載っていたから、それを見ながら簡単に散り紙を合わせる事ができたの!」
 
私達は毎日、家族、親子、職場、国、世界で困難、不満、失望、いらいらしたりして「これで良いのだろうか」と物足りなさを感じることがないでしょうか。
アブラハムをはじめ、モ―ぜ、イザヤとエレミア預言者、イエズスの弟子と数え切れない程の聖人たちも同じ不満を感じた。皆に神は同じ答えをしました「恐れるな、私はいつもあなたと共にいる」。
 
 
 

From AsiaNews.it
26/09/2018, 11.15GIAPPONE
Fra’ Narciso Cavazzola, 53 anni di missione nell’Hokkaido
È direttore di un asilo, responsabile di due parrocchie, ha fondato un centro per gli alcolisti e sostiene i ragazzi che soffrono di depressione. Arriva in Giappone a 25 anni ed è costretto a “rinascere a un nuovo mondo”. Battezza molti giapponesi, e tre di questi entrano in seminario. “Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede, anche se non si sente con le parole”. Una sola parola per definire i suoi 53 anni in Giappone: “Grazie, affido il futuro a Dio”.





Sunagawa (AsiaNews) – Direttore d’asilo, responsabile di due parrocchie a Sunagawa, sostegno per giovani in difficoltà e una porta aperta per le persone che soffrono d’alcolismo. Sono solo alcune delle numerose esperienze vissute da fra’ Narciso Cavazzola, francescano, in Giappone da 53 anni.
Nel luglio del 1965, il giovane fra’ Cavazzola ha 25 anni. “Quando sono arrivato in Giappone avevo 25 anni e una mentalità occidentale. I giapponesi capiscono con il sentimento, il cuore. Ho dovuto dimenticare tutto quello che avevo imparato fino all’età di 25 anni e ‘rinascere’ a un nuovo mondo.” Senza dimenticare il problema della lingua giapponese. “A lungo mi sono chiesto se avrei mai davvero imparato come parlare con questa gente”.
Il missionario svolge le sue attività soprattutto nell’isola settentrionale di Hokkaido, nel nord-est. Qui insegna italiano, inglese e pianoforte – e si appassiona alla danza giapponese. Battezza molte persone, tre delle quali hanno scelto la via del seminario. “Tengo ciascuno di loro nelle mie preghiere”.
“Come direttore dell’asilo – afferma il francescano – ho avuto occasione di conoscere tante famiglie. Tante esperienze, su cui ho scritto cinque libri. Una che mi ha colpito molto è stata quella con gli alcolisti anonimi. Noi forniamo i locali, si radunano due volte a settimana, dalle sette di sera alle otto e mezza. Tempo fa, fra questi c’era un Ainu [minoranza etnica giapponese, in passato perseguitata, ndr]. L’alcool gli faceva vedere cose che non esistono, spaventose. Vedeva il nazista Rommel, immaginava i lampioni della luce che lo inseguivano. Con questa agonia, è andato all’ospedale, dove gli hanno consigliato di venire alle riunioni in Chiesa”. Grazie al sostegno del gruppo degli alcolisti anonimi, riesce a liberarsi dalla dipendenza, che gli lascia un vuoto e una domanda di senso della vita. Una richiesta a cui trova risposta nella Bibbia, regalatagli dal missionario.
 
“I bambini guardano fisso negli occhi – continua il missionario –  Una volta, un bambino mi ha domandato: ‘Le piace la sua faccia?’. Mi ha colto di sorpresa! Così, con un po’ di furbizia, gli ho detto: ‘E a te, piace la tua faccia?’. Lui, tutto sorridente, risponde, ‘Sì, questa faccia perché me l'ha fatta la mia mamma e il Buon Dio’. Dai bambini si possono imparare tante cose”.
 
Nei 53 anni di servizio, fra Cavazzola viene a contatto con alcuni giovani in difficoltà, fra cui tre ragazze che soffrono di agorafobia. “Una di loro aveva tentato 16 volte di suicidarsi. Io le seguivo, tenendomi in contatto con il loro medico, che mi diceva di incoraggiarle. Dopo tre anni, sono tornate a scuola. Tutte e tre si sono sposate ed hanno figli”. Seppure non battezzate, le giovani rispettano la Chiesa per la gratuità del sostegno ricevuto dal missionario.
 
“Non è la bravura del missionario che attrae: è la sua fede, la fede che si vede anche se non si sente con le parole”. Fra Cavazzola ricorda un missionario anziano che non sapeva parlare giapponese. Ogni settimana, egli faceva catechismo a un giapponese che voleva battezzarsi. “Alla festa per il suo battesimo, l’uomo gli ha detto: ’Padre, la ringrazio dell’anno che ha speso per me, però devo confidarle: lei parlava come poteva, ma io non ho mai capito niente di quello che diceva. Sia tranquillo, ho visto che parlava con tanta sicurezza che quello che diceva doveva essere vero’. Io forse parlo giapponese meglio di quel sacerdote, ma è la stessa cosa: la fede si trasmette se si vede. Il mio passo preferito del Vangelo è ‘Beati i poveri di spirito’, perché non pretendono di fare con le proprie forze, ma chiedono a Dio di far uso di loro. La forza di propagare la fede non è in me, ma è Dio che lavora attraverso me”.
 
“Il mio venire in Giappone – conclude il francescano – è stata una chiamata da parte del Signore. Di questi 50 anni, dovrei solo dire una parola: grazie. Grazie di tutto, del passato, delle esperienze, delle sofferenze, di tutte le persone che mi hanno voluto bene e di quelle che mi hanno fatto patire. Per quanto riguarda il presente, cerco di fare del mio meglio. Il futuro è nelle mani di Dio, e lo lasciamo a Lui”.
 
 

“Euntes ibant et flebant, mittentes semina sua. Venientes autem venient cum exsultatione, portantes manipulos suos”(Ps.126).
Nel 1953 il Segretario delle Missioni dell’Ordine,P.Alfonso Snusemberg,mandava 9 frati, reduci dalla Cina ed appartenenti alla Provincia di S.Antonio, nel Nord est dell’Hokkaido a continuare la Missione iniziata dai frati della Provincia di Fulda.
Le risorse dell’’Hokkaido, la cui superfice e’ di 83,453,57 kilomtri quadrati ,sono la pesca.l’agricoltura e l’allevamento del bestiame.
L’isola e’ relativamente poco popolata con solo 5,377,435 di abitanti (30 Sett.2016 )(64.5 km.quadrati).per la rigidita’ del clima (In alcuni posti va‘ anche a 40 sotto zero) e per il lungo inverno (Novembre Marzo) con abbondanti nevicate.
Il P.Alfonso Snusemberg da buon Tedesco:,”Est frigidus, sed sunt carbones”.In altre parole “Fa’ freddo ma riscaldatevi con il carbone” che al tempo si estraeva abbondantemente dalle miniere che andavano anche 10 kilometri sotto l’Oceano Pacifico.
Il Giappone non si era ancora ripreso dalla sconfitta nella seconda guerra mondiale.L’educazione nelle scuole era basata sulla divinita’ dell’’Imperatore e quindi il Giappone,si pensava,che fosse imbattibile.Fu un momento propizio per i nostri missionari.
Costruzioni di Chiese ed asili cattolici,furono seguiti da battesimi che si contavano a centinaia in un solo anno.
Con il Generale ofm Fr.Herman,le 24 fondazioni francescane missionarie furono riunite in Custodia e piu’ tardi nella Provincia dei “Santi Martiri del Giappone”.
Sono 53 anni che sono venuto in Giappone; per l’esattezza nel Luglio del 1965.La lingua e’ certamente una barriera:per poter comunicare mi ci sono voluti piu’ di dieci anni.Mi sono convinto che per parlare la lingua non e’ sufficiente la grammatica,ma e’ necessario conoscere la cultura i costumi e il modo di vivere delle persone .Ci sono stati anche momenti che ho pensato che non avrei mai imparato a comunicare con i Giapponesi.
Io ho svolto la mia attivita’ principalmente nel Nord est dell’Hookaido,il territtorio che fu affidato ai frati Veneti dal P.Alfonso Snusemberg.Per avvicinare la gente ho insegnato Italiano, Inglese e pianoforte.Mi sono impegnato anche nella danza Giapponese.
Questi incontri si sono mostrati fruttuosi e ho avuto l’occasione di portare al Battesimo molti adulti.Tra questi ho indirizzato in seminario tre persone:l’ultimo sara’ ordinato sacerdote il prossimo anno.Sono tutte vocazioni adulte.Uno di loro era sposato con figli:dopo la morte della moglie di 40 anni, e’ entrato in Seminario e ordinate sacerdote..Ora occupa una posizione importante nella Diocesi di Sapporo.
Da quattro anni sono nel Sud Ovest del Giappone dove principamente hanno svolto la loro attivita’ I Francescani di Fulda.Sono parroco di due chiese e Direttore di un Asilo.Sunagawa, Takikawa e Bibai erano citta’ minerarie e molto popolate,ma con la chiusura delle miniere la popolazione si e’ spostata altrove per cercare lavoro..
Ho avuto l’occasione di fondare vari gruppi AA(Alcolizzati Anonimi).Ho cooperato anche con un medico (non cattolico) che piu’ che con le medicine, cerca di riabilitare i depressi specialmente tra giovani con dialogo.Il medico era convinto che un italiano con suo buon umore e la sua religione di speranza fosse piu’ efficente delle medicine.
“Messis quidem multa, operarii autem pauci” (Mat.9,37)
Qui voglio ricordare Il P.Carissimo Londero,deceduto l’anno scorso.Prima di morire aveva lasciato il suo testament nel PC. “Sul passato non ho che da ringraziare il Buon Dio!Su quello che dora’ accadere nel prossimo futuro,sono sempre pronto”.